毎日新聞 昭和31年(1956年)7月12日(木曜)

          「おとなしいアメリカ人」 (グレアム・グリーン著、田中西二郎訳)

        無邪気なデモクラシー  「おとなしいアメリカ人」を読んで

 

  イギリスの作家グレアム・グリーンの小説「おとなしいアメリカ人」が日本でも翻訳出版され話題になってい

  る。この小説は善意にあふれたアメリカ人が特務をおびてインドシナに派遣され、いろいろと工作するのを

  イギリスの新聞記者がつめたい目でながめて、暗にアメリカの対アジア政策を批判したものだ。グリーンと

  いえばこれまで「事件の核心」「愛の終り」「第三の男」といった一連の作品にみられるように、つねに神、愛

  、モラルとの対決をテーマにし、それをスリラー的な手法で描く特異な作風をもった作家とされている。「おと

  なしいアメリカ人」もこの系列にはいらないことはないが、舞台をアジアにもとめたこと(彼みずから調査に出

  かけた)アメリカ人といえば”やかましい”という代名詞がピッタリする逆をいって”おとなしい”という表現を用

  いてアメリカ人を皮肉に描いていることなどが変っている点だ。アメリカでもベストセラーになったが、日本で

  も沖縄問題はじめアメリカの対アジア政策の直接影響下にあるところから、そうした政治的背景も手伝って

  、身につまされて読まれているようだ。そこで「おとなしいアメリカ人」を読んだ阿部知二、加藤周一、武田泰

  淳、ドナルド・キーンの4氏から、この人たちの考えるアメリカ人についてきいた。

 

 

      歴史から仲間はずれ  東洋の「人間」に割切れぬ気持

 

  アメリカ人は、それほど「不愉快」にならなくてもいいのではないか。パイルは、たしかにからかわれてはいる

  。しかしそれはファウラアの方で、自分とパイルとの間には多くの共通なもの似たものがあり、だからパイル

  が考えたりしたりすることがわかりすぎ親近感すら生まれ、それでイヤになったというわけではないか。パイ

  ルは正義人道の名において悪をなし、ファウラアは絶望と夢との名において正義をなした、という裏表ひっく

  り返した話にすぎぬかもしれない。おれたち西ヨーロッパ人も、昔は君たちアメリカ人のように、若くて強くて

  まじめで、このアジアあたりで、いま君たちがやろうとしているようなことを大いにやったものだが、いまとな

  れば妙な夢だった・・・と感慨をもよおしている。すこしグレた兄が秀才の弟をながめているようなものである

  。そしてここにも、ギリギリのところでのカソリシズム対コミュニズムという現代における対立ー20世紀文学

  に絶えずくり返されてきた主題を見るということになるが、この場合には前者を西ヨーロッパ、後者をアジア

  とするという図式が引かれている。しかし、かんじんのアジアの「人間」はー心も体も小鳥のような女たちと

  か、5百年後も泥田にはいつくばって米を植え、天びん棒をかつぐであろう男たちとかという風に、その図式

  からははみ出したところに置かれているという感じ、つまり歴史の仲間には入れられていないという感じで

  あった。ふっ切れない気持が私に残った。 (作家・阿部知二)

                                  

 

     ”反米もの”ではない

 

  第一、グリーンの仕事の発展という点からみると「事件の核心」のなかに善の人間だけが人を不幸にする

  にすることができるという意味の言葉がある。また巻頭にペギーの一句をひいて、罪人こそ基督者の世界

  の中心にいる者だという。これはその後の「居間」や「事件の終り」にも扱われている作者唯一の根本的

  主題であり、その同じ主題が「おとなしいアメリカ人」では社会的な規模に拡大されて描かれているといえ

  るだろう。たった一つの主題を、それからこれだけの作品が展開されるほど深くつかんだということは、グ

  リーンの作家としての偉さだろうと思う。

  第二、アメリカのアジア政策の批判としては、少なくとも西欧の知識人の間では珍しい意見ではない。むし

  ろ久しい以前から一部では常識である。(仏訳は「エクスプレス」紙に連載されたが、フランスにも同じ意見

  の人々は多いはずだ)その常識は、この小説のなかに実によく出ている。したがってアメリカとアメリカ人に

  対しては、ほんとうに深い意味での忠告にもなっているのだろうと思われる。反米というものではない。そう

  ではなくて、アメリカのなかで生きている原理を外へもち出すときには、外の人間の身になって考えてもらい

  たい。抽象的な原理への信念だけがあり、現場の事情を何も知らない人間が、やたらに他の国をかき回す

  のは危険だということである。西欧の知識人が −もういちど繰返すが、グリーンだけでなく多くの人が常識

  として、アメリカに対しても、ソヴィエトに対してもまた自国流の植民地に対してさえも、少なくとも考えの上で

  はこのように自国に考えているということは、おそらくこの本の翻訳を通じて、日本の読者の興味をひくこと

  だろうと思う。

  第三、よんでおもしろい小説のこしらえという点からみれば、文章の平易明快は相変らずのことながら、例

  によって探偵小説まがいのしかけのこれほど巧妙自在な例は、グリーンの諸作のなかにも珍しい。おそらく

  その意味では今までの頂点である。

  第四、しいて何かを求めるとすれば、場所が場所だけに、ヴェトナム現住の人々を一少女によって代表さ

  せているのがいくらかもの足りないということぐらいであろう。 (評論家・加藤周一)

