日本軍関係

     メコン圏と大東亜戦争関連書籍    第7回

                 

  

  

 

   『潜行三千里』

      

    

      

    辻 政信 著、

    国書刊行会(再出版)、1978年7月発行

 

  (初版は、1950年、毎日新聞社より発行)

 

 

             潜行三千里の詳細

 

  日本軍の元・高級参謀で、戦犯容疑が昭和25年(1950年)解かれた後、国会議員に選出されるが、現職国会議員であった1961年、ラオスで失踪しその後行方がわからないままの辻政信は、1902年石川県の奥深い山村の貧家で生まれるが、陸軍幼年学校から陸軍大学まで首席あるいはトップクラスの成績を修めた。1932年上海事変で活躍し、1936年には関東軍参謀部付として満州にわたる。1941年6月、参謀本部部員として東京に戻り、太平洋戦争勃発に際し、第25軍主任参謀として、その後はマレー作戦、シンガポール攻略を指導する。1943年8月、大佐に昇進、南京に赴任し、支那派遣軍参謀を務める。1944年7月ビルマ派遣軍第33軍参謀としてビルマに赴任するが、1945年5月タイ国駐屯軍参謀となり、1945年8月バンコクで終戦を迎える。

 

 その後、10年後の祖国再建に備え、イギリス軍の戦犯追及の手を逃れての潜伏・潜行を。最初はタイの僧に変装し、バンコクの日本人納骨堂に潜伏。イギリス軍の戦犯追及の手が伸びて来たとみるや、バンコクの中国国民党地下工作本部と接触。蒋介石、藍衣社の戴笠に会って日華合作の道を開きたい、と当時国民党本部があった重慶行きを申し入れた。許可が出されるとバンコクを脱出し、ノンカイからメコン川を渡って、ヴィエンチャン=タケク=サヴァナケット=フエ=ハノイと、ラオス、ベトナム領を走破。ハノイから昆明経由、重慶にたどり着いた。さらに南京に出て、国民政府国防省に勤務するが、中国国民政府の腐敗ぶりに、日本帰国を決意し、昭和23年(1948年)5月、大学教授の肩書きと変名で引揚船に乗り、佐世保に帰港する。

 

 1950年(昭和25年)夏に、毎日新聞社から刊行され一躍ベストセラーとなった本書『潜行三千里』は、辻政信がビルマからタイ国駐屯軍参謀としてバンコクに転任するところから始まり、1948年5月、上海からの引揚船で佐世保に上陸するところまでの3年間の潜行記録をまとめたものになっている。”(1948年5月)26日朝、いよいよ上陸した。初めて歩一歩埠頭の土を踏んだとき、人目につかぬようにソーッと一握りの土をすくいあげて香りを嗅いだ。六年ぶりに嗅ぐ祖国の土の香である。国敗れたれど山河は残っていた。”という文章で本書が締めくくられている。日本に帰国しても、イギリス軍の追及の手は、なお厳しく、全国にいる知人や東亜連盟の同士に頼る”潜行生活”が続き、1950年1月戦犯容疑が解かれた後、本書『潜行三千里』だけでなく、『ガダルカナル』『流転』『十五対一』とベストセラーとなる手記を次々と発表した。

 

 変装してのアジア大陸潜行には、厳しい尋問や警戒網突破、突然の連行など、絶体絶命のピンチに度々見舞われ冒険談として読者をハラハラさせる場面がたくさんあり、更に、偽医者や偽坊主に変装したために起こるハプニングなど、潜行途中でのユーモアたっぷりの笑えるエピソードも数多く散りばめられており、読み物としても大変面白い。

 

 潜行三千里の門出は終戦直後の1945年8月17日で、バンコクのリャープ寺の境内にある小さな日本人納骨堂が最初の一里塚となる。辻政信は、軍服を脱ぎ、「青木憲信」の変名で、日本で約20年修行をし、約2年ビルマに留学していた僧侶の団長で、ビルマから最近バンコクに来た真宗の僧侶としてバンコクの日本人納骨堂に潜伏する。

 

 タイ宗教局からの出頭命令と尋問、英軍の進駐後のタイ警察による身上調査を切り抜けるも、日本人に対する圧迫は強化され、日本の軍人が化けて民間に潜伏しているとの噂がもっぱらで、僧侶にも特例を認めず日本人全員を集中営に軟禁し身分を洗うこととなり、直前にバンコク・スリオン街の中国国民党の地下工作本部であった重慶藍衣社本部に飛び込む。3日間、バンコク郊外の隠れ家でタイ国脱出計画の準備が進められ、1945年11月1日には、老華僑に変装して警戒の厳しいバンコク駅を突破し、バンコクからコラートを経てウドンに汽車で向い、11月3日、国境のメコン河を渡り無事タイ国脱出を果たす。

 

