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「地雷を踏んだらサヨウナラ」 (文庫版)
一ノ瀬
泰造 著
講談社(講談社文庫)、1985年3月発行
ISBN4−06−183434−7
単行本は、講談社より1978年刊行
《著者紹介》 一ノ瀬
泰造 (いちのせ・たいぞう)
1947年、佐賀県武雄市生まれ。
1970年、日本大学芸術学部写真学科卒業、UPI通信社東京支局で働く。
1972年3月、カンボジアに行き、フリーの戦争カメラマンとしてスタート。
以後、ベトナム戦争を1年間取材し、「アサヒグラフ」「ワシントンポスト」など、
内外のマスコミで活躍した。
1973年11月、アンコールワットへ単独潜行したまま消息を断ち、1982年、
両親によってその死亡が確認された。
(本の紹介文より)
フリーの報道写真家として1971年1月から約2年間、バングラデシュ、インド、カンボジア、ベトナムの激動地帯を駆け抜け、戦火のカンボジア・アンコールワットで26歳の若さで殉じた一ノ瀬泰造氏の書簡・写真集。一ノ瀬泰造氏は、1973年11月、解放勢力側が支配していたアンコールワットへ単独潜行したまま消息を断ち、長らく生死の確認がなかったが、1982年2月1日カンボジアのアンコールワット北東10キロのプラダック村にて遺骨が発見され両親によってその死亡が確認された。一ノ瀬泰造氏が消息を断って以来、救出嘆願の活動が始まる一方、わが子を待つご両親のもとに一ノ瀬泰造氏が撮ったフィルムや、日記、書簡、レポートなどが集められ、1978年、講談社より本書単行本『地雷を踏んだらサヨウナラ』が出版された。(講談社より本書文庫版が1985年に出版)
一ノ瀬泰造氏については、各地での写真展や本書をはじめとする書簡・写真集、新聞・雑誌やテレビでの報道紹介、さらには本書と同名の映画化(浅野忠信主演)もされ、若い人にまで広く知られ、一ノ瀬泰造氏が撮ってきた写真だけでなく、一ノ瀬泰造氏の熱く自由な生き方や人間的な魅力は、多くの人を魅了し続けてやまない。本書には、1972年から73年にかけてベトナム、カンボジアで一ノ瀬泰造氏が撮ってきた写真が多数掲載されており(本書収録の写真キャプションの一覧はこちらを参照)、前線での激しい戦闘シーンやむごい戦争の傷跡、戦火に逃げまどう人々の様子だけでなく、戦火の中でも息抜く兵士の様子や子供たちをはじめ普通の人々の喜びや悲しみ、疲れの表情などいろんな写真が撮られている。
中でも兵士と家族が一緒のところを撮った写真はどれも良い。休暇で戻った兵士と迎える家族の喜びあふれる写真はほっとした気分にさせられる。これも有名な写真だが、一通の手紙に読み入る兵士とその妻(?)の仲睦まじい2人の笑顔はとてもさわやかだ。しかし盲目の老親(?)を先導して空爆から逃れるカンボジアの少女の姿は痛々しく、カンボジア解放軍のコンポンチャム猛攻で負傷し競ってプノンペンへ帰る船への離戦許可証を求める兵士たちの必死の形相のアップ写真も凄惨だ。本書のカバーにもなっている写真も広く知られているが、これは1973年8月、プノンペン南西30キロの国道4号線付近で、カンボジア解放軍の迫撃砲攻撃を受け、水田の中を逃げる政府軍兵士を撮った写真だ。タクハン川の北軍の捕虜釈放(1973年2月)を撮った写真も何枚かあり、一ノ瀬泰造氏自身が被写体の写真も収められている。
講談社から発行されることになった単行本には、一ノ瀬泰造氏の人間的魅力を出す為に、写真だけではなく日記、書簡などもいれることになったらしいが、本書に収められることになった書簡は、左記の通り、1972年3月から6月までの日記、両親、友人、恩師等への手紙などから成る。特に母とのたくさんの手紙のやりとりには、この家族の明るく自由な雰囲気や絆の強さが感じられる。一ノ瀬泰造氏が1972年・73年の2年間をどのように過ごし生きたかが、時の流れに沿ってわかるように、書簡の部分は、「カンボジア従軍記」、「ベトナム最前線」、「アンコールワットをめざして」と、時期別に3つのパートに分れている。
1970年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、UPI通信社東京支局に勤務するが翌1971年退社し、その後、横田基地のPXで働き、時間外はアルバイトでベトナム渡航の資金を貯め、まずバングラデシュに向け1972年1月20日、日本を発つ。本書にまとめられている最初の書簡集「カンボジア従軍記」は、1972年2月20日バングラデシュのダッカから両親に宛てた手紙と、1972年3月6日(頃)、親友の赤津孝夫氏にカルカッタから宛てた手紙から始まっている。当初、インド、タイ経由でビザをとってベトナムに向かう予定であったが、当時、既に解放勢力側の支配下にあったアンコールワット遺跡への一番乗りを目ざし、1972年3月14にカンボジアに入国する。シエムリアップに腰を据えるが、カンボジア政府軍との間にトラブルが重なり、国外退去を命ぜられる。ここまでが「カンボジア従軍記」の時期。ここではカンボジアでの一番の親友であるチェット・センクロイさんをはじめとするカンボジアの人たちとの交流が暖かく、人が良くのんきなカンボジアを気に入っている。
