『ビルマ脱出記』
外交官の見たビルマ方面軍壊滅の日
元大東亜省ビルマ大使館員
田村 正太郎 著
図書出版社、1985年1月発行
《著者紹介》 田村正太郎 (たむら・まさたろう)
1908年高知県生。1928年陸軍士官学校予科卒業、同時に病気退校。
1929年外務省留学生としてレニングラード留学。1941年高等試験外交
科合格。1943年在ビルマ日本大使館勤務。1946年帰国、同時に外務
省辞職。元四国運輸(株)社長。霞関会会員。
[著書]:『ソ連見たまま住んだまま』
(本書紹介文より、発行当時)
太平洋戦争開戦からわずか半年の1942年5月、ビルマ全域を攻略した日本は、1943年(昭和18年)8月1日、ビルマの独立を承認し、独立承認の事実を内外に宣言すると同時に、ラングーンに対し大使館を設置する。本書は、このラングーンに新設となった在ビルマ日本大使館に1943年8月赴任した元外交官による回想録。著者はビルマ大使館員の一人として、1945年4月下旬ラングーン放棄、潰走の渦に巻き込まれ、苦難のビルマ脱出を経験する。やがて本省から帰朝命令が発令されるもサイゴンで終戦を迎え、サイゴン・シンガポールで収容所生活を送り1946年9月帰国となるが、本書ではビルマ赴任から終戦翌年の帰国までの顛末がまとめられている。
外務省に入省し拓務省に移っていた著書は、1942年(昭和17年)11月1日に発足した新設の大東亜省に移籍し文書課に配属となるが、司政官としてではなく新設される在ビルマ日本大使館の外交官補として1943年8月ビルマに赴任することになる。ビルマ方面軍司令部と並んで、ラングーンの北郊にある広大なラングーン大学の敷地の一角にあったビルマ日本大使館での勤務時代の著者自身や大使館関係者についてのいろんな興味深いエピソードがまず綴られている。1943年8月在ビルマ日本大使館玄関前で撮られた写真も掲載されており、沢田廉三大使、磯村武亮少将(ビルマ方面軍参謀副長兼大使館付き武官)、北沢直吉参事官、島津久大一等書記官兼総領事など大使館関係者各氏が写っている。
インパール作戦の失敗によって、ビルマの全戦線は総崩れとなり、イラワジ防衛線も各所で突破され、1945年3月27日、すでに破局におちいっていたビルマ方面軍傘下の第15、第33両軍の正面は、オン・サン将軍率いるビルマ国防軍の全面放棄によって、一挙に崩れさる。そして1945年4月23日、ラングーンにあった日本大使館、バー・モ首班ビルマ政府、チャンドラ・ボース主席の自由インド仮政府、居留民に対する撤退措置がほとんどできていないまま、ビルマ方面軍司令部が突如ラングーンを放棄しモールメンに撤退する。
木村兵太郎ビルマ方面軍司令官が、4月23日夕方偵察機でラングーンを退去、他のビルマ方面軍幹部も順次飛行機でラングーンからモールメンに撤退するが、バー・モ首相、チャンドラ・ボーズ自由インド仮政府主席、石射猪太郎ビルマ大使(沢田大使の後任)、蜂谷輝雄公使(派印外交代表部)にさえ飛行機の提供はなかった。ラングーン撤退にあたり、在ビルマ日本大使館員は、バー・モ政府と行動をともにする石射猪太郎大使、北沢直吉参事官の班と、在留邦人の保護にあたる島津久大総領事の班との二手に分かれることになり、著者は島津総領事の班に加わる。在留邦人たちとのモールメンまでの陸路での脱出行の様子は本書に詳しいが、特にシッタン河の渡河まで難行苦行を極めている。
このビルマ方面軍司令部の突然のラングーン放棄について著者は、「政府や大使館の撤退は、軍の撤退とはまったく次元の異なる問題であり、よほどの緊急事態でないかぎり、たとえビルマ政府や日本大使館が撤退しても、軍は残って戦うのが常識だろう。いくつかの理由を列挙はしているものの、実際は、英印軍機甲部隊の急速な南下に周章狼狽した撤退というほかはあるまい。」と、厳しい論調で非難している。更にビルマ方面軍司令部の「尚早かつ無様な」ラングーン放棄によって、イラワジ河以西地区に取り残され敵中突破の長距離退却作戦を行わざるを得なくなった第28軍に降りかかった悲惨さについて、最終章の「ビルマ戦追憶」で言及している。
