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       第55話  黒いマレビト(5)


そこに現われたのは「見た事もない快速船」でした。その船から下りてきた人たちと宴会が繰り広げられますが、それをとばして翌朝、高木の大神とナギヒコは船を見学します。そこで二人は「もの珍しい設備や航海技術に驚き」ました。船長とおぼしき翁は、この熱海の国に永く留まることにし、そこから外洋航海のための造船技術と航海技術の技術移転が数年間行なわれて、堂々たる艦隊を熱海の国は保有することになりました。高木の大神はかつて七つの島をめぐる海人族どうしの覇権抗争にやぶれて未開の土地に逃げてきた人と思われますが、彼がかつて見たこともないすばらしい船が現われたことがわかります。この堂々たる外洋船は、崑崙船でしょう。南インドの崑崙船はジャワのボロブドゥールのレリーフに往時の姿を残していますが、タミル人のパッラヴァ王国からその植民地の扶南王国その後継王朝のドヴァーラヴァティー、ジャワ島、林邑王国さらに古くは南越王国との間を就航したタミル人の船です。あれこれ史書や関連する研究書を見るに「崑崙」とはずばりタミル人のことではないかと僕は思います。

さて見た事もない快速船からは「黒く光った顔の翁」と「色の白い美少女」が十人ほどの家来を連れて上陸してきました。漁師たちは「海神様」のお使いと考えて、仮座を設けて接待しますが、「その回りにしめ飾りを張っ」たと説話は述べています。ちょっと話は飛びますが、日本では仏教の影響を受けて元来は山そのものを神体とする土着の信仰が神社などという巨大な建物を造ったりしますが、これは建物の面で仏教に対抗するものだったようです。そしてそれは儀式の面でも仏教に対抗するものとしてさまざまな神事が発生してきたのではないかと思われます。その際に参考にされたのは古ヒンドゥーの儀式だったのではないかと僕は疑っています。なんにもないところからはなんにも生まれませんからね。かならずやタネがなければなりません。神楽などももとは南インドあたりの宗教的な舞踊が淵源だったのではないでしようか。

快速船の船長もしくは船の中で最も尊貴な人物である翁は「黒く光った顔」であったと、第一印象が伝えられています。これは明らかにタミル人の顔の特徴ではないかと思います。シンガポールに旅行したときに、たまたま僕が泊まったホテルがカンタス航空系列のホテルで、それはインド人街のどまんなかにありました。夕方、散歩に出て驚いたのですが、まわりはインド人が大勢街に出て散歩しているのです。彼らはみなタミル人で男も女も「黒く光った顔」をしていました。またバンコクのシーロム通りにはタイ人の間にワット・ケークと呼ばれるタミルナードゥ州にある本山の末寺にあたるヒンドゥー寺院があります。ディパワリー大祭の日にお参りしたことがありますが、祭壇の回りに高くしめ縄が張られてありました。長い竿の先に細い縄が張られてあり、間隔を置いて長めの木の葉がぶらさげられていました。「うん、これだな。日本の注連縄の原型は」と思ったものです。日本の神社の注連縄にはいろいろな形のものがありますが、探せば原型に近いものがどこかの神社にまだ残っているかもしれません。木の葉を下げる注連縄を見たという読者の人がおられるならば是非メコンプラザを通じてご一報ください。

 さて熱海の国の王が主催した祝宴では、翁は「海の彼方の様子」を語り、美少女は「手足に金の小鈴をつけた珍しい踊り」を踊っています。翁の話はタミル人のパッラヴァ王国の崑崙船が往来していた海域の話でしょう。また美少女の踊りはいかにもインドの踊りという印象ですね。

 さて熱海の国は当時、伊豆、相模、駿河、房総、武蔵の国に軍艦を作らせて大きな艦隊を編成したと説話は伝えます。内陸部はさておき、静岡県から千葉県に至る関東の沿岸部の海港および海域を海人族の熱海の国は支配下に置いていたことがわかります。紀元前三二年に「楽浪の海中にある倭の百余国」が漢の国に使者を送ってきたことが中国の史書に見えますが、「倭の百余国」とは陸上国家が百に分裂していたのではなく、沿海の百余り港が連合する海上権力が漢の国に使者を送ったと解釈するのが真相に近いのではないでしょうか。熱海の国は関東の沿岸部の津々浦々をたばねた海上権力に成長していました。