空白への挑戦  『阿波丸の悲劇』   (松井 覺進 記者)

                        朝日新聞夕刊 「にゅうす・らうんじ」に連載  (全41回)

第1回 朝日新聞夕刊 1990年9月3日(月)     新聞記事コピー
 敦賀港に姿を見せず   米、「撃沈」と内部通報

  ・(写真)大東亜省をつくった東条英機首相     

  ・(写真)乗客と物資を満載し、吃水(喫水)深く沈み、日本への最後の航海をする阿波丸。米海軍機が撮影

第2回 朝日新聞夕刊 1990年9月4日(火)     ⇒新聞記事コピー
 台湾海峡の大陸寄り   日本への通報はなし

  ・(写真)シーボルト海軍中佐 ・(写真)フォレスタール海軍長官  ・(写真)ステチニアス国務長官

  ・(地図)阿波丸が撃沈された台湾海峡の地点を示す

第3回 朝日新聞夕刊 1990年9月5日(水) 
 自国捕虜に手厚い米   軍需物資積載も黙認

  ・(写真)タイとビルマを結ぶ日本軍の泰緬(たいめん)鉄道の建設に連合国軍の捕虜たちが使われ、死者

   も出た(1943年、ビルマで泉信治郎氏撮影。泉氏自身、1945年2月にサイゴンから乗船して阿波丸

   で帰国する予定だった)

第4回 朝日新聞夕刊 1990年9月6日(木) 
 皇軍は捕虜より死を   苛酷な敵国人処遇

  ・(写真)山下奉文に無条件降伏、捕虜になった英軍司令官パーシバル

  ・(写真)立場が逆転。パーシバルに山下奉文が無条件降伏

第5回 朝日新聞夕刊 1990年9月7日(金) 
 米、「ソ連船」を提案   中継地にウラジオ

  ・(写真)客死した斎藤博駐米大使の遺骨を運んできた米艦アストリアのターナー艦長らを日本の海軍省

   が招待した時の記念写真。右から2人目から米内光政海相、グルー駐日大使、野村吉三郎大将、山本

   五十六次官 =1939年4月19日、東京都港区の水交社で

第6回 朝日新聞夕刊 1990年9月8日(土) 
 「捕虜条約守れ」と英   「東洋食では不十分」

  ・(写真)戦前の日赤副社長 島津 忠承 氏

  ・(写真)第1次日米交換船の浅間丸 (16,975総トン)

  ・(写真)第2次日米交換船の帝亜丸 (17,537総トン)

第7回 朝日新聞夕刊 1990年9月10日(月)

 救援物資の輸送 実現   軍事的思惑 絡める

  ・(写真)大東亜会議を前に勢ぞろい。右からワンワイタヤコン(タイ)、汪兆銘(南京政府)、青木一男(大

   東亜相)、張景恵(満洲)、重光葵(外相)、ラウレル(フィリピン)、バーモ(ビルマ)の各代表

    =1943年11月2日、東京・帝国ホテルで

第8回 朝日新聞夕刊 1990年9月11日(火)

 白山丸、ナホトカ港に   米、継続を対ソ要請

  ・(写真)ソ連のアンドレイ・グロムイコ駐米大使

  ・(写真)ナホトカで救援物資を受け取った白山丸。戦後は中国、フィリピン、樺太からの引き揚げ船に

  ・(地図)ナホトカ、ウラジオストク、羅津、敦賀、神戸、門司を示す

第9回 朝日新聞夕刊 1990年9月12日(水)
 星丸は中国へ金15トン   交信は米に筒抜け

  ・(写真)暗号解読を指揮したW・フリードマン氏

  ・(写真)1945年に製造された中国の儲備券。同券では最高額面の10万円

  ・(図表)救援物資の仕向け地・トン数(概算)・運搬した船

第10回 朝日新聞夕刊 1990年9月14日(金)

 やっと阿波丸派遣へ   星丸は無事に帰港

  ・(写真)日中戦争時代の上海・黄浦江

第11回

朝日新聞夕刊 1990年9月17日(月)

