日本軍関係

     メコン圏と大東亜戦争関連書籍    第2回

 

                    

  

  『壮烈!ビルマ・インパール』

 

        <太平洋戦争ハイライトシリーズ>

 

    棟田 博 著

    学習研究社、1972年8月発行

 

     

 

 

 本書タイトルに「壮烈!ビルマ・インパール」とあるが、本書は何もインパール戦に限る内容ではなく、広くビルマ戦線の記録をまとめたものとなっている。本書は学研によるシリーズ「太平洋戦争ハイライト」全10巻のうちの1巻。以下の目次の通り、10章から成っているが、写真が多数掲載されているだけでなく(掲載写真のキャプションは下記参照)、文体、頁の組段レイアウトや1行の文字数のためか、非常に気軽に読み進めることができる本だ。

 

 前回紹介の「ビルマ大ジャングル戦」は、日本軍の視点からほぼ時系列的に日本軍のビルマ進攻からビルマ戦線を語るが、本書はいろんな角度から見たビルマ戦線が記されている。まず冒頭がイギリスの貨物船「スタンホール号」の話で、どんな話なのだろうといきなり興味を惹き付けられてしまう。1938年12月、イギリスの貨物船「スタンホール号」6000トンが、黒海のソ連領の港オデッサで、兵器と弾薬を積み荷し、内戦の最中であったスペインに向うのかと思いきや、オデッサを離れた後に船長は航海士に変針を命じ、船の本当の目的地がビルマのラングーンであることを打ち明けた。この貨物船が開通したばかりの滇緬公路(援蒋ビルマ・ルート)をはじめて通る軍需物資を積んでいた。

 

 「南機関」の活躍ぶりも冒頭の第1章に紹介されているが、日本軍のビルマ進撃にあたってのB・I・A(ビルマ独立義勇軍)の活躍が随所に登場する。第15軍主力がタイのメソットから、けもの道を分け入って国境中央部を突破していく上での案内、タイのカンチャナブリから英印軍の第一線のビルマ領タボイの町を占領しようと進出してきた沖支隊にタボイの英印軍の陣地の様子を知らせにきたこと、サルウィン河の深浅をよく知るB・I・Aが浅瀬を案内して渡河させたこと、モールメンの背後のパゴダ(仏塔)の丘の上の英印軍の野砲陣地に対し地元出身のB・I・Aが日本軍の突撃隊を登りやすい場所へ手引きしたこと、日本軍のモールメン占領後にラングーンに"日本軍の大軍団が三方か、また海上からも近づきつつある”という噂を街でながすなど。日本軍のラングーン占領(1942年3月8日)後のラングーン入城式(3月10日)でラングーン市民を熱狂させたのは、オンサンを先頭にしたB・I・Aの行進であった。

 

 その後の日本軍の進撃は信じられない速いスピードで進み、1942年5月1日にはマンダレーが陥落し、羅卓英将軍率いる中国軍や、アレキサンダー大将率いる英印軍はそれぞれ国境を越えて雲南省、インド領へと逃げ去ることになる。ニューヨークタイムブ特派員のジャック・ベルデンの『マンダレー失陥記』からの文章も掲載されている。しかし翌1943年初には、カサブランカでアメリカのルーズベルト大統領と、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が会同し、将来の米英協同作戦について協議が行なわれ、このときビルマ奪還の戦略が決定した。そしてチャーチル首相によって東南アジア軍総司令官に任命されたサー・マウントバッテン将軍が、インド軍司令官を交代させるが、新たに任命されたギファード大将が、ビルマ奪還の基地に、ビルマと国境を接するアッサム州のマニプール盆地のほぼ中心に位置するインパールの地を選び、そこに戦闘司令所を推進する。こうしてそれまでインドの片田舎で無名に近かった町がにわかに騒がしくなっていく。

 

