
『阿波丸はなぜ沈んだか』
昭和20年春、台湾海峡の悲劇
松井
覺進 著
朝日新聞社、1994年5月発行
《著者紹介》 松井覺進 (まつい・かくしん)
1937年 鎌倉市生まれ。
1962年 朝日新聞記者となる。
[著書]
『パタゴニア自然紀行』
(1985年、朝日選書)、
『私たちの浅草』
(イラスト・斎藤信男、1989年、朝日ソノラマ)
『偽作の顛末 永仁の壺』
(1990年、朝日新聞社)
『水』
(1992年、朝日ND Books)
(本書紹介文より、発行当時)
本書は、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月1日、午後11時、「緑十字船」阿波丸が台湾海峡において米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈された「阿波丸事件」について、事件からほぼ半世紀の間に、日本とアメリカでこれまで明らかになった事実をふまえつつ、新たな事実の発掘とインタビューによって構成された、阿波丸事件の戦中から戦後にかけての謎の解明に肉迫しようとしたドキュメント。もともと、朝日新聞記者による著者が、『朝日新聞』夕刊の「にゅうすらうんじ」欄に「阿波丸の悲劇」と題して1990年9月3日(月)から同年10月31日(水)まで、41回にわたり連載していたが、本書はこの内容を再編集して本にまとめたものだ。
これまでこの事件の隠された事実を調べて真相に迫ろうという試みは、外交資料が未公開だったこともあって、本書の元となった朝日新聞連載以前では、『呪われた阿波丸』(1961年、文藝春秋)を書いた千早正隆氏(阿波丸撃沈の謎に早くから取組んできた元連合艦隊作戦参謀・海軍中佐)、『太平洋戦争秘話 阿波丸事件』(1973年、読売新聞社)のフクミツ・ミノル氏、NHKドキュメント「撃沈!緑十字船阿波丸」(1979年12月7日放映)ぐらいだと、本書巻末の「もう一つの悲劇 −あとがきに代えて」にも書かれている。
まず、フクミツ・ミノル氏による『太平洋戦争秘話 阿波丸事件』(読売新聞社)が著された1973年の時点では阿波丸は海底に沈んだままであったが、その後、中国政府は1977年から極秘に引揚げ作業に取り組み、1980年12月、1977年から続いた阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えたと発表。中国は、1979年7月、80年1月、81年5月の3回にわたって、遺骨368柱、遺品1683点を日本に返還している。本書では、この間の事情が「第9章 中国が船体を引き揚げる」に書かれているが、同章では当時常務だった瀬島龍三氏による伊藤忠商事の阿波丸引き揚げ調査チームの話とか、船田中・自民党副総裁(当時)と園田直外相(当時)が関わった密談の話といった大変興味深い話も取り上げられている。
阿波丸は、日本の支配下にある台湾、香港、仏領インドシナ、マレー、ビルマ、タイ、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどにある連合国人捕虜や抑留市民向けの救援物資約800トン(白山丸がナホトカから運んできた)を、神戸港で積み、その後、陸軍の船舶輸送指令部(暁部隊)があった広島県の宇品港に立ち寄る。連合国側の要請による特殊な任務を帯びた阿波丸は、連合国から往路・復路とも絶対に攻撃されず、停船・臨検も受けないという保証を受けており、宇品で弾薬や飛行機部品など大量の戦略物資を積み込んでいる。そして阿波丸の往路の乗客は北九州の門司港で乗船。1945年2月17日、阿波丸は門司を出発する。
