辻 政信の『潜行三千里』(1)     ⇒書籍紹介 

 

    バンコクの地下に潜る 〜日本人納骨堂での僧侶として

 

 ■1945年8月15日  敗戦

  ・陛下の玉音放送

   申訳がない。・・万死も償い得ない罪を犯した。腹かき切ってお詫びするのが武士道である。無条件に武装を解き、連合軍

   の命に従うことが陛下の御心。臣下の本分がある。信を再び中外に失うような行動も大御心ではない。

   腸を千々に裂かれるような苦悶ののち、1人で大陸に潜り、仏の道を通じて日タイ永遠のくさびになろうと決意した。この行

   動がもし大御心に背くとしたらその罪はいずれの日にか・・・

  ・浜田参謀副長は、「辻君、頼む。これからの日本は10年20年忍ばねばならぬ、できることなら中国に潜行し、アジアの将

   来のために新しい道を開いてくれんか。台湾人で海賊の頭目をしていたものがいる。君がもし台湾に行く希望があるならい

   つでも世話するよ」と述べられたが、「台湾も悪くはない。しかしタイ国にはアパイオン総理があり、アーツ少佐がいる。何と

   かして坊主になりタイ国に潜ろう」と覚悟を定めた。

 

  ・8人の僧侶出身の若い少尉や見習い士官が行を共にと志願した。その中から2,3人だけ選抜しようと思ったが、誰一人後

   にひくものがなかった。多田見習士官だけは母一人子一人で既に一寺の住職であったためメンバーからはずすことを申し

   聞かせた。

  ・山本熊一大使に最後のお暇乞いに行った。

  ・8人分の僧衣が準備された。着付役は光機関にいた丸山上人(日蓮宗)で、化粧部屋はタイランド・ホテルの奥の一室。

   タイ側に提出する身分証明書用の写真を撮った。

 

 ■1945年8月16日  

  ・再び軍服に着替えて、中村軍司令官にお別れの挨拶

  ・夜、偕行社で浜田副長が最後のすき焼で別れの会食を催された。

  ・30年の軍人生活の終り。最後の一夜の司令部に帰りつく。アーツ少佐との別れ。

   ノモンハン以来幾年か戦場にたずさえた水筒を記念に、ビルマ以来死生を共にした生残りの部下である白倉少尉に渡し、

   弾痕無数の軍服は小尾大尉に、鉄木の木刀は山口大尉に、拳銃は司令部内の池に投じ、軍刀は通訳の私宅にあずけた

 

 ■1945年8月17日  

  ・午前3時、東北方を遥拝し、深くうなだれてお詫びし30年来着慣れた軍服を脱いで一枚の黄衣に換えた。

  ・ひそかに準備した車に乗ろうとしたとき、阿久津少尉と白倉少尉が人目を忍びながら車の陰に立っていて最後の別れを

   交わす

  ・潜行三千里の門出で、爆撃で無残に壊されたりャープ寺の境内になる小さな日本人納骨堂が最初の一里塚であった。

   裏門で車から降り、前の晩に移転を終わった弟子たちの一人が目をさまして潜戸をあけてくれた。

  ・堂守りの智野老人に挨拶


   <この老僧は和歌山県の産、若いとき真珠貝取りに南洋に出稼ぎしたのを振り出しに、マレーではゴム林に雇われ、あるい

    は船のボーイをやり、ラングーンに落着いて妻帯し、洗濯屋を開いて繁昌していたが、日本山妙法寺の藤井老上人の感

   化を受けて発心し、家業を捨てて毎日太鼓をたたき、「南無妙法蓮華経」を高らかに唱えながらバンコクの街を歩き廻る変り

   種で、老眼鏡をかけて日蓮上人遺文集を暇さえあれば愛読し、在留邦人の葬式坊主を兼ね、2年ほど前から堂守りに納ま

   っている。寺男として雇われているのは広東生まれの老華僑>


  ★納骨堂は方四間、高さ六間ほどの二重の塔で、4,50年前からバンコクで死んだ邦人の遺骨が納められ、太平洋戦争で

   仏印とタイで戦死した約120柱の霊も祀られてある。

 