                          

        

     結果は作者自身の批判

 

  マルロオの上海もの、ヘミングウェイのスペインもの、さらに同じヴェトナム戦を描いたタルドの「黒河」など

  を読んでしまったあとでは、この作品はやや影がうすい。グリーンは「おとなしいイギリス人」を書くべきだっ

  た。英国のアジア政策の失敗についての方が、彼はよく知っているはずだから。第三勢力とむすびつこう

  とする、若きアメリカ人の善意はよく描けている。しかし、中国を占領していた時代の「おとなしい日本人」

  は、もっと巧妙に、知的に、第三勢力と結びついた。おそらく現在のアメリカ人も、自転車ポンプにしかけた

  爆薬など使う、子供じみた援助ばっかり、やってはいまい。

  この小説のヒロイン、美しき安南娘は全くわけのわからぬ存在だ。「第三の男」のウィーン女についてほど、

  作者が南アジアの女に、本質的に近づいていない証拠だ。グリーンは、おとなしいアメリカ人の「善意」が、

  かえってアジアに不幸を生む点を批判したつもりかしれないが、むしろ作者の意図を裏切って、この小説

  は、イギリスの新聞記者、つまりは作者自身のあいまいさを批判する結果になった。スリラー小説としては

  上等であるが、この種の方法でアジアを描くのは、もうムリではなかろうか。 (作家・武田泰淳)

 

 

     知恵の物足りなさ  善意が与えた悲劇

 

  アメリカのある文芸雑誌はこの小説を「最近20年間における最大級の傑作である」と評価した。20年間

  の世界のすべての文学を含むなら買被ったといえるが、ともかく、これはすばらしい小説であって、近年

  まれにしかない傑作であることは疑えない。

  小説の場面はインドシナ戦争で、善意で行動している「おとなしいアメリカ人」が自分の未熟な政治観のた

  めにどんなに人に害を与えたかの筋である。語り手はイギリスの記者であるが、グリーンの変身であると

  考えたら間違いであろう。記者のシニシズムには下向きつつあるヨーロッパ長い経験に基いた知恵が現

  われているが、アメリカ人の理想主義は幼稚なそして有害なものであるとしても、不安げにアメリカ人をな

  がめるこの知恵もまたいかに不毛であるかがわかる。しまいにイギリス人は一度は自分を救ってくれたア

  メリカ人を裏切るが「すまない」といえなくなった悲しみはこの知恵の物足りなさを物語っている。

  偉大な小説であり、くめばくむほど種々の意味が出てくる。が、「グリーンの手によってあばかれたアメリカ

  とアメリカ人の実体だ」とする表紙の広告は、反米感情に訴えようとする卑しむべき出版会社の営利主義

  だと思うほかはない。グリーン氏はむしろ現代のすべての人間の演ずる悲劇の一場面を描こうとした。人

  間の条件の一つであろう。田中西二郎氏の翻訳は優秀である。

              (コロンビア大学助教授・日本文学研究・ドナルド・キーン)


 

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  パイルという男

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  題名のとおり「おとなしいアメリカ人」戦乱にあえぐインドシナの米公使館員である。アメリカの経済工作の

  一環として民族産業をおこすためにプラスチックの輸入の仕事をしていることになっている。彼は友人の

  イギリスの新聞記者ファウラアと同せいしている安南娘フウオングを愛し、結婚しようとする「無邪気」な青

  年なのだ。また彼はアジア問題に書物と理論を通して熱中する。書物で説かれているとおり共産主義にも

  古い植民主義にも抵抗する「第三勢力」をアジアに作り出すのが「手の汚れていない」民主主義の使命だ

  と信じ込む。そのために雑軍に近いテェ将軍に武器を援助する秘密工作を行い、挑発のために爆薬をサ

  イゴンの広場で爆発させ、多数の婦女子を殺傷するが、それに対する反省はみじんもない。ヴェトナム人

  の血がいくら流されても、アメリカの使命達成のためには問題にならないのである。

  その無邪気さをファウラアは「狂気の一種なのだ」と理解する。ついにパイルは無邪気さの与える害毒を

  除くためにファウラアの手びきで共産軍の地下組織らしいもの、あるいはインドシナの愛国者に殺されて

  しまう。パイルは安南娘に対してヒューマンな感情を示すが、現地人一般に対しては非人間的である。ファ

  ウラアはそれと対照的な人間になっている。