 米英支連合軍の大反攻作戦が展開されていく中で、敵の反攻を待たずにこちらから出撃しようという「攻撃防御」論が牟田口中将により主張され、余りにも有名な「インパール作戦」(ウ号作戦)が進められることになる。本書は題名に「インパール」と付けていて、このビルマ戦線の中でもあまりに壮烈な戦闘となったこの作戦について本書でも、第18師団(田中新一中将が師団長)が奮戦したフーコン地区の死闘、第56師団の歩兵団長水上源蔵少将が悲壮の自決を遂げることとなったミートキーナ篭城戦、拉孟、騰越の守備隊が玉砕する雲南地区での戦闘、牟田口軍司令官率いる第15軍の3個師団(第31師団、第15師団、第33師団)によるインパール作戦の悲劇、シッタン突破作戦と、悲劇の戦闘についても、本書の半分以上と十分に頁を割いて述べられている。

 

 激しい戦闘展開だけに限らない興味深いエピソードもいろいろと紹介されている。桜井省三中将が陥落させたビルマ第一の石油の宝庫エナンジョンに日本軍戦死者の碑とならべて、勇敢だった英印軍の将兵のために同じように建てた碑「英印軍無名戦士の碑」が、終戦後の1945年10月、東南アジア軍総司令官マウントバッテン将軍を感動させたこと。1943年4月のアフリカ南端のマダカスカル島の沖合いで日本とドイツの潜水艦がドッキングして、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラー・ボースを受け渡す作戦。タイ国内のインド独立運動の指導者たちと組み作戦を展開する「F」機関の活躍。岩畔少将の創案になる謀略特攻隊「策疾風隊」の訓練と活躍ぶり。東京オリンピックで金メダルを獲得した全日本女子バレーチーム監督として有名な大松博文氏も、当時、中尉としてインパール作戦に加わる『烈』兵団の輜重隊中隊長であったこと、などについても書かれている。

 

 ビルマ国防軍の反乱、日本軍のビルマ方面軍のラングーン放棄と、ビルマ戦線の崩壊は決定的となるが、容易な撤退とはならなかった。特に悲惨を極めたのは、ビルマ方面軍のラングーン放棄(1945年4月27日夜半)によって、イラワジ以西地区に取り残された、第28軍(「策集団」)の敵中突破の長距離退却作戦だ。「戦いの悲惨さとむなしさ」と題した本書の最終章では、さながら地獄図の様相が描かれている。策集団桜井省三中将が、この退却で多数の兵を失い、方面軍司令部が退却していたモールメンにたどり着いたのは、終戦4日目のことであった。

 

  1. 「ビルマ」方面兵力ノ最高約26万。

   2. 「ビルマ」ヨリ復員シタ兵力約7万。

   3. 終戦前「タイ」「仏印」方面に転進シタ兵力ハ約4万ナイシ5万。

   4. 戦病死オヨビユクエ不明ノ人員ハ約14,5万。

   5. 第一線歩兵部隊ノ平均損耗(内地ヨリノ補充兵ヲフクム)約70%。

   6. 師団兵力ノ定員2万名ニ対シテ生存人員ハ平均約4000名。

 

 

            本書の目次 

 

         1.  ビルマの若き志士たち

             ビルマ・ルートの開通/ビルマ人のビルマを

             2人の志士をさがせ/”南機関”の活動開始

             誕生した”ビルマ独立義勇軍”

     2.  はためく三色孔雀旗

             一路ラングーンめざして/要衝ぺグーの陥落

             ラングーンにのぼる朝日/無名戦士の碑

             マンダレーへの進撃/三色孔雀旗の歌

    3.  インドにむかって吹く風

             進む連合軍の反撃準備/独潜水艦から降りたインド人

             インド独立の父・ボース/「F」旗のもとにあつまれ

    4.  弓・祭・烈兵団、苦難の進撃

             ああ、加藤隼戦闘隊/「ウ号」作戦の開始

             50キロを背負って/「エレファント・ビル」をさがせ

             米式装備重慶軍の活躍/ウインゲート空挺団

             駄牛中隊の苦闘/のろまのウシに泣く

             虎の子連隊をうしなう/「烈」「祭」兵団の苦闘

             兵団長の首のすげかえ

    5.  ああインパール陥ちず

             ついにコヒマを占領/猛烈な英印軍の反撃

             悲惨なコヒマの戦況/「烈」兵団の抗命撤退

             別れのおけさ節/日本軍の白骨街道

             牟田口中将ビルマを去る

    6.  落日のなかに戦う

             ミートキーナを死守せよ/とどいた”香典と弔詞”

