辻 政信の『潜行三千里』(2)    ⇒書籍紹介

 

 タイ国脱出

 

 ■1945年11月1日  バンコク駅突破 「死の第2関」

  ・朝早く、隠れ家を出る。郭、韓、唐、呉の4青年と同乗し、車でバンコク駅に向う

   (バンコク駅の検査を免れるために、荷物は前の晩から梁青年が列車の中に持ち込み、泊りがけで座席を準備して待つ。

   (呉青年は、タイ国の憲兵少尉に変装)

  ・午前8時、バンコク駅発車の列車に乗る。同行者は、呉青年と梁青年の2人。座席は3等車で一番隅の便所に近いところ

   辻政信の姿格好は、黒眼鏡、白ヘルメットに白の上衣を着、黒のズボンをはいた南方華僑特有の服装の老華僑。

  ・11月1日の夕方、コラート駅に着き、汽車を降りて三輪車を拾い、華僑の旅館に宿泊。街の飯店で晩飯を食う

 

 ■1945年11月2日  コラート⇒ウドン(列車)

  ・2日、5時床を離れてコラート駅に向う。8時初予定の列車が10時になっても発車しない。

   国境の街ウドンに着いたのは夜半  (*原書にはウボンと書かれているが、書き間違いと思う)

 

 ■1945年11月3日   ウドン⇒メコン河(国境) 「死の第3関」

  ・ウドンの街からメコン河の国境の渡河点までバスで連絡されている。

   すし詰めの客と荷物を積み込んだガタガタの木炭自動車で約2時間の悪路。

  ・国境の関門でタイの憲兵の臨検(検査らしい検査も無く終わる)

  ・英軍とタイ軍警とが濃密に配置され厳戒態勢にあるメコン河の渡船場

     (タイ憲兵に化けた呉青年が、「バンコクの憲兵隊に謀者として使っている華僑を英軍に秘密に仏印の対岸に渡してくれ」

     とタイ憲兵に説得し、英軍のいない渡河点から渡る許可を得、身分も荷物検査も省略されて用意された丸木舟に乗船


  ★呉青年と梁青年は、タイ国脱出の最大の恩人。2人とも、22,3歳の青年。

   梁青年の述懐によると、かつて数度このメコンの渡河点を重慶の地下工作員として往復し、日本憲兵から発見射撃され、

   危うく死を免れた由。

  ★『タイ人たると華僑たるとを問わず、日本人をかくまい、または逃亡を助けたものは発見次第裁判に付することなく、

     その場で銃殺すべし』との特別法令がタイ全国に公布されていた(1945年10月末)

 

 メコン河渡河〜仏印入国・ビエンチャン滞在  

 

 ■1945年11月3日  メコン河(国境)⇒ビエンチャン

  ・11月3日明治節の正午、丸木舟は仏印の岸に着く。

  ・ビエンチャンにはバスが通じている。超満員であったが、梁君の顔で運転台の特等席に納まった。

   護衛の2青年は重いトランクを持ってバスの屋根上にまたがる。暑さと超満員のため幾度かパンクし、ついにバスを捨てて

   牛車に乗り、また三輪車に替えて夕刻ビエンチャンに着いた。

  ・草鞋を履き、皮膚病だらけの雲南軍であるが、青天白日旗がいたるところに威勢よくひるがえっている。

  ・この日を記念して一詩を賦す。

            挺身突囲虎狼陣   誰知救我中国人

            人生五十余幾年   献身合作報救恩

  ・元日本軍倶楽部の跡らしい旅館に到着。夕食は呉、梁君の案内で華僑の飯店。

  ・夜半すぎ、拳銃を持った4人の中国人に取り囲まれながら、とある華僑の家に連れて行かれる。

   4人のメンバーは、中国国民党海外部ビエンチャン弁事処の職員で、藍衣社の中堅であり、載笠の部下

      (主任金大佐、程中佐、林少佐、通訳・王大尉


  ★「ビエンチャンの街は、かつて日本軍用飛行場の所在地であり、太平洋戦前はフランス人の別荘地であった。

    メコンの流れに臨み、緑の高原上に白亜の洋館が点在し、酷熱を忘れる快適の街である。」

 