 船体、9ヶ所に白十字   米、安全航行を保証

  ・(写真)ヤルタ近郊で会談したチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリン・ソ連共産党書記長

          (1946年2月)

  ・(資料)安全航行確認の文面などが続く米国務省の電文

第12回

朝日新聞夕刊 1990年9月19日(水)

 「極めて安全の如き」   門司で最後の便り

  ・(写真)阿波丸に乗った喜多村 哲夫 氏    ・(写真)竹内新平 大東亜次官

  ・(資料)竹内が妻子にあてた最後の手紙

第13回

朝日新聞夕刊 1990年9月20日(木)

 大量の武器を輸送   タイへ向け900トン

  ・(写真)阿波丸の機関長 山本 玉治 氏

  ・(地図)阿波丸の往路を示した地図(門司→高雄→香港→サイゴン→シンガポール→ジャカルタ)

第14回

朝日新聞夕刊 1990年9月21日(木)

 自沈装置載せて航行   一帯「潜水艦の巣」

  ・(地図)1945年3月 米国潜水艦の展開

   1945年3月中に撃沈された●印貨物船と▲印タンカー。米軍機や機雷によるものも含む。フィリピン

   東岸沖の潜水艦は東シナ海や南シナ海に移動

第15回

朝日新聞夕刊 1990年9月22日(土)

 紙一重、一時は標的に   救援品、無事届ける

  ・(写真)シンガポールの西埠頭長だった気多 稔  氏

  ・(写真)日本に降伏、シンガポール最大のチャンギ捕虜収容所に入れられたオーストラリア兵。

   阿波丸の救援物資はここにも配送された

第16回

朝日新聞夕刊 1990年9月25日(火)

 もめた乗船割り当て   熟練技術者を優先

  ・(写真)当時、駐タイ大使だった山本 熊一  氏

  ・(写真)内地では早くから増産運動が行われていた。1943年8月のポスター。阿波丸には増産に

   必要な技術者、熟練工が多数乗船していた

第17回

朝日新聞夕刊 1990年9月26日(水)

 故国思い安らぐ乗客   乗船断った人も

  ・(写真)海運報国団ジャカルタ支部長だった浅岡 泉  氏

  ・(写真)ジャワ島の生徒に軍事教練をするジャカルタ中等学校教師

第18回

朝日新聞夕刊 1990年9月27日(木)

 安全な船に希望殺到   選考にもれ命拾い

  ・(写真)積み荷の計画をたてた菅原 徳重 氏

  ・(写真)当時 古河鉱業の渡辺 昌平 氏

  ・(地図)阿波丸の復路を示した地図(ジャカルタ→ムントク→シンガポール→沈没地点→予定復路

第19回

朝日新聞夕刊 1990年9月29日(土)

 乗船権を同僚に譲る   再会約束して別れ

  ・(写真)マウントバッテン 東南アジア軍司令官

  ・(写真)北樺太の油田地帯。鉱区境をはさみ林立する日本とソ連のやぐら(1933年 オハで)

第20回

朝日新聞夕刊 1990年10月2日(火)

 次々と倒れた南進隊   生き残り組が乗船

  ・(地図)北樺太石油南進隊の関連図

  ・(写真)マニラのサントトマス大学の捕虜収容所を訪れたマッカーサー元帥を、歓声で迎える連合軍

       捕虜たち (1945年2月)

第21回

朝日新聞夕刊 1990年10月4日(木)

 潜水艦に追跡される   高雄へ最後の通信

  ・(写真)米軍は3月26日、沖縄本島の西に浮かぶ慶良間群島に上陸した。沖縄本島へは4月1日に上陸

  ・(写真)クイーンフィッシュの哨戒正午位置を結ぶ線を示す地図

第22回

朝日新聞夕刊 1990年10月6日(土)

 魚雷4発、3分で沈没   「駆逐艦と信じ込む」

  ・(写真)米潜クイーンフィッシュのチャールズ・ラフリン艦長

  ・(写真)阿波丸を撃沈した米国潜水艦クイーンフィッシュ

第23回

朝日新聞夕刊 1990年10月8日(月)