             水上少将の自決/雲南は龍兵団の練兵場

             守備隊長金光恵次郎少佐/敵攻撃部隊を撃滅

             がんばる日本軍将兵/ロケット砲登場

    7.  満身創痍の日本軍

             もう手おくれだ/拉孟守備隊の最後

             木下中尉一行の生還/騰越守備隊もあやうし

             われ軍旗を焼く/700キロの海岸線/秘密戦士の活躍

             疾風隊、ビルマ全土に散る

    8.  日本軍の腹背にせまる敵

             ガソリンがほしい/ガソリン満載車敵中を突破す

             ビルマ国防軍司令官オンサン/政治情報団の暗躍

             イラワジ河畔に敵軍せまる/英印軍、メークテーラへ

             オンサン将軍、反乱す

    9.  明暗、勝者と敗者

             狼兵団の最後/ついにラングーン放棄

             敗軍のなかで赤ん坊生まれる/ユニオンジャックの旗のぼる

             ぺグーへと草木もなびく/流浪のこじきのような日本兵

             赤城の山ごもり

    10. 戦いの悲惨さとむなしさ

             死の水中行軍/終戦を知らない日本兵

             胸にせまる戦争のむなしさ

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 ■本書掲載写真のキャプション

【表紙カバー】

 ▼車両も油も不足がちだったビルマ・インパール戦線では、重量に耐える象が重要な役割を果たした。動員した象は1000頭以上。写真は象の背に乗ってインパールの奥深く突入する日本軍。

 

【第1章】

 ▼世紀の難工事の末、多くの犠牲者をだしながらビルマ・ルートが完成した。

 ▼断崖を切りさき工事がすすむビルマ・ルート

 ▼ビルマ進撃を伝える号外

 ▼華麗な仏教寺院が建ちならぶラングーン市内。この街のかたすみで、日本軍参謀本部からやってきた鈴木大佐は、ビルマ独立運動の策を練ったのだった。

 ▼延々とのびるビルマ・ルート。中国大陸の戦いを有利にするためには、この輸血路の切断が必要であり、そのために反英ビルマ独立義勇軍の創設が必要だった。

 ▼イラワジ河を渡る英軍。ビルマ国内に独立運動を志す多くの青年がいたが、彼らに対する英軍の目はきびしく、国外脱出は非常な危険がつきまとった。

 ▼ラングーン河のサンパン。小舟にひそみ脱出をはかる志士も多かった。

 ▼海南島の三亜港の奥地の林のなかに「三亜農民訓練所」がつくられ、ここでビルマ青年たちが独立義勇軍になるための猛烈な訓練を連日連夜うけた。

 

【第2章】

 ▼蒋介石総統は、日本軍進攻を予見していた。

 ▼マレーの虎、山下奉文大将。

 ▼シアン高原の水田。一見、日本の水田地帯と錯覚しそうな、のどかなビルマの水田地帯も、やがて血で血をあらそう激しい戦場と化していくのである。

 ▼パゴダを背にシッタン河畔を行く日本兵。

 ▼激闘2日でべグーは陥落した。有名な臥像の前に立つ日本軍兵士。

 ▼「ラングーンで会おう」を合い言葉に、英軍の抵抗を排して進撃をつづける日本軍

 ▼ラングーン市内に突入し、守備をする英軍と激しい市街戦を展開する日本軍の歩兵

 ▼ラングーンに入ったB・I・A (ビルマ独立義勇軍)

 ▼ラングーン港を占領した日本軍

 ▼昭和17年3月10日、ラングーンに入城する日本軍。100年もの長いあいだビルマ人民の上に君臨していた英国人は去り、かわって同じ有色の日本人が進軍してきた。ビルマ住民は感動し、「ド・バーマー!」を連呼したのである。