 ■1945年11月4日  ビエンチャンで華僑の家に移る

  ・午後王通訳に案内されて宿舎を転居。海南島出身の張光瀛一家の家

    (この一家は8年前、日本軍の進駐と同時にジャンクに乗って難をこの地に免れ、営々辛苦してついに産をなし、太平洋

     戦争と共に仏人の住宅であったものを安く買取った由)

 

 ■1945年11月6日  全仏印における大デモの日

  ・この日の夜、王通訳とともに街のバクチ場を見た。数百人の男女が幾十かのゴザを囲んでサイの目に血眼になっている。

   負けるものはほとんど安南人であり、勝つものは華僑であった。 

   (* 以下、ここで「安南人」と書かれているのは、ラオス人を指していると思われる)


  ★ 安南人はただ終日牛馬のように働いて華僑からわずかの賃金をもらい、粒々辛苦の農産物を安くたたき買われ、べらぼう

   な高い雑貨や布を買わされて、辛うじてその日その日を暮らしている。妻を売り、娘を売ってつかんだ一握りの金は、一夜

   のバクチで根こそぎ華僑に奪われている。

    かつて安南人を奴隷たらしめるために採られたフランスの政策は、教育を抑えたこととバクチを奨励したことである。蒙古

   民族がラマ教と阿片で骨の髄まで抜かれたように、この安南人もまた容易に起ち得ない病根が深くその心臓に食い込んで

   いる。

    安南人の顔には日本人そっくりのものが多い。特に婦人に多いようである。檜の日笠を白い紐で顎に縛り、ゆたかな長衣

   を着て歩く婦人の姿は、日本の古代を錦絵で見るような気がする。

    「日本人の胤なら育ててやる」と娘や妹の日本将兵との結婚を奨励する父兄さえある。終戦後どこにも見られない風景で

   あろう。終戦後も数百の将兵が椰子林の中の農家に安南婦人を妻として暮らしていたとのこと。中国人よりも、タイ人よりも

   、ビルマ人よりも、この安南人に、日本人と近いものが感じられる。 

 

 ■1945年11月7日  ビエンチャンでの「死の第4関」    

  ・夜、素晴らしいカステラを食わす安南人経営の喫茶店の2,3軒隣の理髪店で、4名の雲南兵に、「日本人!日本人!」

   と叫ばれ四方から取り囲まれ、四方から拳銃を突きつけられ、本部らしい森の中の一軒屋に連れ込まれる。

   (副官らしいい中尉、日本のできる小柄の朝鮮人青年、陳光漢<連隊長>

 

 ■1945年11月8日 

  ・陳中佐と海外部で会談したとき、金子一雄という日本人の1人の軍曹がついてきた。

   終戦後同僚数名とともに自殺を決意して山の中に逃げ込んだが、飢え衰えて安南人に救われ、中国軍に引き渡された由。

   金忠義という中国名になってこの連隊長の客人になっていた。母は群馬県にいるとかいっていたが・・・

 

 メコン河を下る  ビエンチャン〜タケク 

 

 邢中将は載笠将軍の部下であり南方華僑工作の全責任者であり、藍衣社の首脳部であった。ハノイを根拠にしているが、

 最近サバナケットまで迎えに行くから(辻政信を)護衛して来るようにとの電報がハノイからビエンチャンの金大佐に届けられた。

 メコン河を下る準備が急速に進められた。普通の客船では企図をばくろし易いとの理由で、ラオス王の専用船を借りることに

 決まった。


 ■1945年11月10日

  ・一行は、金大佐を長とし、程中佐、王通訳と呉、梁の梁青年。護衛は理髪屋でお馴染みになった雲南兵4名

   渡船場についたのは、正午頃。王様の専用船といっても豪華船ではなく、小型の貧弱な木船で、5馬力位のエンジンが

   取り付けられている。

  ・両岸から時々匪賊の射撃を受けるらしい。ことに仏印は、独立戦争の最中であり、銃を持った匪賊が出没して航路をおびや

   かしている。危険を避けるため舟は間もなく中流に出た。

  ・無名の小部落に船を繋いでバナナ畑の中の寺の礼拝堂を仮寝の宿にした。

   安南の村民がだんだん珍しそうに集まってきて、バナナや川魚を売りにきた。

 

 ■1945年11月11日

  ・明くれば再び舟の旅。遡航する大船と途中で行きあい、横づけにして菓子や煙草を買った。

   夜は名もない部落の小学校に寝た。

 