1972年8月29日の朝日新聞に掲載された。この記事については、本書でも本人が母宛ての手紙で「・・・事実と違うようなところもかなりありますが、基本的には変わらないでしょう。・・・」と書いており、母からの手紙にもこの記事のことが述べられている。故郷での数日の滞在後すぐに南ベトナムに戻り、1973年6月〜7月、約1ヶ月間、ボクシング教師という目的でカンボジアに再入国し戦闘取材をする。そして8月、韓国の弾薬輸送船に同乗し、両岸から浴びせる解放勢力側の砲撃の中をサイゴンからプノンペンまでメコン河を遡り(この時の記録「輸送船団同乗記」は、1973年8月15日の毎日新聞に掲載)、カンボジアの戦闘を撮り、1973年11月には、親友チェット・センクロイさんの結婚式のため、シアムリアップを再訪。そして本書のタイトルにもなった「地雷を踏んだらサヨウナラ」と、親友の赤津孝夫氏に宛てた書簡で書いて、単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を断ってしまう。
一ノ瀬泰造氏がアンコールワット遺跡近くで行方不明になったと日本の新聞で報道された1973年11月末以降、泰造氏の生死を確認するためTBSの取材陣とともに両親がカンボジアに行かれる1982年までのことを、泰造氏の母、一ノ瀬信子氏が綴った書籍
『わが子 泰造よ! カンボジアの戦場に散った息子を求めて』
(一ノ瀬信子 著、合同出版、1985年5月)には、この書簡・写真集『地雷を踏んだらサヨウナラ』が生まれるきっかけについても書かれている。
「・・・目の前にドサッと横たわる黒いフィルムの束・・・。これをこのまま、手をつかねて眺めているだけでいいのだろうか。親として何をしてやったらいいのか。泰造は何をして貰いたいのだろうか。息子があの戦雲低く垂れ込めていた頃のカンボジアでただ一人、アンコールワットに向かっていった時の心境を考えると、私の胸は大きく痛んでくる。フィルムから伝わる息吹に応えてやりたい!夫と顔が合うたびにこの話を繰り返した。そして出る答えはやはり「写真展」であり「写真集」でしかなかった。もうじっとしてはいられない。先ずベタ焼きをして一目でわかる整理をしよう。膨大な数なのでどの程度出来るか・・・。でもやってみなければわからない。」
先生という意味でロックルーと呼ばれたチェット・センクロイ氏との交流の様子がとても素敵で本書にもよく描かれている。この人もとても魅力的だ。彼の結婚式の写真も収められているが、沼田の中を新婦を連れ添う写真も、とっても良い。彼の結婚式がシエムリアップで行われ、本書収録の未発表原稿3編の一つ「ロックルーの結婚式(’73年11月)に、その模様が詳述されている。本書には書かれていないが、非常に痛ましいことに、この素敵な人も1975年に処刑されていたことが後に判明している。
目 次
写真 硝煙の中で
開いたままのシャッター(序文)・・・・・・・・・・・・開高 健(1978年2月)
書簡 カンボジア従軍記
次の取材地をベトナムに求めて/憧れのアンコールワットに接近!!
シアムリアップ村の従軍暮らし/戦争ゴッコの遊び場にもロケット弾が
クメール・ルージュの捕虜を撮る/激戦地スワイトムでの負傷
フィルムを詰め忘れた不覚/アンコールワットのフィルムを没収される
フリーカメラマンの限界に悩む/ ピクニック場にロケット弾が
没収フィルム2本、遂にもどらず/スワイロシュ寺院でベトコンと間違えられる
クメール・ルージュに30分間捕われる/カンボジアから強制退去の命令
写真 汚れた星条旗の下で
書簡 ベトナム最前線
ボクは詩情も涙も無いウォー・フォトグラファー/国際的なフリーカメラマンをめざし
写真 憎悪のはてに
書簡 アンコールワットをめざして
再びカンボジアの最前線へ潜入/激戦地アンスヌールで2度目の負傷
アンコールワットを撮れば死んでもいい/地雷を踏んだら、サヨウナラ!
未発表原稿 カンボジア報告
@赤い水がよどんでいた Aコンポンチャムの街が泣く Bロックルーの結婚式
写真 安息と死と
戦場での一ノ瀬君・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬渕 直城
文庫版へのあとがき ・・・・・・・・・・・・・・一ノ瀬清二、信子
(1984年11月29日)