メコン圏を舞台とする小説  第37回

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著者紹介

伴野 朗
(ともの・ろう)

 

1936年7月16日、愛媛県松山市生まれ1960年東京外国語大学卒業 (中国語学科)朝日新聞社に入り、外報部などを経て、上海支局長を務める。 1989年朝日新聞社を退社し、執筆に専念。1976年、北京原人の頭蓋骨消失事件をテーマにした『50万年の死角』で第22回江戸川乱歩賞受賞。 

1977年『陽はメコンに沈む』、78年には『33時間』と歴史ミステリーを発表。『傷ついた野獣』で、1984年、日本推理作家協会賞を受賞。その他著作多数。2004年2月27日、心筋梗塞で死去(享年67歳)

 

関連テーマ

 

●辻政信のラオス失踪事件

●パテト・ラオとコン・レ中立派軍

●シンガポールの華僑虐殺事件

●ラオス領ホーチミンルートの防衛

 

★主たるラオス関連ワード

ラオス国道13号線

南ベトナムでの解放勢力のテト攻勢

ラオス国営ランサン・ホテル

ホテル・コンステラシオン

セタ・パレス

駐ラオス日本大使館

駐ラオス中国大使館

サムセンタイ通り

ルアンプラバン通り

タドア街道

ワッタイ

KM6

アメリカ国際開発局(USAID)

エア・アメリカ

ベトナム戦争でのアメリカ軍の撤退

70年3月のカンボジアクーデター

ランサン通りにある凱旋門

ラオス政府軍のサムトン基地と撤退

ラオスの海外青年協力隊

スファヌボン殿下

プーマ首相

スファヌボン親書とプーマ返書

シンガポ第ニ軍管区司令官

コン・レのクーデター(1960年8月)

ソムサニット政府

プーマ中立派政府

南部右派のノサバン将軍

「ラオスの中立化」構想

ICC(国際監視委員会)

 (ポーランド、インド、カナダの3国)

1962年のジュネーブ協定

ソット・ペトラシ大佐

 (駐ビエンチャンのパテトラオ代表)

キニム・ポンセナー外相の暗殺

ビエンチャンの中国語「永珍」「万象」

ラオス通貨安定化基金(FEOF)

ランサン

ケネディ米大統領と池田勇人首相

南ベトナム民族解放戦

 

ラオスの航空路と航空会社

  <本書記述内容P128-129>

”ラオスは、日本の本州とほぼ同じ広さの面積を持つ。だが、人口は3百万人。それもメコン川に沿って、人口が密集している。それでいて、メコン川に懸かる橋は1本もない。1メートルの鉄道もない。全長3千キロといわれる道路も、乾期でさえ自動車が通れるのはわずか3分の1に過ぎない。そのうえ、国土の3分の2がパテト・ラオの手に握られており、陸路、水路は常に危険がつきまとった。

 そこで必然的に発展したのが、航空路である。この狭い国に、なんと5つの航空会社が乱立している。

 国営のロイヤル・エア・ラオ。バンコク、サイゴン、台北などへの国際線のほか、北部の王都ルアンプラバン、南部のサバナケット、パクセなどに定期便を持っている。プーマ首相の息がかかっている、といわれている。

 ラオ・エア・ライン。1967年暮にできた新興会社で、パクセ=ビエンチャン間を皮切りに着々と営業権を広め、プノンペン、シンガポールへの国際線もある。いま、一番景気がよいだろうといわれている。後楯は、南部右派。

 ラオ・エア・チャーター。数年前事故を起こして潰れた国内線専門のベハアカト航空の身代り会社。黒幕は、ビエンチャン中立派のプイ・サナニコン国会議長。

 シエンクアン航空。ジャール平原に不定期便を持つ小会社で、現在は休業中。

 ここまでが、国内資本である。ラオス最大の航空会社は、米国務省チャーターのエア・アメリカ。一応民間会社の形態をしているが、パイロットは全員米空軍の出身者であった。”

ストーリー展開時代

 

・1970年4月~7月

・1961年4月21日

  (プロローグでの時代)

 

ストーリー展開場所

 

ラオス

  ヴィエンチャン、サバナケット、パクセ、

  (サムネワ、カンカイ、バンビエン)

・日本

  東京・日比谷、赤坂

  (福島県福島市)

・南ベトナム(サイゴン)

タイ(バンコク)

 

主な登場人物たち

 

・結城省平

 (主人公、P新聞サイゴン特派員)

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駐日本アメリカ合衆国大使館

・ウィリアム・マイケル参事官

・M・G・リーガン(情報担当官)

・小林(翻訳係)