 ■1945年11月12日

  ・また船旅が続く。両岸の美景にも飽き果てて、船足が遅くてたまらない。脚をまげ肘を枕に寝続けるうちに、夕刻、タケクの

   町に着いた。


  ★この町(タケク)も仏人の別荘地であるが、青天白日旗に埋まっている。国民党本部が宿舎に当てられた。出入の客は

   ことごとく藍衣社員だ。8年間地下に潜ったものの勝利の嬉しさが、ここにもまたわき立っている。2階の窓から見下ろすと

   営々と働く安南婦人の行商姿、群をなす中国兵、自転車で駆け廻る華僑、自動車を飛ばす高級軍官等々。これが、北緯

   15度以北の重慶軍による接収地帯全体の印象であった。

 

   タケクを離れサバナケットに10日間滞在 

 

 ■1945年11月14日

  ・朝、乗合自動車に便乗した一行10名はタケクの町を後に、サバナケットに急ぐ。

   フランス人が仏印経営の幹線道路の一つとして作っただけに、田舎道としては相当な整備。

  ・約1里の行かないうちに立木を倒して道路がが塞がれている。自動小銃を提げたフランスの将校がジャングルから顔を

   出したが、青天白日旗の威力には相当の敬意を表するかのように、車内も臨検しないで通過を許した。

  ・サバナケットの町に近づいたとき、2,30名の安南土匪に自動車を停められ包囲される。

  ・海南島出身の華僑の木賃宿に宿泊。海南島出身の飯店で夕食。

  ・豪壮な華僑の邸宅に邢中将を訪ね、王通訳と共に室に通され、約2時間にわたり会談する。

 

 ■1945年11月22日

  ・山東出身の軍人に、日本人であることがばれる

  ・夜、黄民魂少将(邢中将の秘書長)に呼ばれ、ハノイ行の自動車の準備もできて、いよいよ翌朝サバナケットを出発すると

   別れを惜しんでくれた。黄少将は、邢中将がサイゴンに行った留守を引き受けている。


     ・山東出身の医者というふれこみで泊まったため、医者の少ないこの宿では思わぬ待遇を受ける。

  ★中国は、この革命(インドシナ)の渦中に兵を駐屯させながら、安南民族の独立を助けるでもなく、さらばとてフランスの

   弾圧に協力するでもなく、ただ消極的に華僑の保護と、華僑から捲き上げることに血眼になっていた。

 

   サバナケットからベトナム領に入りハノイへ 

 

 ■1945年11月23日

  ・早朝出発。これから先は革命戦はないからと、金大佐以下の護衛が解かれた。

   呉青年には終世の記念としてオメガの時計を渡し、梁青年にはドイツ製のマラリヤの貴重薬1箱を送る。

   新しい一行は、王通訳と韓君(金持の息子)と黄大尉(藍衣社)と王太太(王某の夫人)と運転手の6名。

  ・出発間際になって自動車は故障の続出。ようやく正午頃出発

  ・日はとっぷり暮れ、ある大河の岸に着いた。宿営地を前にして橋の爆破された河岸に車を停めた。対岸は安南土民軍の

   陣地で、仏軍と安南土民軍の第1銭の中間に、武装なき乗用車は夜を越さねばならなかった。

  

 ■1945年11月24日

  ・夜があけ、車が前岸に渡り終わったとき、2,30名の安南土民軍が中国の若い中尉に率いられてやってきた。黄大尉と

   大声で応酬していたが、どうにか通過を許してくれた。


  ★この若い中尉は中共らしく、国民党が金儲けに狂奔している反面において、中共の青年幹部が安南革命軍の中に投じ

   ていることはきわめて重視すべき現象であった。

  ★12、3歳の子供から50を過ぎた老人に至るまで、手に手に棍棒や竹槍を持って立っている。銃は真赤に錆びた日本の

   小銃が、4,50人に2,3挺しかなかった。これが安南革命軍の実態であろう。徳川末期の百姓一揆を思わせる。

 

 ■1945年11月25日

  ・おりからの豪雨を冒して東に進んだ。夜10時頃宿営地の河東についた。華僑の飯店で空腹を満たし支那宿に泊まる。

 