 ■1945年8月20日  

  ・8人そろって宗教局に出頭せよとの通知を受け、通訳に連れられて日本軍司令部の近くの宗教局に行った。身元、年齢、

   職業等を型通り調べられて最後に署名を求められた。

  ・宗教局長室に呼び出され口頭試問。正式に留学僧としての身分を保証された。

 

 ■1945年8月下旬

  ・まず年長者5人の弟子たちを第1次にマハタート寺(日タイ合同慰霊祭をやった由緒の寺でバンコクでは二番目の権威を

   持っている)に修行に送り出した。2人の年少者を納骨堂にしばらく留めたが、5人の兄弟子が数日後に里帰りし面白そう

   に話すのを聞いていた一人もタイ寺入りを希望したのでその夜同行させた。

  ・ただ一人福沢君だけが踏み留まって最後まで和尚と生死を共にしようと志願する。

   <その後、英軍進駐近しとの声に、孝君を道連れにしてはならぬと、納得させてマハタート寺に送る>


  ★この青年は名は孝、祖父は曹洞宗の管長を勤めた高僧で、駒沢大学の予科卒業とともに特攻隊を志願した青年である。

   水泳の選手として鍛えた身体には小粒ながら筋金が入っている。

 

 ■対華僑工作

   10年の覚悟でタイ国に潜り、仏教を通じて日タイを結ぼうとした最初の決心が次第に自信を失って、どうにかして中国に

   潜ろうと考えるようになった。対華僑工作は隠して始まった。寺男を通じて商売関係としてその寺男の友人として、目立た

   ないよう細心の注意を払いながら情報を収集し、重慶の地下工作本部スリオン街の位置を確かめた。

   情報による重慶側の陣容は、 

        邢中将   主任     海南島出身 (当時、在ハノイ)

        黄少将   秘書長    海南島出身 (当時、仏印とタイ国間を旅行中)

        成大佐   主任秘書  海南島出身

        郭中佐   僑務科長  広東出身  

        

 ■1945年9月上旬末

  ・中村軍司令官が、納骨堂の霊前に最後の参詣に来られた。英軍進駐の直前

     「辻君、君の志をしいるわけではないが、もう一度思い直して参謀として復帰してくれんか。君をこのまま朽ちさすことは

      どうしても残念だ。何とか考え直してくれんか」との話。

   まだ英軍は進駐していない。別に戦犯として指名されたわけではない。潜ったとて狭いバンコクに最後まで隠れることは

   不可能である。むしろ正直に英軍を迎え、その指示に従うことが個人のためにも、また軍のためにもよいと考えられたので

   あろう。

 

 ■1945年9月15日 英軍進駐開始

  ・ドンムアン飛行場に勝者の威厳を以てさっそうとして着陸した英軍先遣隊は、日タイ両国軍官民代表の出迎えを受け、事実

   上タイ国の実権をにぎった。(英軍の進駐は9月15日から始まり、月末までにおおむね終わった)

 

 ★英軍が進駐してから一切の渉外事項を身を以てきれいに裁き、いよいよ明日武装解除を受けるという前夜、副官や当番兵

  との最後の会食を終り、その寝静まるのを待って浜田中将が割腹自刃された。遺書の一部が発表され、タイ国側首脳部に

  深い感謝の言葉を述べておられた。

 

