メコン圏理解に有用な中国語書籍・文献

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本書巻頭の
掲載写真・資料

 
▼中華民国締造者
孫中山

▼清末時局図

▼同盟会雲南支部機関刊物-《雲南》雑誌

▼1906年、孫中山が日本で《雲南》雑誌の為に記した 題詞

▼滇軍首任統帥蔡鍔

▼滇軍第二任統帥唐継堯

▼滇軍第三任統帥龍雲

▼滇軍第四任統帥盧漢

 

 

 

本書第2章
掲載写真・資料

 

▼雲南陸軍講武堂監督

 (後に総辦)の李根源

▼雲南陸軍講武学堂大門

朱徳と雲南陸軍講武堂同学

▼青年時代の龍雲

 

 

 

本書第3章
掲載写真・資料

 

▼昆明辛亥起義臨時総指揮蔡鍔 

▼五華山を攻めるための臨時指揮部・雲南貢院

▼辛亥昆明起義後の雲南軍都督府所在地

  ー 光復楼(現在の五華山雲南省人民政府公庁所在地)

▼辛亥雲南騰越滇西起義

領導人・張文光

▼滇軍西征軍司令官殷承瓛

▼朱徳が辛亥雲南起義を

記念して書いた詩

▼辛亥雲南起義成功後、

授与された各種の記念章

 

 

本書第4章
掲載写真・資料

 

▼密謀称帝の袁世凱

▼袁世凱が日本に対し批准した”二十一条”

▼”籌安会”責任者の
楊度

▼反袁闘争の策謀に参画した籍老同盟会員・
呂志伊

▼護国軍第一軍総司令

     蔡鍔

▼護国軍第一軍総参謀長

     羅佩金 

▼護国軍第二軍総司令

     李烈鈞

▼護国軍雲南都督兼

 第三軍総司令・唐継堯  

▼護国挺進軍司令・
黄毓成

▼護国軍軍需局

▼雲南省会警察庁

▼護国第一軍司令部

▼雲南陸軍憲兵司令部

 

 

 

本書第5章
掲載写真・資料

 

▼護国第一軍梯団長・
劉雲峰

▼挺進川南の護国第一軍

支隊長・鄧泰中

▼挺進川南の護国第一軍

    支隊長・楊蓁

▼四川将軍・陳宦

蔡鍔李曰垓など

護国軍高級軍官合同写真

▼広東将軍・龍済光

▼護国軍全国起義形勢図


        第7回
    
民国勁旅 滇軍風雲   前編

     

 

       謝本書 著、雲南人民出版社

       2004年5月 発行

         

           

           

 

 

 本書は、中華民国時期(1912年~1949年)の雲南軍たる滇軍に関する歴史書で、清朝末期の雲南新軍編成や雲南陸軍講武堂開校の時期から、1949年12月の盧漢起義、1950年2月の解放軍の昆明入城・雲南解放までの20世紀前半期における雲南軍の歴史を、全15編に分けて解説している。民国時期、反袁護国戦争や反蒋”一二・一”運動、抗日戦争や西南地区の解放など、中国の近代史における雲南の役割は非常に重要であったが、その中でも中華民国時期に、蔡鍔(1882年~1916年)、唐継堯(1883年~1927年)、龍雲(1884年~1962年)、盧漢(1895年~1974年)と、雲南地方実力派が組織編制し指揮し、中央から相対的に独立し「勁旅」(精鋭な軍隊)であった滇軍は、その歴史的役割は大きかったといえる。

 著者の謝本書氏は、長らく中華民国史研究に関わり、特に民国軍事史、西南軍閥史に造詣が深く、雲南民族大学教授で中国史学会理事、雲南省中国近代史学会顧問を務められている研究者。著書には、『袁世凱と北洋軍閥』、『西南軍閥史』(共著)、『蒋介石と西南地方実力派』(共著)、『蔡鍔伝』、『龍雲伝』、『唐継堯評伝』、『護国運動史』などがあり、まさに本書執筆の最適任者であろう。歴史の証言たる貴重な写真や資料の掲載も少なくなく、巻末には附録として、「滇軍史大事記」と主要参考文献リストが付されている。

 

 滇軍史の解説は、第2編から始まっており、辛亥革命時期に形成された滇軍の前身が清末の新軍で、清末新軍が滇軍に進化する上で、雲南陸軍講武堂が大きな役割を担ったとして、第2編では、清朝末期の新軍建立の背景と経緯、雲南での新軍建立の動きと陸軍第19鎮の新設、更に1909年に開校した雲南陸軍講武堂について書かれている。雲南陸軍講武堂の歴史発展において最も重要な役割を果たしたのが、学校の教育長、後に校長になった雲南騰沖人の李根源(1879年~1965年)。雲南陸軍講武堂は数多くの傑出人物を養成したが、その代表的な人物が中華人民共和国元帥の朱徳で、朱徳の陸軍講武堂にまつわるエピソードが紹介されている。さらに面白いのは、後に雲南省政府主席となる龍雲(1884年~1962年)の講武堂卒業前のエピソードだ。こちらの話は中華民国初期の1914年秋の話でフランス人レスラーを負かした話であるが、掲載されている青年時代の龍雲の写真が、とても凛々しいハンサムな好青年に写っている。