 ■1945年11月26日

  ・元の日本軍のガソリンを盗み出しては商売をしているらしい子供たちからガソリンを運転手が買ったが、午後になると車は

   故障が続出。調べてみると朝買ったガソリンは水で割ってあった。

  ・一直線の海岸道はさすがによく整備されている。坦々たるアスファルトの大道であり、美しい海岸を見ながらドライブする

   フランス人のために作られた植民地の動脈であった。

  ・ビンの町に着いたのは夕刻に近かった。大きな飲食店の2階に宿泊。

   隣の部屋では華僑の客4,5人が遅くまで麻雀賭博をやり、酒をのみ、淫売を買い、喧騒、嬌声は終夜にわたった。

 

 ■1945年11月27日

  ・午後4時出発。夜半、とある大きな町に着く


  ★ビンの町は東海岸の大都会で、雑踏をきわめていた。要所要所には剣付鉄砲の中国兵がまちまちの服装で歩哨に立っ

   ている。

  ★7歳くらいの小ボーイが淫売の予約の注文を聞きに来た。わざととぼけて首をひねったら、4,5歳の女の子を連れて来て

   寝台上に押し倒し、馬乗りになって小さい実演をやっている。買うものは華僑であり、中国兵であり、売るものは安南の娘

   である。

  ★中国軍の兵営の歩哨の前で安南人の荷物と身体検査をやっている。田舎からはるばる野菜売りに来た婆さんが、わずか

   の売上金で品物を買って家路を急ぐ途中、幾度か中国軍の関門を通過しなければならぬ。これも禁制品だ、あれも禁制品

   だとほとんど全部を捲き上げられて、泣くにも泣けない顔で茫然として立っている安南婦人のうれい顔。

  ★フランス人に向けた安南青年の銃口はかくしてついに中国軍に向けられた。ここかしこに安南独立軍と中国兵との衝突が

   起こっている。たまりかねたビンの安南住民はこの日から全市一斉にストライキをやり出した。路傍に野菜を売るものも、マ

   ーケットの商人も、床屋も、飯店も、華僑以外の全商人は完全に店を閉じ売買をやめた。

   市中にはビラを張って歩く中国兵の姿がある。その布告文に、「明日以降ストライキするものは銃殺に処す。本日午後5時

   以降戒厳令を布く。」という意味がデカデカと書かれてあった。

   中国軍の不軍紀のお蔭で日本軍の声価が高まって来たことは嬉しくもあり、悲しくもある。

 

 ■1945年11月28日

  ・徹夜の旅をした。途中の町で比較的清潔な夕食を終り、おりからの月光を利用して北進した。

  ・ハノイに近づいた最後の渡船でエンジンがかからなかった。

 

  ハノイでの待機100日

 

 ■1945年11月29日

  ・ハノイに近づくにつれて、道もよく、人通りも多くなった。夜は全く明け放れて、野菜をかついだ安南人の行列がえんえんと

   北に向って続いている。

  ・雨あがりを大道を病み疲れた自動車はゆるやかに進み、国民党本部に向った。教会の傍の洋館に青天白日旗が高くひる

   がえり、「中華民国国民党中央海外部駐越弁事処」という看板が掲げられている。

  ・王通訳の紹介で主任の王少将と挨拶した。

  ・予定された宿舎は元日本軍の使用したらしい3階の洋館。

   同行の韓君と黄大尉が同居(約20日の後、同居部屋から送り出した。王通訳もバンコクに帰る)

   その後、王少将と交渉して移転した室は、国民党本部の中の小使の住む厠の隣の土間


  ★ハノイの夜は今をときめく中国の高級軍官で独占されているようだ。日本軍から接収した自動車を私有し、目ぼしい洋館

   を住居とし、妾を置いて抗戦8年間抑えられてきた本能を、この1年内に取り返そうとするかに見える。

  ★商店と食堂と劇場とは中国将兵で埋められ、無銭飲食と強制買上げでどこにも安南人との喧嘩が起きている。街の秩序

   は辻々に立った剣付鉄砲の兵隊でどうにか維持されてはいるものの、底流に潜む感情は尖鋭、不穏なものを見逃し得な

   い。

  ★大量に放出された関金券(中国貨幣)のため物価はうなぎ上りに上がり、進駐当時関金と越幣(安南貨幣)と等価であっ

   たものが3ヶ月も経たぬ間に3対1の相場を示している。将兵はこの市中の相場を無視し、等価で強制するため、血を見る

   争いがいたる所に起こっている。日本軍を送り、自国軍を狂喜して迎えた華僑も、予期しない虎狼のようなお客を見て、さ

   すがに愛想をつかしている。

 