ーーーーーーーーーーー

・ダグラス・シューメイカー

  (駐ラオスCIA責任者)

・ジム・ホールデン

・フォンサバン

  (ラオス内務省保安課)

・スージー(ホールデンの彼女)

・AP通信の特派員

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・蛭間慶三郎(B物産貿易部長)

・上田剛介

  (L貿易ビエンチャン支店長)

・三越優(L貿易ビエンチャン支店)

・大川(ビエンチャンの日本人医師)

・佐伯(医療機器のセールスマン)

・宮村(東京銀行ビエンチャン支店長)

・趙光宇

  (ビエンチャンの中国人写真屋

   35歳、潮州出身)

・趙玉齢(趙光宇の妹と称する女性)

・上田の妻(ベトナム人)

・マリ子(上田の養女)

・廖(L貿易のパクセの代理店主)

・ラオ・エア・ラインのスチュワーデス

・ファン・コク・べト

 (サイゴン大学文学部教授)

・金重建人

  (元日本兵のパテト・ラオ幹部)

・グエン・チ・ヒエン(駐ビエンチャンの

  北ベトナム大使館二等書記官)

・駐ラオス日本大使館の一等書記官

・駐ラオス日本大使

・ラオス内務大臣

・ラオス国防省の広報部長

・第五軍管区の副司令官

・ピサ(タット・ルアン寺の僧)

・ソット・ぺトラシ代表

 (ビエンチャンのパテト・ラオ代表部)

ーーーーーーーーーーー

・山田(P新聞外報部デスク)

・古川(P新聞社会部デスク)

・今井(P新聞で結城と入社同期)

・稲村卓三(築地で商事会社経営)

・沼田(バンコクの花屋)

ーーーーーーーーーーー

【1961年4月21日午前8時すぎ】

 

・僧形の大柄の日本人の男(肩には、法衣と同じ色の布袋を掛けていた。袋の中には、いろ いろな物が入っていた。<簡単なラオス語と日本語の単語帳、数通の紹介状、大量の煙草と大蒜、胃腸薬と頭痛止め、バンコクで買ったという真鍮製の仏像一体、折り畳み式の黒いコウモリ傘、金張りのシガレット・ケース>

・小肥りの日本人の男(平松)

・若いラオス僧

  (僧形の大柄の男の物を包んだ風呂敷を持つ)

 <背広、ワイシャツ、ネクタイ、短靴、下着、ノート、万年筆、ボールペン、国籍と身分を証明する日本国の公用旅券と金色のバッジ。中国の周恩来首相、アラブ連合のナセル大統領、ユーゴスラビアのチトー大統領らと、一緒に並んで写っている数葉の写真>

 

【1961年当時】

・コン・レ

 (ラオス全国軍事委員会議長、中立派政府軍司令官)

・鐘(プーマ殿下の顧問の中国人)

 

 

  

     

    「陽はメコンに沈む」 

        

    伴野 朗 著、

    1980年10月、講談社(講談社文庫)

   

 

     

 

 

           (本書の単行本は、1977年に講談社より刊行)

 

 本書『陽はメコンに沈む』は、1976年(昭和51年)に、北京原人の頭蓋骨消失事件をテーマにした『五十万年の死角』で、第22回江戸川乱歩賞を受賞した作家・伴野朗氏が受賞第1作として1977年に発表した作品。元日本陸軍参謀、辻政信が1961年4月動乱のラオスで失踪した事件を背景に借り、失踪し行方が分からなくなってから9年後の1970年4月のラオスを舞台とした歴史推理サスペンス小説だ。伴野朗氏は、朝日新聞社に勤務しサイゴン特派員も務めながら江戸川乱歩賞を受賞し、受賞後も朝日新聞社に勤務し上海支局長も務め、1989年に朝日新聞社を退社し執筆に専念し多数の著作を発表してきたが、2004年2月に享年67歳で亡くなった。

 

 本書はメコン圏といろんな形で深いかかわりを持った元日本陸軍参謀、国会議員の辻政信について、『陽はメコンに沈む』のハード・カバー版には、読者の理解を助けるために、以下のような辻政信の略歴が記されている。