 ★全居留民を例外なしに集中営に入れたが、坊主だけは最後に残した。その代わり徹底した身上調査がまずマハタート寺の

  7弟子から始められた。タイ側への触れ込みはビルマに留学中の青年僧侶で、シボウの寺に滞在していたものが退却して

  バンコクに来たことになっていたが、7人の弟子たちはビルマの土地を踏んだことのある者はいなかった。

  通訳は前日の弟子の調査に立ち会った佐々木上人で、タイの警察中尉が英軍の要求で調査に来たと前置きし、青木憲信

  坊主の生まれ故郷から、宗旨から、学校から、その先生や親戚の住所、職業に至るまで調査は約3時間にわたった。

 

 ■1945年9月28日  9・28事件

 

  ・終戦直後、華僑の店頭に青天白日旗がボツボツ売り出された。日本軍として禁止もできず黙認もできない日が続いたが、

   英軍進駐とともに全市いな全タイに華僑の家という家、学校という学校、病院,工場等々、およそ150万人の住むところに

   は例外なしに一斉に青天白日旗が掲げられた。

  ・タイ側が不快に思ったのも無理ではない。果然、政府の布告となり、タイ国旗を併用しない場合には青天白日旗の掲揚を

   厳禁する命令が出された。

  ・4大強国の一席に連なった中国人の気位は到底小国タイの、ことに戦敗国タイの命令に服しそうにもなく、各所に激しい争

   いが起こった。

  ・この機会に進出した重慶工作員はただ漢奸検挙の大なたを振りかざし、金品を捲き上げるのに忙しかった。

  ・タイ軍警もこの弱点に乗じたのであろう。高圧的に青天白日旗の単独使用を禁じ、各所に流血の惨をひき起こし、バンコク

   のみならず全タイに衝突が拡大された。

 

  ・9月28日はその頂点に達した。全く市街戦である。華僑は全タイに檄を飛ばし、拳銃で武装してタイ軍警との間に撃ち合

   いが始まった。白昼の大通りは死の街と化し、仏の都には紅に染まった死体がいたる所に転がっている。戦争末期のきわ

   どい時にさえ流血を避け得た都が、戦争が終わってから惨事をひき起こすことになったわけだ。

  ・坊主にだけは、双方ともに危害を加えなかった。黄色い保護色に身を護られながら、こっそり寺を抜け出してタイ僧の群に

   交り、惨闘の一角を見た。タイの装甲車も動員され、それに撃たれて倒れた華僑の青年がしきりにうめき苦しんでいる。

  ・市街戦は3昼夜にわたって続いた。・・・・9・28事件はタイ華間の重大な外交問題になりかけた。勝った中国も今さら華僑

   保護のためにタイ国に兵を進めるだけの余裕もなく、タイもまた行き過ぎを悟ったらしい。不思議に思ったことは、当事の事

   実上の主権者たる英軍が拱手傍観の態度をとったことである。

  ・9・28事件の惨劇の後に現れたおのは全華僑のストライキである。目ぼしい商店は全部表戸を閉じ、米屋も魚屋も八百屋

   もタイ人との取引をやめた。・・・・・

  ・5日間にわたるストライキで、困り抜いたものはタイ人である。・・・・華僑の底力は偉大なものがある。タイ国の経済の主動

   権は、この数日の現象を見ても完全に華僑に握られている。さすがの英軍もこれを無視し得なかったのだろう。タイ軍警の

   華僑弾圧に手心を加えさせた。・・・・・

 

 ■1945年9月末

  ・司令部の下士官が将兵の遺骨名簿を取りに来た。この機を失っては永久に連絡の方法がないものと考えて、司令官あて

   に最後のお別れの手紙を託し、納骨堂にあずかっていた軍の機密費10万バーツを遺骨の木箱に入れ、上から骨でおお

   うて持ち帰らせた。納骨堂にあずかっていた金額の大部分を返上し、残りのわずかの金銭は7人の弟子たちに送って、手

   許には中国紙幣1万元とタイ幣1千バーツとだけを、万一の場合のために残した。

 