  ★王少将を主任とする国民党越南弁事処には約50名の青年が勤務。仕事の主なものは対華僑工作。南方華僑約1千万

   人を指導すべき責任者が邢中将であり、参謀長がこの若いせっかちの王少将。

  ★天秤棒一本で南方に出てから数十年食うものも食わず、着るものも着ないで営々辛苦ついに財をなした60代の元老たち

   を、わずかに2,30歳そこそこの僑務科長が指導している。唯一の武器は漢奸検挙の大斧だ。重慶から戦時中潜り込ん

   でいたこれらの若い工作員は日本軍進駐当時、日本軍と協力した現地華僑の情報を丹念に調べ上げ、それを種にして脅

   迫し、生命か金かと日夜忙殺されているのが、本部の主な仕事であった。この間隙に乗じて、中共がひそかに華僑をつか

   み、安南青年を助けている。終戦当時ボロボロの綿服に破れた布靴を履いてハノイに来た連中が、半年も経たないうちに

   いつしか外国製の背広に着換え、新しい革靴に変わった。俸給が安いのに、首脳部は朝から晩まで宴会である。下級者

   の実入りは特別の役得を持っているもの以外はどこも同じで、宿舎をただで、食事を割安にできるほか、官物の購入や、

   官品払下げで、2,3割帳簿をごまかすのが普通であった。相場の下落にかかわらず関金と越幣と等価のレートで俸給を

   もらっているから、生活そのものはどうにかやってゆける。

  ★50名以上の職員の大部分は広東人か海南島出身。邢中将が海南島で、王少将が広東である関係上、地縁血縁的に

   芋づる式に同郷人が採用され、他郷人が淘汰されてゆく。

  ★王通訳(王意凱)は、今どきの中国には、そして、その後の2年間の生活においてもこれほど正直なよい青年を見ること

   はできなかった。幾百人という中国人に接した中で、真に清廉正直な青年は彼だけであった。惜しむらくは力が足りない。

   よい背景がない。現在の乱世ではこの型の好人物は食うことさえむずかしい中国である。

  ★時を得顔の国民党員の夜の行事は喫茶、散歩が第一等で、ダンスがこれに次ぎ、買淫がこれに次いだ。これ以外に彼

   らの行事はないらしい。読書する青年を一人も見ることができなかった。街の夜店で買った中国語の速習読本5冊を、暇

   さえあれば勉強したが、厠の傍の部屋に生活するのはどうにもたえられなかった。

 

  ★競馬場跡の露天市場は貧乏人相手に開かれている。俗に泥棒市場という。朝から晩まで黒山の人だかりである。売る

   ものは安南人で、婦人が多く、あさるものは中国兵士が半ばを占めている。商品は衣類から日用品、食料品等に至るま

   で、およそ生活に必要なものは何でも買える。盗品が少なくも半分を占めているとのこと。仏軍用の毛の新品外套が顧客

   を呼んでいる。日本軍が武装解除したときの倉庫にぎっしり詰まっていたのを、終戦とともに暴民に解放略奪させ、どこも

   かしこにも仏軍の衣類が氾濫して安くたたき売られている。

  ★中国兵の強姦事件は案外少なかった。これは安南の安い淫売がいたる所で貧乏な中国兵の需要を満たすに十分のた

   めであり、むしろ供給が多すぎる状態だ。


  ★ハノイの街に、旗の種類を異にした2つの革命本部がすぐ近くに対立してにらみ合っている。周囲に鉄条網を張りめぐらし

   昼も夜も銃を持った歩哨が互いに敵意を以て対峙していた。

   革命の目標は一つであるはずなのに、役者が対立して争うのを見ると、安南革命の前途を悲しませるものがある。一は

   「越盟」と呼ばれ、ソ連留学のホーチミン(胡志明)を領導者とし、マルクス理論によって民族の独立と社会革命とを同時に

   求めており、一は「越南国民党」の名の下に民族の解放を企てている。

   日本軍が進駐してから右翼色の濃い国民党を助け、相当の武装を与えたが、終戦と共に約3千の日本小銃を持った国民

   党の武力が、そのまま越盟(ホーチミン)の傘下に寝返って、少なくもハノイの町だけで見るとホーチミンの人気は圧倒的

   である。

   中国国民党が越南国民党を支援し、中共が越盟を助けている。街には越盟と国民党とがしばしば血を見る衝突を繰返し、

   フランスに対する力を相殺している。

 