 1人だけ助かり筆談   船名告げると沈黙

  ・(写真)艦長交代要員だったF・シェーマー氏

  ・(写真)クイーンフィッシュの士官たち。左から3人目がベネット航海長、4人目がラフリン艦長

第24回

朝日新聞夕刊 1990年10月11日(木)

 「戦場の真実」を叫ぶ   「決して船見てない」

  ・(図)ベネット氏の説明図。点線はレーダーの中心。X印は阿波丸の速度が16ノット、■印は0.5ノット

      遅い、●印は0.5ノット速い場合。いずれの場合も4発命中。

第25回

朝日新聞夕刊 1990年10月12日(金)

 変更後の航路見落とす   レーダー機能低下

  ・(写真)合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ、

       太平洋艦隊潜水部隊指揮官チャールズ・ロックウッド

第26回

朝日新聞夕刊 1990年10月13日(土)

 三つの罪で艦長告発   「不法攻撃で沈没」

  ・(写真)米国潜水艦の発令所の計器類。2つのハンドルは艦首と艦尾のカジを操作する

            =ハワイ州真珠湾のボーフィン艦内で

第27回

朝日新聞夕刊 1990年10月15日(月)

 発射前、目標確認せず   日程変更を見逃す

  ・(写真)生前のラフリン元艦長の事務所。額の絵の軍艦旗は軍艦、日本丸は商船でいずれも撃沈を、

       白い日の丸は商船の損壊を示す

第28回

朝日新聞夕刊 1990年10月16日(火)

 艦長、事前に注意せず   弁護人は誤認主張

  ・(写真)米国潜水艦の魚雷発射管室(ハワイ州真珠湾のボーフィン艦内で)

第29回

朝日新聞夕刊 1990年10月17日(水)

 「怠慢から命令不服従」   艦長は戒告の軽罰

  ・(写真)クイーンフィッシュと組んで東シナ海を哨戒した潜水艦シーフォックス

第30回

朝日新聞夕刊 1990年10月18日(木)

 南方へ再派遣の予定   撃沈前日、米に通告

  ・(写真)阿波丸で遭難した大東亜省と外務省の人たち。前列右から保科光正・大東亜省秘書官、東光

       武三・大東亜省南方事務局政務課長、竹内新平・大東亜次官、山田芳太郎・外務省調査局長、

       森尚孝・大東亜省調査官ら =1945年3月、バンカ島パンカルピナンで)

第31回

朝日新聞夕刊 1990年10月19日(金)

 政府、米国へ強く抗議   米、捕虜へ報復懸念

  ・(写真)戦火でたくさんの船が沈んだ南太平洋の海底をイメージした富山妙子「海の記憶」

        (部分、1986年)

第32回

朝日新聞夕刊 1990年10月20日(土)

 「賠償協議は戦後に」   米、国内世論に配慮

  ・(写真)沈没した阿波丸から、中国が1979年に引き上げたスズのインゴット

第33回

朝日新聞夕刊 1990年10月22日(月)

 下田氏はVIP扱い   マッカーサーと会う

  ・(写真)テニアン島の士官クラブの前でシュロ収容所長のローランド・ケニー大佐と下田勘太郎氏

  ・(写真)神奈川県厚木の飛行場に降り立ったマッカーサー連合国最高司令官(1945年8月30日)

第34回

朝日新聞夕刊 1990年10月23日(火)

 「日本に請求権ない」   マッカーサーが見解

  ・(写真)朝海浩一郎氏

  ・(写真)ウイリアム・シーボルト首席政治顧問とエディス夫人

第35回

朝日新聞夕刊 1990年10月24日(水)

 平和条約へトゲ抜き   米、負い目決着図る

  ・(写真)片山 哲首相

  ・(写真)日本の降伏文書に調印をするマッカーサー元帥(1945年9月2日、米戦艦ミズーリ上で)