ビルマ方面軍司令部はモールメンに退却したが、バー・モ首席以下のビルマ政府要人は、爆撃その他危険の多いモールメンを避けて、南方30キロのムドン村に居を構えた。これに応じて石射大使らがムドンに居残るが、北沢参事官以下の館員は逐次バンコクに移動することが決まり、著者も泰緬鉄道でバンコクに移動する。バンコク滞在中に本省から帰朝命令を受けた著者は1945年7月末、プノンペン経由サイゴンに向かいサイゴンで終戦を迎える。
尚、「薩摩の島津家の御曹司で、白哲美貌の好紳士」と書かれ本書に頻繁に名前が登場する島津久大氏(1906〜1990年)は、1942年(昭和17年)11月1日に発足した大東亜省の練成課長で、著者がビルマ赴任前に合宿訓練を受けた巣鴨の「南方練成院」を所管しており、ラングーン日本大使館開設と同時に一等書記官兼総領事としてラングーンに赴任。著者もラングーン赴任後は総領事官舎で生活している。島津総領事は1945年3月バンコクで後任の東光武三・大東亜省課長と事務引継ぎした上で、島津総領事は阿波丸で帰国し、東光課長はラングーンに赴任予定であったが、東光武三氏が改めて赴任するとして阿波丸に乗船して帰国したため、島津久大氏は命拾いをしている。
当時のラングーン日本大使館関係者では、ビルマ方面軍参謀副長兼大使館付き武官の磯村武亮少将(NHKの磯村尚徳氏の父親)が、1944年夏頃、東京の参謀本部への出張途中、長野県で飛行機事故により遭難死し、第28軍隷下の第54師団参謀長から転じた一田次郎少将が後任となっている。北沢直吉参事官は、バー・モ首席の日本亡命にもずっと関わることになる人物であるが、戦後外務省から政界入りし石橋湛山内閣・岸信介内閣時代には内閣官房副長官を務めている。また本書にはバーモ首席のビルマ政府だけでなく、チャンドラ・ボース主席の自由インド仮政府関係の記述も少なくなく、著者のビルマ大使館時代の仕事の一つには、ラングーンに新設することになった自由インド仮政府に対する『派印外交代表部』の設営事務もあった。ただ、せっかく新設された『派印外交代表部』も、蜂谷輝雄公使のラングーン到着(1945年3月中旬)以降、急激に悪化した戦況のためにわずか1ヵ月程度で、1945年4月23日には、自由インド仮政府も派印外交代表部も、ラングーンを放棄してモールメンへ向けて逃避行することになる。
本書の目次
ビルマ行ききまる
大東亜省の新設/在ビルマ日本大使館員となる
ラングーン日本大使館
大使館の日常/大使の訓示/チフスにかかる
空襲下の陸軍病院
インパール作戦
インパール作戦発動の経緯/自由インド仮政府ラングーン進出
インパール作戦はじまる/作戦失敗とその余波
インド進攻の夢破れ
銃後のラングーン/ルピーとバーツ・インフレのビルマ
派印外交代表部の設置/すべて水の泡
チャンドラ・ボーズの人物像
破局の前夜
停電と泥棒/快挙・全機撃墜/キングコブラ騒ぎ
運命の阿波丸
帰国を喜ぶ人々/阿波丸沈没の衝撃
ビルマ国防軍の反乱
飛び交ううわさ/反乱の勃発/当然だった反乱
軍司令官の敵前逃亡
大使館もラングーン撤退/ブルブル震える軍司令官
在留邦人との脱出
シッタン河までの難行苦行/チャンドラ・ボースの雄姿
島津総領事一行と再会/命の綱・慰安婦の手荷物
必死の脱出行
モールメンの別れ/方面軍司令部訪問/泰緬国境を越えて
バンコク・トロカデロホテル/帰朝命令/プノンペンの一夜
終戦の前後
サイゴン・コンチネンタルホテル/混乱する市街
大使館内の雑居生活/べトミン軍の襲撃
サイゴン収容所
労役奉仕の日々/英軍のプレゼント/べトミン軍の市中行進
ジュロンキャンプ
キャンプ配給部長となる/英軍の無理難題/戦犯長屋の人々
ビルマ戦追憶
あとがき