本文へジャンプ
 

       第58話  黒いマレビト(8)


鹿島神宮と香取神宮は、関東地方では大変古い歴史を持つ神社です。ともに『古事記』『日本書紀』に見えるタケミカヅチ、フツヌシを祭神としていますが、鹿島神宮の神について『常陸風土記』には「香島の天の大神」と記されており、「香島」とはもしかすると熱海の国に伝えられる崑崙船の艦隊による西征伝説に見える「七つの島」のうちの一つかもしれません。近畿政権の支配力が東国に及ぶ以前、関東にはかなりの勢力を持つ王国が存在し、『古事記』『日本書紀』とは別系統の神話が関東にあったのではないでしょうか。また鹿島神宮は神武天皇即位の折に建てられたとも伝えられます。ともあれ『古事記』『日本書紀』が成立するはるか以前に鹿島神宮が興ったことは確かでしょう。この鹿島の名がつく鹿島踊という疫霊退散の祈祷舞踊が、小田原から東伊豆の北川温泉までの各地に伝えられています。これは毎年の豊凶を村々に告げ歩く鹿島神宮の下級神人によって伝えられたとモノの本に書いてあります。

東南アジアのインド文化圏では、作物の豊作はたとえばタイのメーポーソップやインドネシアのデウィスリなどの稲の女神に対して祈願されるものですが、メーポーソップの名前の由来はサンスクリットの財神ヴァイシュラヴァで、またインドネシアのデウィスリは財神ラクシュミーと同一視されています。鹿島神宮の下級神人は財神からのお告げを村々に告げ歩いたものといえましょう。タケミカヅチ、フツヌシは武神ではあっても財神ではありません。鹿島踊を伝えた鹿島神宮の下級神人は、タケミカヅチ、フツヌシ以前の、本来の鹿島神宮の祭神のお告げをはるか後世まで伝えてきたのではないでしょうか。では本来の鹿島神宮の祭神とは何でしょう。

それは「カジマ」という名前にあるものと思います。タミル語にカーンジという言葉があり、紀元前二世紀に南越王国と崑崙船により盛んに交易を行なったカンチープラムという国の略称です。中国の史書には黄支(カーンジ)国と記されています。そしてタミル語のマーという言葉には財神ティルマガルの意味があります。この二つの言葉から「カーンジマー」という言葉を合成することができ、意味は「黄支(カーンジ)国の財神ティルマガル」となります。「カーンジマー」が訛って「カジマ」として倭人の耳に定着したのではないでしょうか。かなりクレイジーな仮説と思いますが、財神がなす豊凶のお告げから本来の祭神に迫ろうとするもので、筋は通っているのではないかと思います。

いや、それにしても何でヒンドゥーの財神が出なくちゃならないの、と大変不審に思う読者がほとんどではないかと思います。これについては実は香取神宮の例祭が明白な答えを出してくれているのですよ。香取神宮の例祭は4月14日に行なわれ、ご神体が神輿に乗って利根川を遡りふたたび神宮に還るものですが、4月14日という日付に重大な意味があります。タイに住んでいる人はみな知っていますが、その日は俗にタイ正月といわれるソンクラーン祭の中日で、大暦(マハー・サカラート)の正月元日なのです。マハー・サカラートとは、北インドのシャーリヴァハナ王が南インドを征服した記念に制定した暦で、紀元78年4月14日をもって元年正月元日としたのです。この日に香取神宮が例祭を行なうことは、インドの大暦による正月元日を祝うことにほかなりません。これによく似た祭りがインドに住むタイ系のファーケー族に伝えられており、仏教徒の彼らは4月13日に仏像を本堂から川端の仮のお堂に移して水浴させ、4月14日に仏像をふたたび本堂に還す儀式を行ないます。香取神宮の例祭と根はひとつのもので、かたやご神体、かたや仏像ですが、その原型はおそらくヒンドゥーの神ではなかったかと思われます。それにしてもお神輿が利根川を遡るとは、河の多いインドに同じような祭りがあってそれが伝わったのではないかという想像力をふくらませてくれますね。

 以上のように『古事記』『日本書紀』を正史として定めた古代の権力は、関東の古い王国からヒンドゥー色、タミル色などを一切抹殺してしまったのですが、インドの痕跡は神社の例祭に明白に見られますし、古い民間伝承をクレイジーに読み込めば仮説ながらもここまでインド色を復元することができると思うのですが。