 辻政信  明治35年石川県生まれ。陸軍大学卒。昭和7年上海事変に初陣で

 臨み勇猛ぶりを喧伝されるも、「士官学校事件」で左遷される。昭和12年関東軍

 参謀部付として満州に渡り石原莞爾に傾倒、アジアの五族協和という東亜連盟

 思想を抱くようになる。昭和16年太平洋戦争勃発にさいし、第25軍主任参謀と

 して、マレー作戦、シンガポール攻略を指導、華僑虐殺にも関与。昭和20年タイ

 国駐屯軍参謀で終戦を迎え、「潜行三千里」が始まる。タイ僧に変装しイギリス軍

 の戦犯追及をのがれ中国に向かい、大学教授の肩書と変名で日本に引揚げ、昭

 和25年に戦犯容疑が解けるまで潜行生活を送る。「潜行三千里」「ガダルカナル」

 「流転」「十五対一」が一躍ベストセラーになり、この人気を背景に昭和27年総選

 挙に立候補当選、昭和34年には参議院選挙で全国区に立候補、3位で当選。

 昭和36年4月、東亜連盟の理想、大アジア団結のため、単身紛争のインドシナに

 赴き、ラオスの首都ビエンチャン郊外で消息を断つ。

 

 1961年、ラオスの僧に変身し参議院議員・辻政信は、動乱のインドシナに向かい(参議院議長に出した公用旅券の申請では、南ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマを経て5月15日帰国予定となっていた)、ビエンチャンで消息を絶つ。ビエンチャンからの潜行の目的は、「東亜連盟の理想として、大アジア団結のため、ハノイに入って、ホー・チ・ミン北ベトナム大統領と会い、南ベトナム、ラオスでの軍事活動をやめるよう説得するため」とも言われるが、行方不明後も死亡説、生存説が入り乱れる中で、1970年4月、日本人記者でサイゴン特派員の結城省平は、9年前ビエンチャンで行方不明となった参議院議員・辻政信の消息を知るという元パテト・ラオの通訳に会い、日本の新聞の社会面を派手に飾ることとなった特ダネ記事を書いた。しかし結城の書いた記事が因で、次々と殺人が起こり、結城自身も得体の知れぬ勢力からつけ狙われることになる。

 

 主人公は、日本のP新聞サイゴン特派員の結城省平(34)。特ダネとして、その記事は派手に社会面を飾ったことが、この物語の発端となっているが、実は、これが筆者自身の体験を基にしている。1970年4月13日付「朝日新聞」朝刊の社会面は、伴野特派員の特ダネ(”私は辻政信氏の通訳だった” ラオスの中国人が証言 パテト・ラオ 9年前、尋問に立会う)が、大きく取り扱われた。伴野朗氏は、朝日新聞のベトナムの特派員として1969年から71年までサイゴンを中心に取材活動を行っていたが、1970年2月末から4月の半ばごろまでビエンチャンに出張し、本書に書かれているような経過で、辻政信氏がパテト・ラオの捕虜だったときの通訳をしたという中国人を偶然見つけ、朝日新聞の特ダネ記事となった。

 

 本書は、主人公の書いた新聞の特ダネ記事といろんな事件との接点がどこにあるのかがミステリーの大きな鍵だが、他にもメモの漢字や数字・アルファベット文字などの謎などいろんな謎解きもあり、主人公の周りで次から次へと殺人や失踪事件が起こり、主人公も何者かに命を狙われたり、またラオス政府から拘留をうけたり国外追放にもなってしまうという、推理サスペンス小説としての楽しみも満載だが、国際情勢を背景とした歴史推理がやはり興味深い。この点については、筆者が、「あとがき」で書いているが、「登場人物、状況設定も、実名の辻氏を除いては、想像の所産であるが、実際には、物語に近い謀略が、当時のインドシナで行われていたことは間違いない、と確信している」と語っている。

 

 更に、本書は、いろいろと勉強になるテーマ、情報が盛りだくさんで、非常に内容の濃い作品だ。もちろんテーマの一つである辻政信の生涯と経歴についても詳しいが、著者自身が朝日新聞特派員として駐在・出張していた1970年前後のビエンチャンやサイゴン等の町の様子や当時の国際情勢の描写が、実に詳細だ。アメリカの支援を受けたプーマ政権の首都であるのに、交戦中の”敵”であるパテト・ラオの代表部が、街中の目抜き通りに共存していたことや、また南北ベトナムの大使館が”共存”する世界で唯一の首都であったという、当時のビエンチャンの奇妙さと「国際都市」性についても、主人公の結城省平が、ビエンチャンのパテトラオ代表部やベトナム民主共和国大使館に取材に行くなど、小説のストーリー展開の中に織り交ぜながら紹介している。

 

 尚、1961年の辻政信のラオス失踪時のラオス情勢理解や、辻政信がなぜラオス問題に興味を持ったかを探るために、本書で商社のビエンチャン支店長に、「1950年代後半から、ラオスは統一と分裂を繰り返し、歴史がややこしいのですよ。かいつまんで言うとこういうことです。」と前置きして以下のように、解説させている。

 