 その後は、ビエンチャンからタケクまではメコン河を下り、タケクから陸路でサバナケット、フエ、ビンを経て1945年11月29日ハノイに到着。ハノイで約100日、国民党政府のあった重慶入りを待機。1946年3月9日、「史光裕」の名でハノイから昆明に飛行機で飛び、3月19日、念願の重慶入りとなった。しかし頼みの載笠将軍が辻政信の重慶到着直後に事故死してしまう。遷都後の南京に辻政信も1946年7月1日に移動を命じられ国民党政府の国防部に勤務するが、誠意を以て献策したこともほとんど用いられず国民党政府の腐敗にも失望し、約2年間の南京での国防部勤務を辞め、1948年、上海から引揚船で北京大学教授に変装して帰国する。この3年弱にわたる潜行記録の詳細はこちらに記す通りであるが、1950年1月の戦犯解除まで帰国後も日本国内で引き続き潜行生活が続くことになる。

 

 終戦直前のバンコクや、終戦直後のタイ、仏印、中国の混乱する政情や人々の生活に対する辻政信の生々しく詳細な観察や見解は、当時の様子をうかがい知る上でとても有用であろう。終戦直前のタイ軍警の寝返りの不安とそれへの対処、終戦直後のタイへの英軍進駐、日本人収容、9・28事件に代表されるタイでの華人とタイ人との対立、インドシナ独立運動、国民党の抗日期の南方での地下工作活動、北緯15度以北に進駐した中国軍の実態、戦犯と漢奸摘発、終戦後の日本軍と日本軍人、ベトナム国民党などなど、書かれているテーマは多岐にわたるが、やはり1946年3月から1948年5月まで重慶・南京にいたこともあって、中国国民党や中国・中国人、日中関係についての記述が多くなっている。本書後半では、特に終戦後の中国国民党の腐敗ぶりや組織・活動の実態がいろいろと明らかにされている。

 

            本書の目次 

 

       新装版まえがき                     辻 千歳(著者夫人)

 

  人と人

     招かれざる客  待つあるの構え  教え子に再会す  青年総理アパイオン

     秘密飛行場  危機迫る  ラジオの前に

 

   死関を突破す

     僧衣に換えて  堂守り見習  第一の試験  出家とその弟子  

     坊主と泥棒と野良犬  対華僑工作  法華の行者  さらに決意を固む

     英軍来たる  浜田中将の最期  第二の試験  街頭進出  深夜の銃声

     再生の誕生日  ひしひしと迫るもの  捨身の矢文  死の第一関

     死の第二関  死の第三関  死の第四関  

   

   わき返る安南

     革命の裏表  メコン河を下る  邢中将と語る  偽医者の不安  街をのぞく

     化の皮をはがれる  終夜の歩哨  融ける蚊帳  七歳の牛太郎  

     待望のハノイへ おごるもの  泥棒市場  二つの革命  懐しい日本兵  

     敗戦の正月 崩壊のきざしか?  偽坊主の功徳  いまだ見ぬ同志より  

     再び孤独の旅へ  

 

  おごる重慶

     昆明点描  河中の飛行場  勝利大厦  很好!  街の表情  戴笠墜つ

     張家花園  生命に代えて  汪政府の最期  疑似コレラ  戦争か平和か

     あひると豚  接収と遷都  骨に徹するもの  最後の報告  白市駅飛行場

 

  遷都後の南京

     国防部の第一夜  公務員の家庭をのぞく  初めての日本人  玉と石

     劉次長と語る  工作  明暗、表裏  父の記、子のたより  散り行く姿

     友あり遠方より来たる  瓦解  大作業を終わる  ああ!磯谷中将

     同士のたより  南京最後の夜  上海を去る

 

  旅窓に映る中国の世相

     市民の動き  インフレ生活  古い慣習の世界  国民党員と語る

     中共の俘虜

 

  一握りの土

  <新装版まえがき>

 

 

 「潜行三千里」は昭和25年の夏に毎日新聞社から発行されましたが、幸いご好評をいただき、たびたび版を重ねてまいりましたほか、海外でも英語・フランス語・タイ語・中国語に翻訳出版されました。この本は、終戦20年を機に、装を新たに再出版されたものです。

 

 15年の歳月の間に、世界の情勢にも大きな変動がありました。とくに辻が当時潜行したある国では、いつ果てるともしれない戦争が続けられております。同族が2つに分かれて戦うからには、それなりの理由があってのことでしょうが、これ以上に悲しいことがあろうとは思われません。

 

 昭和25年1月追放を解除され、その後、辻は中立論と称する理想論を唱えました。これは現在の日本では空論としてしりぞけられるかもしれませんが、彼は自分の提唱する中立論を必要とするであろうと信じる新興国の内情を、自分の目でたしかめようと思って現地視察に行き、ついに深入りしてしまったものと思われます。昭和36年6月ごろ、当時動揺を続けていたラオスの首都ビエンチャンの近郊で消息を断つにいたりました。

 

 彼の失踪は身にやましい理由があってのことではなく、ましてや戦犯容疑に問われたためではないと私は信じております。突発的事故なのか、彼の意志なのか、不明のまま、4ヵ年の歳月が流れました。いまはただ1日も早く安否が確認されることを念じてやみません。

 

 この本を読まれる方がたに、辻が理想とするところを、少しでも理解していただければ、彼も本懐と思うことでしょう。

 

 昭和40年7月

 

  辻 千歳

  (著者夫人)