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「消え去った世界」
あるシャン藩王女の個人史
ネル・アダムズ 著、
森 博行 訳
文芸社、 2002年8月発行
ISBN4−8355−4138−3
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《著者プロフィール》 ネル・アダムズ
(シャン名 サオ・ノウ・ウゥ)
1931年 ビルマ(現ミャンマー) シャン州生まれ
父はロックソック藩ソーボワ、
母はチェントゥン藩ソーボワの娘
英国チェシャー在住
《訳者プロフィール》 森 博行 (もり ひろゆき)
1953年1月 京都市生まれ
慶應義塾大学大学院修士課程修了
(本の紹介文より・発行当時)
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第1章
シャン藩王国同盟、英国政府とソーボワ
私は、シャン藩王国同盟、ロックソック藩ソーボワの娘である。シャン州はビルマ(現ミャンマー)の4分の1、14万平方キロの土地を占め、1962年の軍事クーデタ以前には33の藩王国があり、各藩王国(モン)は複数の町と村を従え、それぞれの藩は中心となる町の名で呼ばれた。
シャン藩王国同盟=モンタイ[Mongはタイ語Muangムアンと同義、国。Taiは自称、タイ王国のThaiターイより短い音、Thai族はTaiをタイヤイと呼ぶ。方言差の同族]
ソーボワ=サオ パー[Sao Hpa、藩王。タイ語チャオファー]
ソーボワは世襲の直系男子で、33ある各藩国を統治していた。ビルマ人、そして後のイギリス人も、シャン語の称号「サオ パー」(天の支配者)を誤った発音で、ソーボワと呼んだ。1886年、英国が上ビルマに侵攻するとソーボワ達は好んで英国統治を受け容れたばかりか、そのうちの幾人かは、例えば当時ソーボワの世継ぎだった私の祖父は、最後のビルマ王達を掃討する英軍に参加した。支配が確立すると、英国政府は、人口の大部分がビルマ人である中央ビルマには直接統治を敷いたが、シャン州とその他の「山地州」、カチン、チン、カレンには自治を許した。だから、地理的にはビルマにあっても、1948年まで、シャン州は、ビルマとは政治的に独立した立場にあったのだ。
英国政府は、シャン州の州都タウンジーに置いた中央政庁(ホワイトホール[ロンドンの一画]の官庁街を小型にしたようなもの)に、英国人弁務官1名とそれを補佐する6人の地方監督官を任じた。各監督官は、中央政庁とその受け持ち地域のソーボワ達との連携を行った。弁務官の下には、森林、農業、教育、衛生、輸送、環境担当の各政務官がおり、彼等もソーボワと協働した。
各ソーボワは、1人の宰相、数人の専門大臣、1人の判官の補佐によって各自の領地を治めた。ソーボワの俸給は領地収入に一定率を乗じたものであったから、広くて豊かな領地のソーボワは、小さくて貧しい土地のソーボワより多くの俸給を得た。領地収入の約35%は中央政庁に拠出され、残りは領地の統治に用いられた。
ソーボワの支配制度は幾人かの外国人の目には封建的と映るだろうが、ソーボワとは単にその領民のリーダーなのであって、他の多くの国のリーダーと同じく、その土地の法の上位にあったわけではない。賄賂を受け取ったソーボワや、公金を不正に使用したソーボワは称号と権力を剥奪され、投獄されさえした。
シャン(Tai)人はカルマ(運命)を信じている。つまり、ソーボワとその後継者達は社会の中で特権的な地位に生まれたのであり、それゆえ王族として遇されるのである。ソーボワは領民から慕われ崇敬され、領民を導き正しい忠告を与えることを期待されていた。その正妻マハディヴィは領国の母家長、ソーボワの息子と娘は王子と王女と考えられた。最年長の息子が、ケンモン(ソーボワの世継ぎ)であった。ソーボワとシャンの人々は大きな好意と尊敬と信頼の念を互いに持ち合い、それゆえ、安定し統合された平和な社会を何十年にもわたって維持することができたのだった。
シャン同盟の33国はおよそロックソックと同様のパターンで組織され、ただ大きさと支配地域が異なるだけであった。ロックソックと同じく大小の村々を従え、それぞれはソーボワが任命する「ヘン」(村の長)によって監督されていた。中央政庁のメンバーと33人のソーボワは、シャン州全体を統治する「シャン州評議会」を構成した。評議会は全体の政策と住民の福利を討議するために、州都タウンジーで定期的に開催された。出席者の間にできあがったお互いをよく知る関係は、物事が問題なく運び、全ての関係者がその仕事を効率的に行うことを可能にしていた。当時、政治と統治は厳として男の仕事で、女は社交の機会以外は充分に遠ざけられていた。社交の機会とは、例えば「ドゥルバル」と呼ばれた年に一度の総会の後、ソーボワとその妻はより友好を深める意味で、シャン州弁務官が主催する晩餐会に招かれたものだ。
