メコン圏を題材とする書籍(ノンフィクション)       

                                  第6回          

       関連事項

 

 

モン族

 

中国南西部、ベトナム、ラオス、ビルマ、タイ北部を中心に分布する少数民族。自称モン、蔑称メオ

中国ではミャオ(苗)族と呼ばれ、約740万人(1990年)が居住する。モン・クメール系のモン族と区別するために、英語標記ではHmongと書かれる。

 

 

 

モンの主要人物

 

●トゥビー・リ・フォン

(1919年〜1977年)

仏軍、後に米軍に忠誠し、小国王(カイトン)をも名乗るモンのリ氏族首長。「モンの王様」とも呼ばれた。1975年、ラオス北部のビエンサイの再教育キャンプに送られ、1977年3月同地で死亡。

 

●バン・パオ

 

第2次インドシナ戦争でモン特殊機動部隊を率いる。1966年には、「モン独立国家」樹立宣言をするも、CIAの拒絶にあう。 1975年5月、ロンチェン陥落とともに、タイに脱出。その後アメリカやフランスで当初反攻を目指した活動を推進するが、次第に下火となっている。

 

●ファイダーン・ロ・ブリヤーオ

(1918年〜1986年)

インドシナ共産党指導下のベトミン、北ベトナム軍に従属し、ネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線)内のモンを先導した、ロ氏族首長。1975年12月ラオス人民民主共和国が樹立され、5人の新副大統領の一人に、カー族出身のシートン・コマダムとともに就任。

 

モンの氏族間戦争リ氏族とロ氏族の対立)

 

1820年、ベトナムとの国境沿いのラオス北東部・ノンヘトに、ロ・パ・シ率いるロ氏族の一群が流入し定着。1865年に、四川省南部からリ氏族とムア氏族の別のモンの一群がノンヘトに流入。ノンヘトに定着したモン族は、ロ氏族、リ氏族、ムア氏族の3首長が勢力を争ったが、ムア氏族が早々と脱落。残るロ氏族とリ氏族は、ロ氏族首長ムブル・ギオ(シェンクワン地方のモン社会を支配)の娘ロマイが、リ氏族出身の男性と結婚し第1氏を生む。リ氏族出身の男性もロ氏族首長ムブル・ギオの秘書にもなったのだが、その後ロマイは阿片を飲んで自殺し、両氏族間の関係も断たれ、その後の長い対立関係が続くことになる。ちなみにこのとき生まれた子が、後に「モンの王様」とも言われたリ氏族の首長トゥビー・リ・フォンであり、ムブル・ギオの次男が、ファイダーン・ロ・ブリヤーオである。

 

 仏軍は、両氏族の関係断絶・抗争を利用し、首長を2分。モン分割統治を進めるが、1935年ムブル・ギオの死後は、リ氏族に全権が委譲され、ロ氏族の衰退の前にファイダーンは、勢威を振るっていくトゥビーとそのリ氏族に激しい敵愾心を抱いていく。

 

 

      

                               

 

  『モンの悲劇』

     暴かれた「ケネディの戦争」の罪    

             

     竹内正右 著毎日新聞社 

     1999年1月発行

    

   

       

    

            第1回紹介参照

               (著者紹介・本書目次・関連事項などを含む)                     

      第2回紹介参照

        (米国本土のモン、アメリカ特殊戦争とモン)                                   

 

                                  第3回

 

 

 米国本土に16万人も居住するモン族であるが、米国以外にも、フランス・フランス領ギアナ、豪州・豪州タスマニア、カナダ等にモン族は移住している。米国ではなくフランスに移住したモン人は1万5千人余りといわれ、その一部は仏領ギアナに再定住している。アメリカが近代的な軍であるモン特殊攻撃部隊を組織して第2次インドシナ戦争の前線にモン人を狩りだす前には、フランスがモンの前にたちはだかり、フランスによってもモンの戦闘部隊が組織されていたのである。対共産ゲリラ対策として、伝統的な反ベトナム感情をもつラオス北部のモンの村々や、ベトナム北部トンキンのモンやタイ族の村々の青年達に武器と軍事訓練が施され、フランス・ドゴール派の象徴であるナチス抵抗組織にちなんだ名の「マキ」部隊が創設された。

 

 このモン・マキ、タイ・マキ部隊創設の要として、フランス対外諜報機関(SDECE),中央情報局(セクション6)に加え、フランスの一軍人の名前が、本書で紹介されている。ロジャー・トランキェール大佐だ。本書によれば、上海の仏人租界で植民地軍兵士であった彼は、その後中国国境のモンの村に入り、さらにトンキン首長の娘を妻とし、毛沢東の軍隊とベトミンの動きを探っていた。そして仏空軍降下部隊(GCMA,1951年創設。タイ族が主体で、後にGMIに変名)として、北ラオスや北ベトナムのモン・タイの村々に飛行機で舞い降り、村長達を説得して青年達をサイゴン郊外サンジャック岬のGCMAキャンプに空輸していたという。マキ部隊創設の過程だけでなく、その後のマキ部隊の具体的な活動や、フランス側の当時の動きなど興味深い内容が色々と本書では紹介されており、第1次インドシナ戦争を新たな別の角度から見ることができる。

