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「現地報告・タイ最底辺」
−ほんの昨日の日本ー
伊藤 章治 著
勁草書房、1984年7月発行
《著者紹介》 伊藤
章治 (いとう・しょうじ)
1940年生れ 名古屋大学法学部卒業、中日新聞社入社
1981〜83年、バンコク中日(東京)特派員を経て、現在、社会部次長
著書:『原点・四日市公害10年の記録』、『震災無防備都市』(共著)、
いずれも勁草書房。
(本の紹介文より・1984年発行当時)
2001年から桜美林大学教授。
著者は1964年に大学卒業後、駆け出しの新聞記者時代、1965年から4年余り
中日新聞四日市支局に勤務したが、この時の取材から、後に『原点・四日市公害
10年の記録』を小野英二の筆名で出版している。
最近でも幻冬舎から『夢見たものは』を著している。
本書は1981年から1983年までの2年間、新聞社の記者としてバンコクに駐在した著者が、NHKの朝の連続テレビ小説「おしん」が未曾有の高視聴率を獲得していた1983年夏に帰国後、タイ及びインドシナからの報告としてとりまとめたもの。本書で報告されているものは今から約20年前の頃のもので、引用されている数々のデータをはじめ既に当時とはかなり変ったと思える内容もあるが、タイ社会の構造や日本とアジアの関係についていえば、変っていない事も少なくなく、タイ社会の報告が日本の読者にとって「日本の豊かさとは?」を考える際の一つの素材になれば、と考え筆をとったという著者の当初の思いはいまだに十分通じるものがあろう。
タイの「貧困問題」が特に任期後半のテーマだった著者は、タイ・チュラロンコン大学の若い研究者の次のような主張 ー”タイはじめアジアの国々は二重構造の社会だ。都市住民と農民、金持ちと貧乏人とは別の国の人間といえるほど住む世界が違う。そしてタイ国民の8割が農民だ。アジア理解には貧しい農村と、農村から流出する農民達の流れ先、都市スラムについての理解が欠かせないー。”
に影響され、タイ理解を深めようと東北タイの農村生活とバンコク最大のクロントイ・スラムを”体験”する。
東北タイ(イサーン)では、典型的な貧村の1つで村民の半数は借地・小作農というブリラム県サトック郡ノッカリエン村を中心に、村人の暮らしと貧しさが第1章で報告される。小学校の課程を終えれず女中奉公や工場勤めなどで学業途中で村を離れざるを得ない村の子供たちのケースが紹介されタイの最大の社会問題「児童労働」が最初に取り上げられている。そして貧しさの実態と何が貧しさを生むのかということに筆がすすむ。東北タイの極貧の村からの報告の第1章では、タイの学制、1979年度ASEAN文学コンクール最高賞を受賞したカムプーン・ブンタヴィーの『東北タイの子』に描かれるこおろぎ取りの光景、東北タイの代名詞ともいえる東北6県にまたがる広大な原野「トン・クラ・ロンハイ」、ミドルマン(中間流通業者)と呼ばれる金貸しと青田貸し、タイにおける米の流通システム、「シックス・タイガー」と呼ばれる卸業者、輸出業者の大手6社、タイにおける華僑の発展の歴史、中東アラブへの出稼ぎなどの解説・報告に及んでいる。
バンコク市中心部から南東約5kmのチャオプラヤ河沿いに広がる首都バンコク最大のスラムであるクロントイ・スラム。著者はこのスラムの一角に短期下宿し、農村からの流入人口の”沈殿地”たるスラムの生活と人々を見つめ、教育問題、立ち退き、住宅・環境・健康問題、麻薬中毒、売春、タイの玄関港クロントイ港で船会社が荷揚げの都度臨時に雇うクーリー(苦力)など、スラムの抱える問題を第2章で報告する。
