本文へジャンプ
 

         第5話  タミル語のプリズム


542年に倭国は百済から扶南の「財物と奴」を献上され、そのときの百済の使節のなかにクドゥクル(『日本書紀』ではコツコル)という名前のタミル人がいた、というようなことを前回お話しました。この時代、すなわち6世紀前半のアジアは粱を中心とする大きな文化交流のあった時代です。

南朝四百八十寺と唐詩にもうたわれた中国南朝の中でも、502-557年間続いた半世紀の粱の時代はとりわけ仏教が盛んで、扶南は仏僧サンガパロとマントラセーナの2人を粱に派遣してきます。またタミル人の本家のカーンチープラムからはボーディ・ダルマが粱にやってきます。禅宗の開祖として有名な達磨さんです。ボーディ・ダルマはそのまま中国にとどまって南インドに帰らず、またサンガパロは数カ国語に通じる語学力を買われて16年間中国に留まって仏典の翻訳をしました。南インドで今日のようにヒンドゥー教が盛んになるのは7世紀からのことで、達磨さんが粱の国にきたころは、大乗仏教が圧倒的に栄えていました。扶南も大乗仏教とヒンドゥー教が共存する国だったのです。

一方、百済は粱に対してしばしば工匠や画師などの派遣を要請しています。百済は4世紀後期より仏教を受容しており、当時は仏教寺院の建築家や仏師などの芸術家を求めていたのでした。粱の仏教界はおそらく南インドや扶南から派遣されたタミル人僧によって指導されたものと思われます。仏教芸術家も扶南や南インドから来たタミル人の匠たちがたくさん活躍していたのではないでしょうか。

扶南は仏僧たちを派遣したカウンディンヤ・ジャヤヴァルマン王からルドラヴァルマン王に交替した後、国が急速に衰えます。ルドラヴァルマン王が最後に粱に使節を派遣したのが539年、以後、扶南はチェンラの侵入によって都を移し王系は不明となります。この年の前、534年にクドゥクルの1回目の倭国訪問があり、そして後に542年の「扶南の財物と奴」の献上があるのです。衰亡の兆候の見える扶南は倭国に何を見たのでしょうか。

554年、百済は知識人・僧侶・楽人などを倭国に派遣してきました。そのうち4人の楽人の名前が『日本書紀』に見えますが、これはタミル人の名前のように思います。

 1.サムコン = サーマガーナム(サマヴェーダの歌)

 2.コマシ  = クンマッディ(小さな太鼓)

  3.  シンヌ  = シンナ(若い)

  4.  シンダ  = シンタイ(心)

さらに588年、百済は僧侶・建築家・芸術家を倭国に献上してきました。彼らの中にもタミル人のような名前の人たちが『日本書紀』に見えます。

 1.ダラミダ    = タラミタ(等級が上がる)

 2.モンケコシ   = マンガイコーディ(女性の群れ)

 3.マナモンヌ   = マナマンヌ(永遠の記憶)

  4.  シャクマタイミ = サガマティヤミ(世界の中心)

先に上げた名前が『日本書紀』に見える名前です。百済から来たのだから百済人だろうと考えるのがまず普通ですが、百済にとっては僧侶をはじめ寺院建築家・仏教芸術家すべてが中国を通じて外から来た人たちなのです。それに粱の時代の仏教文化の興隆は扶南や南インドのタミル人僧の活躍によるもので、タミル人が百済に入る条件は十分に熟しているのです。しかも扶南は急速に衰亡しつつある国で、588年はくしくも扶南が中国(粱の後の陳)に国として最後の使節を出した年でした。

扶南が最初に中国(呉の孫権)に使節を送ったとき、財物と楽人を献上して敬意を表したものです。542年の財物の献上、554年の楽人の献上と、衰えゆく扶南が必死で倭国との関係を拓こうとする動きが見えるような気がします。以上のような状況証拠から、『日本書紀』に見える楽人・仏教芸術家たちの名前にタミル語のプリズムを当ててみたのですが、さていかがなものでしょうか。