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       第54話  黒いマレビト(4)


 宴半ばに、那木比古は樟ガ洞へ行って暗やみの中から谷川の水を飲みに来た大鹿を手捕りにして来たので翁はその武勇を誉めたたえ波姫に命じて祝杯を差し上げました。那木比古は祝杯の動きを鎮めていたが、何を思ったか、神庫へ行って赤塗りの矢を取り出して庫の前に突立ち、弓を引き絞って矢を放ちました。あっとみなが驚く中を姫の持っている鼓をポンと鳴らして優しく膝の上に乗せたので波姫は微笑みながら矢を取って呪文を唱えると、たちまち一輪の美しい花に変わったのです。その夜は主客ともに親しく交わりながら楽しく過ごしました。翌朝、父の大神は那木比古と団平船を見に行き、もの珍しい設備や航海技術に驚き新しい知識を得たことを悦びました。翁は大神の秘めた抱負と那木比古の決心を聞き、大いに感服して、永くこの多賀の地に留まることにしたのです。やがて数年が過ぎ去り多くの船大工と船頭がそろいました。

高木の大神は四十人の家来に部署を定めて伊豆、相模、駿河に命令を発して軍艦を作らせて下田港に集合し、第二船隊も房総から武蔵に命じて三崎港に集合し待機させました。

 梅雨が明けて東風が吹き流れる初夏の晴れた日、若い総帥の那木比古は翁に代わって波姫を水先案内に頼み大神の盛大な見送りを得て勇ましく全艦隊に出港を命じました。どの船も帆柱高く帆を巻き揚げ、順風に乗って遠州灘を真一文字に西走して乗り切り、熊野沖を通過して紀伊南端より紀伊水道を北上してついに七つの海を渡り継ぎ七つの島を征服して悪い神兵を平定して、人民達を救いました。しかし、悲しいかな出雲の火の神との戦いで力と頼むいとしい波姫を失ってしまいました。

幾年月か経て、那木比古は淋しく凱旋しましたが、その時は父の大神も翁の白波之弥奈阿和之命も既にこの世から姿を消して神あがりをしていました。

那木比古は上多賀に日少宮(ヒノワカミヤ)をお建てになって余生を送り、ほど遠からぬ赤根崎に美しかった波姫の祠を作り美しくも優しかった姫の神霊を慰めたと伝えられています。

以上が國次さんから送られてきた説話です。

説話の発端は神の天下りですが、おそらくは外来の海人族の勢力が熱海の地方に上陸し環濠集落を作って最初の勢力を扶植したものと思われます。父神の名または通称とおぼしき高木(タカキ)に注目してみましょう。韓国語にタカソ、タカオという動詞があります。両方とも「上がる」「近づく」という意味で、「タカ」の音が共通しています。タカキの大神の「タカ」はおそらくこれでしょう。また多賀という地名も、この「タカ」に由来するものと思います。海人族が海から上がってここに国を造ったことが高木の大神という名前、および多賀という地名に伝えられているのではないでしょうか。タカキの「キ」はイマキのアヤヒトなどと言われるイマキの「キ」で日本語の「来(キ)」に通じるものでしょう。高木の大神とその子のナギヒコを王家とする海人の一族が、海から「上がって」熱海の地に国を造りました。それがそもそものはじまりです。

それに続く高木の大神とその子のナギヒコの会話を見ますと、どうもこの海人族の一団は海の向こうの七つの島を舞台に繰り広げられた大きな戦争で負けて逃げてきた落ち武者であることがほのめかされています。戦争の負け組ないしは国を滅ぼされた遺民が、未開発の土地に逃げ延びてふたたび勢力ないしは国を築くことは、たとえば高句麗が滅んでその遺民が北方に逃げ走り渤海王国を築いたり、遼が滅んでその遺民が北方に逃げ走り西遼(カラキタイ)を築いたり、また近くは明が滅んでその遺民が南方に逃げ走りメコンデルタに明郷(ミンシャン)を築いたり、史書に明らかな例が見られるとおりです。ですから情報の中心に住む都会人の書く史書に捕捉されることのない弱小な勢力が、未開発の土地に逃げのびて弱小な村や国を造った例は、この説話のように民間伝承に伝えられるしかなかったものと思われます。