こうした厳しい社会の現実を浮き彫りにするだけでなく、これらの問題の解決に取り組む人々も、タイ人だけでなく日本人も含めて紹介している。 「きらびやかな寺院(ワット)作りより、まず村民の生活向上を」と村の開発に取り組むコラート県クンマウ村の「ワット・パー・タマダー(森の普通の寺、の意)の住職バンヤット氏: バンヤット氏を応援するバンコク在住の木原正治さん(木原食品及び農業サービス会社社長): 静岡県・田子の浦のヘドロ公害を告発した甲田寿彦さん(元富士市公害対策市民協議会会長)と「タイ農村に井戸一本を贈る会」: バンコクの北150キロのサラブリ県にあるワット・タム・ガボークという寺のチャムルーン住職と麻薬患者の治療活動(1975年にアジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」受賞): 1980年2月に発足したJVC(日本国際ボランティアセンター)と、クロントイ・スラムに住みこみJVCのボランティア活動を続けている日本の若者(福村州馬さん、高塚政生さん、鈴村千夜子さん)などだ。
自らもクロントイ・スラムで生まれ(1952年生まれ)、苦学の後に、スラム内に自力で貧しい子供たちに読み書きを教える学校(1日1バーツ学校)を開設。スラムの教育に尽くし、「スラムの天使」とも呼ばれ、1978年「マグサイサイ賞」(公共奉仕部門)を受けたプラティープ・ウンソンタム女史についても、かなりページを割いて紹介している。プラティープ女史は、プラティープ財団をはじめ社会活動を続ける一方、民主化要求運動でも積極的な活動を行い、2000年に上院議員に当選している。1987年日本人の秦辰也さんと結婚されたが、本書ではまだ30歳前後の独身女性であった頃だ。
さらに本書では、著者が新聞社の記者としてバンコクに赴任中、ベトナムとカンボジアを訪れており、その取材報告も第3章に掲載されている。カンボジアについては、ベトナムに支援されたカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)の成立から満3年の1982年1月に訪れており、いまだ内戦が続くものの復興がはじまったカンボジアの様子が報告されている。ベトナムについてはベトナム戦争終結後ベトナム経済が重大な危機に陥った1979年、同年秋「第6回中央委員会」(六中総)以降から進められた農業、工業、商業・流通において新自由化政策のもとでの80年代初期のベトナムの様子が報告されている。また1995年に発足したメコン河委員会(MRC)の前身たるメコン委員会の当時の挫折にも触れている。
バンコクのスラムでの取材、イサーンでの取材の間中、「これは昨日の日本の光景では・・・」 「日本の貧困史と何と酷似することか」との思いを抱き続けた著者は、第4章で、ほんの昨日(オンリー・イエスタディ)まで「貧しさ」との戦いが展開されていた日本の近代史を、昭和初期の東北凶作、貧民街、紡績業における出稼ぎ女工と東南アジアの国々を中心に海外の娼楼に奉公に出る女性達「からゆきさん」から振り返る。そして最終章で、開発をめぐる日本とタイの関係研究で著名なチュラロンコン大学政治学部社会開発研究センター所長スリチャイ・ワンケーオ氏 (1971年チュラ大卒業後、東京大学で農村社会学を学び、1982年6月、若手研究者や開発関係の意欲に満ちた役人、農村で活躍するボランティア達とで新たな研究会「もう一つの発展を考える会」を設立。当時は34歳でチュラロンコン大学の講師)の批判や考え等も紹介しながら、「豊かな日本」を問い直し、日本のアジアとの関係を問い直している。
目 次
まえがき
T タイ版おしん達
−イ・サーンからの報告ー
(1)ノックちゃん、町へ (2)美夢の果てに (3)ホンさん一家
(4)けなげな”孝子” (5)ミドルマン (6)電化の嵐
(7)アラブへ (8)赤い坊さん (9)泉を贈る
U スラムに住む
(1)背中の痛み
(2)スラム24時
(3)貧困の世襲
(4)珍商売
(5)嘆きの母
(6)スラムの天使
(7)日本の若者
(8)ある小頭
(9)祭り好き
V インドシナを歩く
1.カンボジアの旅
(1)復興 (2)憎しみのバネ
(3)自然の恵み
(4)ベビー・ブーム
(5)外人部隊 (6)遠い国
2.ベトナムの旅
(1)経済政策 明と暗 (2)寄せる波 返す波 (3)中越国境
3.メコン委員会
W オンリー・イエスタデイ
(1)東北凶作 (2)貧民街
(3)女工哀史とからゆきさん
X 問われる「豊かな日本」
(1)ネズミと乾電池 (2)援助”裏"の顔
(3)2度目の入亜
(4)下からの開発 (5)共に学ぶ (6)民衆のチャンネルを
あとがき