 ■1945年10月

  ・10月に入るとともに自由タイ内閣は国名をシャムと改め、日本人に対する圧迫を強化してきた。

  ・タイ寺に身を移し、タイ僧にまぎれて寺から寺へと渡り歩こうと、マハタート寺の久保君を呼んで住職に交渉させた。

   最後は二つ返事で引き受けてくれたが、移転の前日に(10月22日)「今朝住職(タイ人)が内密にタイの宗教局長に連絡

   したところによると、私ども全員も近く集中営に軟禁されるとのこと。10月29日の早朝抜き打ち的にやるらしい」と伝えて

   きてくれた。


  ★華字紙によると、日本の軍人が化けて民間に潜伏しているとの噂がもっぱら。英軍の態度が硬化し、坊主にも特例を認め

   ず全員軟禁し、しらみ潰しに身分を洗い、泥を吐かせようとしていることは、華僑のルートからも知ることができた。

   もし集中営に入れられたら民間人にも顔が知れている。とうていかくすことはできないだろう。さらばとていまさら国外に脱

   出するには余りにも警戒が厳重すぎ、万事休するかに見えた。

 

 ■1945年10月22日

  ・夕方、突然軍服を着た日本軍の将校と下士官が寺を訪れ、「高級副官の命令で寺にあずけてある将兵の遺骨全部を受領

   に来ました」 「昨夜英軍司令部から突然命令が来て、辻参謀を即時出頭させよとのこと。軍では参謀長から、辻参謀は

   8月16日夜遺書を残していずこに姿をくらましたが、彼の平素の性格から見ても恐らく自殺したものと思う、と答えられた。

   上からの命令で寺と軍とは全然関係がないように至急全部の遺骨を司令部に持ち帰れとのこと」

 

  バンコクの重慶地下工作本部に飛び込む

 

 ■1945年10月23日

  ・スリオン街の重慶藍衣社本部(英軍の将校倶楽部の隣)に飛び込むことを決意。

   小此木上人がすすで一緒に行こうと決心してくれ、2人で、とある華僑の店に買物し、そこの主人に矢文の使者をすすめた

   が断られ、華僑の店主がスリオン街の本部まで案内するから手紙は直接出してくれということで、華僑の店主は自転車に

   乗って先に走り、その後から1台のサムローに2人で乗って走った。

   三輪車は小此木上人を乗せたままで路傍に待たせ、タイ僧が托鉢するような格好をして唯1人で門内に入り、受付の青年

   に、下帯の中に隠してきた矢文を渡し、早々に辞去。

  ・手紙の内容は下手な中国文で、「自分は日本の将校である。僧侶に化けて潜伏し、英軍司令部の近くの日本人納骨堂に

   いる。9・28事件の裏面情報を知っているからお知らせしたい。26日までに成先生が直接納骨堂に来られることを希望す

   る。もし不可能ならば、先生の最も信頼せられる秘書を派遣されたい。自分は英国の追及を受けている身分であり、29日

   朝強制的に集中営に収容される。それまでに是非とも話したい」


  ★重慶の地下工作員は戦時中バンコクの街の中に秘密の活動を続けていたが、終戦とともに公然と「中華民国国民党海外

   部駐暹弁事処」の看板をあげ、スリオン街の元日本居留民の社宅に引っ越していた。

 