在外公館視察をかねた救援物資配送の使節団の責任者は、門司で阿波丸に乗船した大東亜省次官の竹内新平氏で、竹内次官をはじめ外務省調査局長・山田芳太郎、大東亜省南方事務局政務課長・東光武三ら使節団一行は、往路のサイゴンで阿波丸を下船。南方軍総司令官を訪問した後、飛行機でタイのバンコクに飛んでいる。竹内次官は1945年3月2日、山本熊一・駐タイ大使と山田芳太郎・外務省調査局長とともにタイのシンシナ外相を訪問、さらにアパイウォン首相を公邸に訪ねている。竹内次官はバンコクで、ビルマ駐在の石射猪太郎大使、山本熊一・駐タイ大使、チャンドラ・ポーズ氏への公使として赴任途上の蜂谷公使、中村軍司令官との会談も行っている(松本俊一・フランス領インドシナ大使は欠席)。竹内次官ら使節団一行は、1945年3月5日、飛行機でバンコクからシンガポールに着き、再び阿波丸に乗船して事件の被害者となった。阿波丸はタイ向けに金1トンと900トンの軍事物資を積んでいたが、これらの積荷に関する話も紹介されている。
本書でも当然、阿波丸派遣に至るまでの経過、阿波丸の航跡、事件当日のアメリカ潜水艦クイーンフィッシュの行動、事件発覚とラフリン艦長の軍法会議(1945年4月19日、20日、グアム島)の模様、撃沈についての日本政府の抗議とアメリカ政府の対応、戦後に持ち越され日本政府がマッカーサーの方針で1949年
賠償請求権を放棄することになる日米間の賠償問題の経緯など、詳細に紹介説明され、阿波丸事件の全貌をつかむことができるが、本書の特筆すべき点の一つには、阿波丸にいろんな形で関わることになった数多くの人々の証言記録が本書で採り入れられていることであろう。
阿波丸事件犠牲者の残された家族たちをはじめ、阿波丸の往路に乗船した人たち、阿波丸が立ち寄った土地・港で立ち会った人たちの証言記録などが見られるが、絶対安全に日本に帰れる船だということで帰路の阿波丸に乗船希望者が殺到したためにいろんな人間ドラマも生まれている。著者が阿波丸事件に関心をもったきっかけは、「テーマ談話室」という読者の投稿欄のスタッフの一員として「戦争シリーズ」を扱った時だそうで、1986年7月10日付朝刊から1年3ヶ月余り続いた「戦争」シリーズに寄せられた投稿の中でも、「阿波丸に乗れなかった私たち」「阿波丸で沈んだ父と今の私」「阿波丸と軍需物資」などといった阿波丸事件の投稿が結構多かったということだ。
本書では1章を設け、日本人とアメリカ人の捕虜観の違いを詳しく説明しているが(第2章「捕虜は恥」と「捕虜を救え」)、阿波丸についてはその派遣の背景だけでなく、撃沈から賠償問題とその放棄をめぐる一連のプロセスのなかに、日米の国民性の相違が顕著に現われている。本書最終章の最後で、このことについて触れ、「この点に、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学歴史学部のロジャー・ディングマン助教授は着目して研究を進めている。「阿波丸事件」はまだ終っていないのだ。」と、文を結んでいる。その後、ロジャー・ディングマン氏の研究成果は日本語でも書籍(『阿波丸撃沈 −太平洋戦争と日米関係』(ロジャー・ディングマン著、成山堂書店、2000年6月)が刊行されている。
本書の目次
はじめに
第1章 敦賀港に姿を見せず」
門司帰港を変更/アメリカ政府は仰天
第2章 「捕虜は恥」と「捕虜を救え」
人道思想の空白/日本人の捕虜観/アメリカ人の捕虜観
第3章 白山丸がナホトカ港へ
日米・日英交換船の実績/救援物資輸送船への思惑
スイス公使の仲介
第4章 中国へ星丸、東南アジアへ阿波丸
解読されていた外交暗号/大量の武器を輸送
日本向け戦略物資を優先/殺到した乗船希望者
第5章 魚雷4発、3分で撃沈
石油戦略に翻弄される/クイーンフィッシュの追跡
事件のカギを握る2人
第6章 ラフリン艦長、軍法会議に
ニミッツ司令長官が告発/目標物の正体を確かめず
戒告処分のみの有罪
第7章 戦後に持ち越された「賠償」
南方へ再派遣の予定だった/日本政府は強く抗議
第8章 芦田首相、賠償放棄を誓う
下田勘太郎帰る/請求権否定のマッカーサー
見舞金は1人7万円
第9章 中国が船体を引き揚げる
瀬島龍三動く/引き揚げめぐる”利権”
「金銀財宝はなかった」/遺骨368柱
終 章 限りなく故意に近い過失
もう1つの悲劇 − あとがきに代えて