 

 1909年末、元広西巡撫・李経羲が雲貴総督に任じられ、李経羲は陸軍第19鎮総参議・靳雲鵬の独断専行に対し、自分が信任できる人材を物色し、李根源と陸軍小学堂総辦(校長)の羅佩金の推薦で、広西で軍職に就いていた蔡鍔が1911年3月、雲南に転任となる。同年7月、蔡鍔は新軍第19鎮第37協協統となり、1911年10月10日の辛亥武昌起義に触発されて革命派によって秘密裏に準備された昆明起義の臨時総司令に推され、1911年10月30日、辛亥雲南昆明重九起義を起こす。この辛亥昆明起義の成功後、1911年11月1日、雲南軍政府が成立し、蔡鍔が軍政府都督となる。1882年生まれの蔡鍔は、この時、弱冠29歳であった。第3章では、もちろん激しい戦闘が行われた辛亥昆明起義の経緯にも詳しいが、蔡鍔が雲南都督になった後の平時の微笑ましいエピソードも収められている。

 

 雲南陸軍講武堂の元総辦(校長)で辛亥昆明起義の主要リーダーの1人であった李根源は、辛亥昆明起義の成功後、辛亥雲南軍政府軍政部長兼参議院院長に任じられているが、滇西問題の処理のために迤西国民軍総司令兼第二師師長と軍の高級将校に任じられている。この滇西問題とは、辛亥昆明起義の数日前に雲南西部のビルマ国境近くの騰越(現在の騰冲)で起こった張文光(1882年~1914年)率いる騰越起義(1911年10月27日)成功後に成立した張文光を首班とする滇西軍都督府は、革命戦果を広げ雲南省全土での起義を進めるために大理に向け派兵するも、昆明起義後に大理新軍が昆明に呼応したことを知らずに大理に進攻し武力衝突が起こり混乱を引き起こした問題だ。

 

 辛亥期間、滇軍は四川、貴州だけでなく、1912年、英国が侵略を強めていたチベットにも出兵をしている。(雲南軍政府参謀長総長・殷承瓛が滇軍西征軍司令官)。第3章5で、雲南軍政府軍政、参謀両部次長の唐継堯(1883年~1927年)を司令とする雲南北伐軍の貴州出兵について解説があるが、ここで、当時の貴州の複雑な状況や、唐継堯と蔡鍔との微妙な関係、貴州内部の争いに乗じ唐継堯が易々と貴州都督の職位を奪取する経緯などを知ることができる。

 

 清帝退位し清朝滅亡後(1912年2月)、北京で中華民国臨時大総統に就任した袁世凱は、独裁専制を進め、袁世凱を武力討伐しようとする第2革命(1913年7月から9月)も圧殺し、1913年10月、袁世凱が正式に大総統に就任し、専制君主への道を進めていた。1913年9月、袁世凱は蔡鍔を北京に転任させることにし、蔡鍔は昆明を離れる前に、貴州都督の唐継堯を雲南都督に推し袁世凱の批准を得て、唐継堯が昆明に戻ることになる。当初、袁世凱に幻想を抱き北京で袁世凱を支えようとしていた蔡鍔ではあったが、独裁を強め帝制を進める袁世凱に大いに失望し、反袁闘争を進めることになる。北京政府の厳しい監視の目をごまかしながらの梁啓超との密談や、北京から日本、上海、台湾、香港、ベトナムを経て1915年12月、秘密会談を行い袁世凱武力討伐の起義を準備していた滇軍の雲南に密かに戻る行程は、大変ドラマチックな話だ。

 蔡鍔が昆明に戻り、唐継堯とともに滇軍軍官や各派の反袁の人たちと、12月21日、22日と続けて秘密会談を持ち、袁世凱討伐の護国戦争を発動することを決定。12月23日に袁世凱に帝制取消を電報で要求し、回答期限までに袁世凱の返事がなく、1915年12月25日、雲南は独立を宣言し、袁世凱討伐の護国軍を組織。四川、貴州、広西・広東に道を分けて進撃していく。雲南が火ぶたを切った第3革命で、1916年3月22日、袁世凱はついに帝制を取り消さざるをえなくなり、無念のまま、1916年6月6日、袁世凱が死去し、ここに護国戦争が終結することになる。護国戦争発動前の準備期と護国軍の進軍の状況については、本書第4章・第5章に詳しいが、1916年をもって中華帝国洪憲元年とし、1月1日から帝制を実施することにしていた袁世凱の野望を直前で粉砕した蔡鍔や唐継堯ら滇軍軍官の歴史的役割は非常に大きく、国難の事態に対しての蔡鍔個人の行動には興味は尽きないが、護国運動が雲南の決起から拡がったという事も、大いに注目したい。

    目録(本書の目次)   15編中、最初の5編