 ■1945年10月28日

  ・その後全く何ら音沙汰なく、28日、読経祈願をこめて単身街に出た。サムローに1人で乗ってスリオン街に急ぎ、幾つかの

   関所をタイ僧にまぎれて突破し、再び重慶の本部に飛び込む。

  ・応接間に通されしばらく待つうちに、郭科長が現れ、しばらくのち成主任秘書が出勤。約1時間にわたって筆談。

   本名、経歴、特に東亜連盟運動、蒋母慰霊祭、載笠との関係 等々余すところなく書き、重慶におもむき載笠将軍及び蒋

   将軍に会見し、日華合作の第1歩を開きたい。もし不可能ならばただちに逮捕して英軍司令部に差し出されたいと伝え、

   「しばらく待て、会議する」と約30分後、「可以(よろしい)」との返事。後は郭科長と相談せよとのことで郭科長は「今晩9時

   自動車で寺の付近に迎えにゆく」とのこと。

  ・再びサムローに乗ってお寺に帰り、午後は身辺の整理に忙殺された。

   青木憲信という坊主が辻参謀なりとはまだ英側もタイ側(アパイオン以外は)も知らないはずで、青木憲信を自殺したことに

   するのが、智野、小此木両氏や7人の弟子たちにも責任と追及が及ばないようにする最良の方法として、偽りの遺書を認

   めた。

  ・手堤一つと毛布2枚とを振り分けに肩にした白衣の華僑に扮し、夜9時前、表門(隣のリヤープ寺の正門)片隅のポプラの

   老大木の木陰に潜んで約束の自動車を待った。しかし自動車がついに来ない。


  ★30歳にも達しない青年(成主任秘書)が、150万の華僑の総元締たる邢中将に代わって一切を処理し、9・28事件の交

   渉をタイ英両国を向こうに廻し、堂々とやっているのかとうらやましくなった。顧みればこの年代はまだ一中尉で、陸大の学

   生として戦術教官と喧嘩するのが関の山であった前半生である。

   英国から追及されている身を国家の公務員たる彼らがかばうことは、下手すると国際問題を惹起する。日本の官僚、日本

   の外交官だったら、このとっさの場合に果たしてどれだけの処置を取れたであろう。恐らく「重慶に問合せるからしばらく待

   て」というのが関の山であろう。

 

 ■1945年10月29日 寺からの脱出「死の第一関」 

  ・表門外に歩哨が2人とも腰を下ろして眠っている隙に、門を出て、午前5時40分人力車で3度目の重慶地下工作本部に

   単身でたどりつく(途中幾度か英軍とタイ警の誰何を受けたが)。スリオン街までは5バーツが相場のところ、10バーツと

   2倍の賃金をはずむ。

  ・かゆと魚と漬物の簡単な朝飯の後、9時ごろ、郭君がやってきた。筆談で、「昨夜9時自動車で迎えに行ったが見つから

   なかったのに、一人でよくもやって来た」と大変喜んで手を握った。

 

  バンコク郊外の隠れ家での3日間の滞在

 

 ■1945年10月29日 

  ・すぐに自動車でバンコク郊外の隠れ家に向った。約5里程走って郊外の小ぎれいな一民家に入った。

   ここで紹介された青年が呉君。この家の息子。呉君が万事世話するから当分屋外に出ないようにと注意して郭君は再び

   出勤した。呉君の両親は戦時中サバナケットに疎開し、この家と息子とを重慶の地下工作に提供した由。

  ・夕刻、7,8名の青年が帰ってきた。載笠の部下、藍衣社の中堅工作員で、情報工作のために、2,3年前からタイに潜り

   こんでいた中国人青年たち。あるものは飛行機でインドに飛び、それから潜水艦でバンコク海岸に上陸し、あるものは秘密

   飛行場に落下傘で降下し、あるものは仏印からメコン河を渡り入ったが、同志の半数は日本軍に捕らえられて殺された。

  ・辻政信のタイからの脱出計画は、重慶の指示をあおぎながら、これらの青年たちによって綿密に計画準備された。

   飛行機を希望したが、英軍の検査が厳重なために汽車で立つことになった。ウドンを経由し、ビエンチャンに出て、ハノイか

   ら重慶に入る長旅。

 

 ■1945年10月31日 

  ・出発の前夜一切の所持品を検査。日本人と思われるものは何一つ許されない。最後に天盃と三笠宮様からいただいたカ

   フスボタンが問題になった。天盃は成主任に、カフスボタンは郭科長に終世の記念として贈った。

 

  

                   ⇒タイ国脱出しメコン河を渡り仏印へ