シャン州には5百万の住民がおり、大部分はシャン(Tai)人だった。この地域の12世紀以前の歴史ははっきりしないとはいえ、シャン人が初めてビルマに現れたのは紀元前1世紀、中国中央部での混乱が多くの人々を他の地域に向かわせることになった時期である。南下してビルマに入った人々は、ナムマオ河(現在のシュウェリ河)の谷に定着した。移動の第2波は6世紀に起こった。これは、セーンという雲南省からの山地民で、その一部はインドのアッサムに至り、13世紀にはアッサム地方を征し、1540年には「アホム王朝」を建てた。セーンの移住者の主力はイラワジ河の東側、シャン高原に定着したが、一部はさらにシャム(現在のタイ王国)にまで進んだ。共通のルーツを持つものの、それぞれの集団はアッサム、シャン、シャムと自称する。新しい土地で、シャン移住者は近隣の地方からの攻撃や抑圧から自由であることを知り、自らを「自由な民」と呼んで定住した。
12世紀から14世紀に、T’ai族がまた雲南省からサルウィン河に沿って南下を始め、シャン高原に定着し、更にはメナム河沿いに現在のタイ王国にまで至った。これらの人々は、シャン州ではタイ(Tai)、シャムではターイ(Thai)と称する。もとは同一の移住民だったので、両者の言語には多くの共通した単語がある。しかし、長年にわたる方言とアクセントの変化が両者の現在の違いをもたらした。シャン語では、自分たちシャン人をタイ(Tai)と呼び、その国を「シャンの国」では無くモンタイ(タイの国)と呼ぶ。何故、シャン人がシャンとタイ(Tai)という二つの呼び名を持つようになったのかは知られていない。これは、タイ王国のタイ人も同様に二つの呼び名、シャムとタイ(Thai)を持っている。ひとつの説明として、6世紀に移住した山地民セーンはシャン人の祖先で、12世紀の移住民をタイ(Tai)の祖先とすることも考えられる。もしそうなら、シャン人とは二つの移住民の混合ということになる、まるでイギリス人がローマ人とアングロサクソン人から成るように。
1962年までシャン州は、シャン人のほかに他のエスニックグループの居住地でもあった。コー、ラフ、リスはチェントゥン地区に、ワは東北部の山地、パラウン、ダウンスゥ(パオーとも言う)、パダウン、その他の小グループがシャン州内の各地、特に山地部に居住した。それぞれの集団は、固有の言語、生活習慣を持ち、それぞれが他の集団と区別できる服装をした。これらの多くの集団は、文化や言語が異なるものの、ソーボワの統治のもとで平和にそれぞれが協調して暮らしていた。この安定は、1962年、ビルマ軍の政権奪取によって打ち砕かれた。
シャン人のほとんどは、薄いクリーム色の肌で、戸外で作業するため薔薇色に染まった頬が多い。ごくわずかな人を除き、黒髪の直毛である。女性は半袖または長袖のジャケットかブラウスを纏い、そのボタンは五つで、たいてい金か宝石でできている。「シン」と呼ぶくるぶしまでの長いスカートを着け、腰に黒色の帯を巻く。「シン」は派手な色やパターン柄で、それに合わせるというか際立たせる意味で、ジャケットは白がふつうだ。公式の場では、女性は髪を丸型に結い上げ、宝石の入ったティアラやかんざしを着け、それらの飾りは、ネックレス、イヤリング、ブレスレットと合わされる。絹または精緻な織のショールを肩から腰の下まで垂らす。男性の衣装は、緩いズボン、白シャツに、ウールか綿か絹素材の淡い色のジャケットからなる。公式の場では、それに薄い色のターバンを被ることになる。
シャン人の間では、エリートと一般大衆の間に富と教育の面で大きな格差があり、ごく少数、教師、看護婦、技術者として給与を得るか、自分で事業を経営して生計を立てるほどの教育を受けるものがいたが、大衆のほとんどは農民だった。熱心な仏教徒で、もし私がシャン人の民族的特徴を尋ねられたら、わかり易い正直者の集団で、鷹揚で品が良く、柔和に話す人々と答えるはずだ。農民としての生活を受け容れていることは、向上心をそいでいた。平和な農村の暮らしは、それが実り豊かな土地でさえあれば、愉しくて満足できるものだった。不幸なことに、それを続けることは許されなかったのだ。軍事独裁者の横暴によって、農民はその豊かな土地から引き剥がされた。
遠い地平線、重なり合う丘と山並み、シャン州は美しい自然の風景に恵まれている。穏やかな気候はそこに生活し日々を過ごすのに心地よい場所で、豊富な降雨量がすべての種類の食料が育つ豊かな土地をもたらす。中でももっとも肥沃な土地は、サルウィン河とその支流の河川平野で、「シャンの米びつ」として知られた。その生産力豊かな土地によって、シャン人はつい最近まで他の開発途上国のような栄養不足や栄養不良に陥ることはなかった。チークに加え、松や竹といった軟材を含む厚い森林は、良い建材を提供する。鉱物資源の多くはまだまだ手つかずだが、それでもサファイア、ルビー、銀、亜鉛、銅などは順調に採掘されていた。
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