 ▼マンダレーへの進撃は夜も昼もない強行軍だった。

 ▼ビルマ第一の石油宝庫「エナンジョン油田地帯」の英軍を追いはらう日本軍兵士。油田の施設を破壊してはならないと、とくに大本営から命令されていた。

 ▼マンダレー市。(1942年)5月1日に陥落した。

 ▼銃をにぎってマンダレー駅のホームをとびこえる日本軍兵士。

 ▼熱砂を踏み越えてマンダレーに迫る意気軒昂たる日本軍。

 ▼ビルマ戦線にはジャングルが多い。そこを行く日本軍。

 ▼新生ビルマ国旗の三色孔雀旗をかかげて「ド・バーマー!」を叫ぶビルマ軍

 ▼古都マンダレー市街を進軍する日本軍部隊。美しい古都の寺院のかずかずは破壊され、民家もほとんどが焼きつくされた。ビルマから英軍はいなくなったが、その犠牲も大きかったのだ。

 ▼マンダレーの王城宮殿の前を進軍する日本軍部隊。王城宮殿は小火ですみ、その庭のかたすみにはビルマネムの花が戦争を知らぬげに美しく咲いていた。

 

【第3章】

 ▼ルーズベルト大統領と米英協同作戦を協議するチャーチル英首相

 ▼日本軍のためにビルマ・ルートの輸血路が断たれたため、米英は協議して、インドのアッサムから大型輸送機に軍需物資を満載して、ヒマラヤをこえて昆明まで一気に飛ぶ「ハンプ作戦」と呼ぶ空中輸血作戦を考案したのであった。

 ▼象の背にのってジャングルをゆく

 ▼スバス・チャンドラー・ボース

 

【第4章】

 ▼乾季の到来とともに米英空軍の活躍がめざましくなり、ラングーンとマンダレー、ミートキーナをむすぶビルマの大動脈の鉄道は毎日のように爆撃をうけた。

 ▼加藤隼戦隊長も海のなかに消えた。

 ▼第2のビルマ・ルートといわれたレド公路。米英軍はこれを東京への道と称した。

 ▼米軍は連日のように空からの攻撃をくわえてきたが、日本軍は反撃できなかった

 ▼ますます増強される敵機の空爆で、日本軍の補給路は危機に直面していった。

 ▼インパールをめざして密林を行くゾウ部隊。

 ▼ビルマのジャングルに影をおとして飛行する日本軍機。しかし第5飛行師団にはすでに100機の飛行機しかなくなっていた。

 ▼竹のジャングルを行く日本軍

 ▼インパール作戦が開始されると、インド独立運動の志士たちは国民軍を組織した

 ▼国境の山岳密林作戦では象と、ウージイ(象つかい)の力が必要であった。

 ▼山岳地帯で、朝日をあびながら隊長の訓示を聞く日本兵。

 ▼(1944年)3月14日、烈兵団と祭兵団はチンドウィン河の渡河を開始した。生きて2度とこの河を渡れるか、兵たちの気持ちは複雑だった。

 ▼チンドウィン河の上流。この豊富な水が日本軍を苦しめた。

 ▼インパール攻略軍のなかには、インド国民軍も参加していた。彼らは祖国インドへ向かう感激にいさみたっていた。写真は、河に急造の橋をかけて、車両をひっぱって通すインド国民軍の兵士。

 ▼山岳密林内を行軍する日本軍部隊。

 ▼4241高地の敵重戦車群。日本軍兵士は、この重戦車に火炎ビンで体あたりするほかなかった。彼らはここを「死によい高地」と名づけていた。

 ▼戦火をのがれて、牛車で移動する原住民。戦争はいつでも住民をまきぞえにし犠牲をしいた。

 ▼原住民がモミをふるいにかけているのを見物する日本軍兵士。無邪気に遊ぶ子どもの姿があわれだ。

 

【第5章】

 ▼西へ西へと退却するイギリス軍。いまは敗走の姿であるが、反撃の決意を胸に秘めていた。

 ▼敵戦車に肉迫攻撃する日本軍。めざすコヒマは、すぐそこだ。

 ▼烈兵団の宮崎支隊長・宮崎繁三郎少将。武勇すぐれた指揮官だった。

 ▼日英両軍が死力をつくして戦ったコヒマの戦場。右にみえるのはインパール街道

 ▼敢闘むなしく日本軍の捕虜となったイギリス兵。

 ▼激戦はつづいたが、インパール作戦軍は敗色濃厚になった。

 ▼コヒマの「イヌ」高地。この高地にも日本軍幾百千の兵士が骨をうめたが、その64日間にわたる敢闘もむなしく、ついに撤退のやむなきにいたった。

 ▼大松博文さんも、列兵団の中隊長として活躍した。

 ▼進撃するときとちがい、撤退する日本軍兵士の顔は暗く、足どりも重かった。

 ▼インパールの戦場ではおおくの象部隊が活躍した。

 

