『史実 山田長政』
江崎 惇 著
新人物往来社、1986年1月発行
ISBN4−404−01322−1
山田長政と同郷の作家による山田長政に関する史実書(山田長政の出身地については駿府、伊勢、尾張、長崎の諸説があるが駿府説が通説)。「第1部 山田長政の生涯」「第2部 山田長政の史料」「第3部山田長政と現代」と、本書は3部構成から成っているが、200頁強の全体の中で、150頁強を第1部が占めている。
この第1部では、本書まえがきで著者が「これは小説ではない」とわざわざ断わっているが、山田長政の出生から少年時代、青年時代、日本脱出からシャムへ渡るまでの経緯、アユタヤの日本人町での活躍、シャムのソンタム王の義勇兵として、きわめて短期間の下級将校から軍司令官にまで昇進する過程、そして徳川幕府との交流、南タイ六昆王に推されて毒殺された、という信憑性、また日本人町の終焉などを、随所に”史的考察"を加えながら系統立てて年代を追って詳述している。
天正18年(1590年)生れといわれる山田長政の出自について書き出しが始まっている。本書によれば、駿府の浅間神社近くの馬場(ばばん)町に染工(紺屋)を職業とする山田九平次という人物がおり、九平次には実子がなく、伊勢の人で伊勢神宮の御師(下級の神官でお札を諸国へ配って歩く)であった九左衛門友昭という者を養子にした。その九左衛門のもとへ、3歳の長政を連れ子にして再婚してきたのが、駿河国安倍郡藁科村(現静岡市)の寺尾家出身の長政の母で、尾張へ嫁して長政をもうけ夫に死別後、長政を伴って実家へ帰り再婚したという。
駿府で長政がどのような生活をしていたのかについては明らかでない部分も多いが、本書では、学問を馬場町近くの臨済宗の名刹臨済寺(今川家の菩提寺)に学び、浅間神社前の宮ヶ崎にあった関口八郎左衛門という人の町道場に通って武芸を修行していたとしている。本書発行の翌年に講談社より刊行された同じく静岡の歴史学者・小和田哲男氏による『山田長政 知られざる実像』にも、本書で書かれたこの説が紹介されている。
駿府を飛び出し沼津で沼津藩主・大久保治右衛門忠佐のお抱えの駕籠かきの仕事をしていたが、それも辞めて駿府に舞い戻った山田長政が、海外へ出て行くことを決意した契機として、著者は、駿府郊外の久能の海岸で、清水湊のちんぴらを数人殺傷してしまい、警吏の追及を恐れて国外へ逃亡したとする新解釈を示している。
駿府の商人、太田治郎右衛門、滝佐右衛門の仕立てた台湾行きの船、富士丸に乗り込み、台南でシャム行きの便船を待ち、長崎の豪商・木屋弥三右衛門の船でアユタヤの日本人町に乗り込んでゆく。アユタヤの日本人町での長政の活躍や当時のアユタヤ朝をめぐる国際交易や内外の政争の様子が生き生きと描き出されている。この「第1部 山田長政の生涯」では、1630年(寛永7年)、リゴール(南タイのナコンシタマラート)でリゴール王となった山田長政が前リゴール長官の弟オプラ・マリットによって毒殺された後の出来事についても説明が為されている。長政の子・オクンの話から、その後のアユタヤの日本人町と頭領たちと話が続き、17世紀後半、東印度会社の船のボーイから身を起こし、ギリシア人ながらアユタヤ朝の宰相まで登りつめたファルコンの最愛の妻ギヨマー夫人(日本人女性)の興味深い生涯の話まで紹介されている。
本書の特徴としては、第2部「山田長政の史料」として、長政の日本での最初の伝記や、江戸時代、明治、大正、昭和の資料にたいして、その注釈を試みていることだ。また第3部「山田長政と現代」では、アユタヤでの日本人町の発掘や記念碑建立の状況や1983年以降のタイ国側の要請による日本人町復元整備計画などが紹介されているが、特に静岡市の対応については詳しく述べられている。
本書の目次
まえがき
第1部 山田長政の生涯
ほら吹き仁左/家康の貿易政策/仁左、かごかきになる /駿府脱出
長政渡航/アユタヤ界隈/長政初陣/みどり蛇/長政任官
長政、幕閣へ書簡を出す/シャム、カンボジア戦争
頭領山田長政の偉功/山田長政の戦艦図/戦艦図考/貿易家長政
ソンタム王の死/シー・シン親王の挙兵/カラホムの権謀
殺戮者カラホム/長政との和睦/長政への密謀/幼王を殺害す
六昆王山田長政の終焉/オクン、カンボジアヘ/その後の日本人町
太右衛門、広助時代/木村半左衛門/アントニイ善右衛門
日本人町の終焉とギヨマー夫人/アユタヤ王朝バンコクへ
第2部 山田長政の史料
江戸時代の著書/明治・大正の著書/昭和の著書
第3部 山田長政と現代
長政銅像建立計画/日本人町趾発掘/顕彰記念碑建立
長政再評価とタイ政府の要請/静岡市の対応/おわりに
山田長政関係年表