 「1957年11月、プーマ殿下を首班とする第1次連合政権が誕生し、パテト・ラオら左派もこれに参加した。パテト・ラオは、ラオス愛国戦線として合法活動を始め、翌年の補充選挙では、9議席を獲得した。こうした左派勢力の進出に懸念を抱いたのが、アメリカだ。軍部と南部右派にひそかに支援を与え、プーマ政権を潰し、右派のプイ・サナニコン政権を樹立した。このため、パテト・ラオは再び地下に潜り、北ベトナムの支援下に活動、内戦は激化した。だが、右派と軍部にも複雑な主導権争いがあり、1959年末、サナニコン政権は総辞職した。

 1960年4月の総選挙でも、右派が大勝した。もっとも左派勢力は締め出されていたわけだが・・・。そして成立したのが、ソムサニット政権だが、実権は右派の実力者、ノサバン将軍が握っていた。このようなラオスの右傾化に反対したのが、コン・レ大尉のクーデターだ。ソムサニット政権は簡単に倒れた。

 コン・レはプーマを支持し、再びプーマ政権が生まれたが、ノサバン将軍はこれに加わらず、アメリカの援助を受けてビエンチャンを攻撃、ブンウム殿下を首班とする右派政権を樹立した。ビエンチャンを追われたプーマは左派と手を結び、1961年初めジャール平原のカンカイに”正統政府”としてのプーマ政権を立てた。辻(政信)さんが、ビエンチャンを訪れたのは、まさにこの時期だった。

 5月になって、ジュネーブでラオス問題解決のための国際会議が開かれ、翌62年7月、第二次三派連合政府が発足・・・・」

 

 「(1961年初めから4月ごろまでに限って、もう少し詳しく話すと)・・・1960年12月31日、ラオス右派政府は、北ベトナム正規軍がラオスに越境侵入したと非難している。これを受けて、アイゼンハワー米大統領は国務省、国防総省の首脳と緊急会議を開き、太平洋地域のアメリカ軍は通常警戒体制に入った。1961年1月1日、パテト・ラオ、中立派軍は、北部のフォンサリ、シエンクワン両州を完全に解放、両州に合法政権を樹立した。・・・

 1月20日、ジョン・F・ケネディが第35代米大統領として就任している。ハト派の象徴のような印象で語られるケネディだが、この男がホワイトハウス入りしてから、アメリカは、常に瀬戸際の危機に立たされることになる。駐南ベトナム援助軍司令部の設置など、ベトナム戦争への強引な介入。中国外交部は、このケネディの措置を、「宣戦布告なき戦争」と非難したものだ。ソ連のミサイル基地設置を理由に、キューバの海上封鎖を宣言した『キューバ危機』。アメリカの後楯による南ベトナムの軍事クーデター。

 1963年11月22日、ダラスで凶弾に倒れるまで、この理想主義を掲げた男は、『力の論理』によって、アメリカの権威を確立しようとした。その大目的、ソ連はじめ東側陣営のハナをあかすためには、彼の『瀬戸際外交』は、往々にして小国の利害を踏みにじった。

 ラオスも例外ではなかった。ソ連、北ベトナムなど東側の支援を受けるカンカイの左派・中立派軍、アメリカの援助によって成り立つビエンチャンの右派軍。ケネディは、アイゼンハワーの時代にもまして、右派軍にドルと武器を注ぎ込んだ。1月22日、ラオス前線に米オブザーバー出動(UPI)。3月18日、米、ラオス援助の増強を決定、駐在要員も2百人近くまで増員(AP)。3月23日、米空母『ミッドウェー』と2隻の駆逐艦、ラオス情勢に備え、香港を出動(AP)。3月24日、米海兵隊タイ・ラオス国境へ進駐(AP)。

 一挙に盛り上ったケネディの力の外交も、ラオスの情勢を好転させることは出来なかった。左派・中立派軍の優位のなかで、ケネディは、”アメリカの名誉”を守るため、右派に和解への圧力をかける。そして、双方に話合いの機運が生まれ、それが結局、5月9日の『ラオス問題解決のための国際会議』へと繋がっていく。だが、3月末から5月末にかけて、停戦を優位に迎えようとする双方の陣取り合戦が激化、ちょうど朝鮮戦争停戦前夜のような情況をつくり出していた。

 辻政信が、ラオス行きを決意し、ビエンチャン郊外で消えたのは、まさにこうした時期であったのだ。」

 

 

              本書の目次  

 

 

    プロローグ

    見知らぬ男

    第一の殺人

    接点を捜せ

    妖怪ピィーの謎

    ハノイからの特使

    シンガポールの虐殺

    オペレーションC

    密入国

    陽はメコンに沈む

    エピローグ

      あとがき

      解説       青木雨彦