【第6章】

 ▼マンダレーを攻撃する米軍機

 ▼ミートキーナの米軍と米式装備重慶軍に兵員と補給物資をはこぶ米軍のグライダー

 ▼反攻する連合軍の補給は空から行われた。輸送機の活動は戦いの明暗をわけた。

 ▼撃墜した敵機をまえに意気さかんなときもあった日本軍だったが。

 ▼拉孟を包囲した中国軍は装備も素質も優秀で、精強をうたわれる蒋介石直系の栄与第一師団を主力とする五個師団だった。兵たちには英気がみなぎっている。

 ▼ビルマのアラカン人の部落。こうした平和な部落も、つぎつぎと戦火のなかにまきこまれ、破壊されていったのだ。

 ▼わずかに飛来する日本機では大勢は挽回できなかった。

 ▼日本軍に対し攻撃に転じて敢闘する中国軍。

 

【第7章】

 ▼「断作戦」を起案したのは、秀才として知られた辻政信参謀だった。

 ▼弾丸もなく食糧もないなかで作戦を展開する日本軍。

 ▼馬も人もつかれきって、河を渡る足どりも重い。

 ▼津波のごとき中国軍と米式装備重慶軍におされて「昆」はジリジリ退却した。

 ▼ビルマを縦貫する大河イラワジ河。「林」集団はここをめざして退却を開始した。

 ▼イラワジ河。この河口地区はビルマ第一の水田地帯であり、ラングーン米の産地であったが、また日本軍や連合軍のスパイがはげしく暗躍した場所でもあった。

 ▼イラワジ河を渡る英軍戦車。この地帯の住民は、もともと英軍に対しては好意的であり、終始、英軍の作戦を陰に陽に支援し協力し、見えざる力になっていた。

 ▼休息する疾風隊員。彼らは来たるべき全面遊撃戦においては、敵中にはいって敵情を偵察したり、後方を攪乱したりする大任務をおびていた。

 ▼イラワジ河を渡河する日本軍兵士の肩に、兵器の重みがズシリとかかる。

 

【第8章】

 ▼インド第26師団は突如、ラムレ島に上陸し日本軍に立ち向かった。

 ▼草むらに地図をひろげ、撤退作戦を協議する日本軍の参謀たち。

 ▼ガソリンが底をつき、撤退途中で立ち往生する日本軍の装甲車。この時期には、こんな光景が随所で見られた。だが、どうすることもできなかった。

 ▼撤退の道には、日本空軍の爆撃で破壊された敵輸送車の残骸もあったが・・・

 ▼イラワジ河畔に英印軍が姿をあらわし、砲煙が終日まいあがった。

 ▼ビルマ国防軍を閲兵するオンサン国防軍司令官

 ▼イラワジ河畔、エヤング付近にあった英印軍の渡河点。

 ▼進駐当時、ビルマ人の歓呼に迎えられた日本軍だったが、いまは夢と化した。

 ▼開戦当初、竹の橋を渡って堂々と進軍する日本軍。だが、時の流れのなかで、いまやビルマ民衆の心情は、日本軍から離れつつあったのだ。

 ▼日本軍の息の根を止めんものと、米英空軍は補給線や撤退路を徹底的にたたき、交通線網をズタズタにした。

 