 

 19世紀後半からこのインドシナ地域に勢威を拡大していったフランスとモン族との関わりについても、著者は非常に詳しい説明をつけてくれる。中国・清朝の下、差別・圧迫・生活困苦から更なる南下せざるを得なかった状況(満州族の清の時代には、官と漢族からの差別・圧迫と貧窮な生活から、雍正、乾隆、嘉慶の各時期に大蜂起に立ち上がっている(1734年〜1737年、1795年〜1806年、1855年〜1873年)。この150年間で3百万人ものモン人が殺害されたともいわれている。こうしてモンの北ベトナム、ラオスへの定着インドシナへの流入は続く)から19世紀初、北ベトナムへのモンの流入を迎えたベトナム・阮朝の対応と衝突について触れた後、多くのページを充てている。インドシナ北部地域のモン族やタイ族平定化を仏領総督府が進める上で、徹底したのが、タイ族やモンの民族間対立や氏族間対立、「夷には夷を」という土地の首長である土司制を利用した税徴収であった。1917年には雲南生まれでベトナムに越境してきたモンのチャオ・ファ・パッチャイが立ち上がり、タイ族領主からの税徴収に苦しんでいたモンを結集。ディエンビエンフーでタイ族に対する戦いを展開、その後フランス軍と数年にわたって戦いが続けられることもあった。

 

 モン族がどのような長い迫害の歴史を持ち、どのように米国やフランスなどの大国に利用され、そして今なおどのような生活状況に置かれているかということについて、読者が関心を持ち理解がもてるよう充分すぎる説明がなされているのであるが、モン族内部の氏族間争いや個々のモン指導者たちの姿も紹介されている。これらの事は、更に一般に知られていないことであろうし、あたりまえの事ながら、モン族全員が、いつも迫害と戦火から逃惑う幼子の手を引いた女性や無抵抗の老人、前線に送り込まれる素朴で心優しい青年ばかりではないわけで、一般庶民とは違った次元で違ったものに執着するモンの人たちの世界も冷徹にきちんと記されてある。そしてこういった氏族間抗争に、フランスをはじめとする外の勢力がつけこんでいく(その一端については、左記の引用紹介を参照)。リ氏族首長のトゥビーは、フランス軍(後にアメリカ軍)に忠誠を誓いモン戦闘部隊を率い(若きバンパオ将軍が活躍)、一方トゥビーと対立するファイダーンは、ベトミンに接触し、モン共産軍を擁立、スファヌボン率いるネオ・ラオ・イサラに参加する。こうしてフランス・ベトミン両方から前線に立たされるモン族同士は、インドシナ戦争の中でも戦いを続けていくことになる。

 

 こうしてモン族は、フランス・アメリカの西側世界の大国だけでなく、ベトナム共産党、中国共産党等の共産勢力ともかかわりをもつのであるが、更に、インドシナ戦争後の中越戦争時のモン、ラオス再教育キャンプからのモンの大脱走、現代ベトナムやラオスにおけるモン、日本軍とモン、タイ・ラオスのロム・クラウでの国境紛争とモン、タイにおけるモン難民、モンとケシ栽培・ヘロイン・エイズ、クンサー率いたモン・タイ軍のモン・トゥム基地(ビルマ・シャン州)でのモン、ベトナムにおけるモンの強制移住、不発弾とモンなど、1970年代初から、モン族にずっと関心を持ち調べてきた著者だけに、とにかく本書は、250頁弱の本ながら、興味深いテーマや情報がぎっしり詰まっている。きっと、それだけモン族のことが一般には知られておらず、またいろんな歴史があったということだろう。暴かれた「ケネディの戦争」の罪という副題がつけられてはいるものの、第2次インドシナ戦争時においてケネディの戦争に利用されたという面だけでなく、モン族そのものについて、またモン族のことを知ることによって、インドシナの理解・認識を改め深めさせてくれるような本であろう。

 

 更にいえば、漢族の南下により次第に南方の山中に追い詰められていったモン族(苗族)の歴史は古く、中国でのモンの古い歴史にも関心を持ちたい。巻末には、「中国歴代王朝下の史書に現れたモンとその処遇、地位、抵抗史」と題した資料が、「モンに関する主な出来事と同時代史」、数多くの参考文献リストと共に、掲載されている。