【第9章】

 ▼制空権を完全ににぎっている米英空軍は、パラシュートで補給をおこなった。

 ▼意気軒昂としていたころの日本軍。が、いまや敗走がせいいっぱいだ。

 ▼おきざりにされている日本軍の戦車や自動車。人影がないのがあわれだ。

 ▼日本軍歩兵の体当たりで炎上する英軍戦車。勇気だけは残っていた。

 ▼こわれた橋の下で休息をとる日本軍の兵士たち。

 ▼路上に遺棄された英印軍の大砲や戦車。砲身がうつろに空を向いている。

 ▼ラングーンを攻略し、英総督官邸を占領した時の日本軍の写真。勝ち誇る兵士たちの”思い出”のひとコマである。

 ▼シッタン河の大鉄橋は、かつて英印軍が撤退のときに破壊していったものだ。

 ▼英国空軍によるラングーン市内の空爆。

 ▼ビルマ独立の友軍として、日本軍が迎えられることもあったのだが・・・

 ▼方面軍司令官、木村兵太郎大将

 ▼バーモ、ビルマ首相

 ▼(1945年)4月27日夜半、木村軍司令官はひそかにラングーンから都落ちした。列中にはバーモ首相とその家族もいた。日本軍のラングーン入城から、たった3年の天下に終ったのだ。

 ▼雨で道は悪く、自動車はなんどもストップをくりかえした。

 ▼雨中のジャングルを、つかれはてながら行軍する日本軍。

 ▼ぺグーをめざす日本軍の転進行軍は、雨と飢えとマラリヤのため困難をきわめた

 ▼英軍と協力してインド軍も各地で日本軍の急追をはじめた。

 ▼日本軍兵士の姿に疲労がみえる。

 ▼負傷兵を背負い敗走する日本兵の顔は暗い。

 ▼つかれはて立つ気力もない日本兵。

 ▼英軍の捕虜になった日本軍兵士。

 ▼ぺグー山系にたてこもった日本軍各隊は小屋がけしてがんばった。

 ▼河をこすのも大変だった。順番をいまかいまかと待つ敗走兵の姿。

 ▼かつて日本軍が勇躍入城したマンダレーも、いまや敵地だった。

 

【第10章】

 ▼毎日毎日、苦難の行軍をつづける。

 ▼「シッタン河さえ渡ってしまえば」が日本兵の合い言葉だった。

 ▼勇気をふるいおこして、敵陣内突破を試みる日本軍部隊。

 ▼何日もの水のなかの行軍では、そのまま水没死するものもいた。

 ▼ビルマの空では、B29の大群がだれはばからず爆弾をまいていく。

 ▼地上部隊に空中補給する英軍機。

 ▼ビルマ三大河川のひとつシッタン河を渡る日本兵。

 ▼水かさの増したシッタン河を、必死の思いで渡河する日本兵。

 ▼両手に重傷をうけた戦友に食事の給仕

 ▼倒れた戦友はそのまま置き去りにされるときもあり運良く運んでもらえるときもある

 ▼破壊された鉄橋も、いまは再建されている。ああ、戦争とは・・・

 

「太平洋戦争ハイライト」シリーズ

 

 全10巻、学研、1972年発行

 

責任監修者

阿川弘之、会田雄次、伊藤桂一

棟田 博

 

 

★『奇襲!パールハーバー』

       (福本和也)

 

★『猛進!マレー・シンガポール』

       (斎藤芳樹)

 

★『攻略!ジャワ・スラバヤ』

       (棟田 博)

 

★『壮烈!ビルマ・インパール』

       (棟田 博)

 

★『苛烈!ガダルカナル』

       (仁田義男)

 

★『血戦!ミッドウェー・アッツ』

       (飯塚つとむ)

 

★『激突!ラバウル』

       (秋永芳郎)

 

★『雄魂!フィリピン・レイテ』

       (中村八朗)

 

★『玉砕!グアム・サイパン』

       (堀川 潭)

 

★『死闘!硫黄島・沖縄』

       (堀江芳孝)

  

 

戦後30年になろうとしている。あの太平洋戦争の最中、生きることはもちろん、死ぬことすらも忘れ、血と泥のなかに戦い死んでいった何百万という魂。 その声は過去に消え去ることなく、いまもなお埋れ火となって、激しく燃えている。あの頃、若い生命のよろこびを知ることも無く散っていった人々は、いま何を語りかけているのだろうか。生きることの充実感とは何? 戦争はいままた未来からやってきている。

 

   −本書の裏表紙のことばよりー