  ★日本軍の残留将兵中某少尉以下数名が、国民党に雇われて、操典の作成やら基本教練の教官となり、左傾邦人の若

   干が越盟の内部にもいるとの噂がもっぱらであるが、真偽は確かめ得なかった。

  ★ある日、ある中国人を通じてホーチミン陣営から越安(安南)に留まって、革命を助けてくれとの要請を受けた。その返事

   に、「無条件で、寛大に、虚心に2つの革命陣営を統一することができるならば、一臂の労を惜しまないが、一人の安南人

   を助けて一人の安南人を撃つに忍びない」と答えてやった。仏軍は北緯15度以南に進駐し、以北は中国軍が進駐してい

   たために、北部のフランス人は中国軍の好意的監視の下に集中営に住んでいた。

  ★ハノイの街を乗用車で乗り廻すものは中国の高級軍官であり、自転車で買出しに出るものはフランス人であり、洋車(人

   力車)に乗るものは中国の下士官兵で、洋車を曳くものは安南人である。貯金で食っているのが仏人であり、営々として

   働いているのが安南人であり、ふところ手して儲けているものは華僑であり、その上前をはねているのが中国軍の首脳

   者たちであった。

 

 ■1945年12月25日

  ・ある夕方宿舎の裏街を一人で散歩しているとき、偶然にも2人連れの日本兵を見、声をかけた

  ・急に日本軍に連絡を取りたくなり、日本軍連絡部に洋車を走らせ、須賀少佐と再会

    (この少佐は中野学校の第一期生で、かつて支那総軍で合同教育をやった時に数日間講義したことがあった)

 

 ■1945年12月27日

  ・隙を見て連絡部に三沢参謀を訪ねる。これまでの経過を説明し、しばらく連絡部内に待機したい旨申し込んだ。

   王少将にも「重慶行きが決定するまでひとまず移転したいがどうだろう」と打ち明け快諾された。

 

 ■1945年12月29日

  ・連絡部に移転。与えられた室には「従軍僧上杉正信老師」の表札がかけられていた。

   宮内君という鹿児島出身の一等兵が当番に付けられた。

 

 ■1945年12月30日

  ・ドーソンの司令部におられた土橋軍司令官から電報が入った。

   「感激す。御申込の件委細承知。万事三沢参謀と連絡せられたし」

 

 ■1946年1月1日

  ・敗戦第1回の正月は、従軍僧の身分で迎えた。

  ・午前9時から連絡部将兵全員に対する三沢参謀の訓示。訓示の後にささやかな祝宴。

   三沢参謀の室でおいしいあべ川をご馳走になる

 

 ■・佐藤君(同郷の頼もしい後輩、陸士の教官から寺内元帥の副官に選ばれ、仏印駐屯軍参謀に転任して敗戦を迎えた)と

   久しぶりに会談。

  ・酒井君(参謀本部に永年敏腕を謳われた逸材、今困難な復員輸送問題に全力を注いでいる)

  ・榊原君が事務連絡でドーソンから着く

  ・岩国君が事務連絡の名義でハノイに来た。夜はすき焼を共につつく(1946年1月15日)

  ・金原軍医大佐と谷川博士が、わざわざドーソンから連絡に出張された

  ・南京総軍時代の若い今井通訳が朝夕中国語を教えてくれた

  ・連絡所内に正月早々コレラが流行した。


  ★ハノイでの待機100日間の眼に映ずる現象は、ことごとく「非」なりであった。帰国を前に戦犯におびえ切っている日本将

   兵の弱点に乗じ、戦犯管理の中国側の責任者から堂々と金条を要求し、越幣(安南金)数百万円(昭和25年の率で数億

   円)を強要した。特に憲兵の春日大佐以下2,30名の戦犯容疑者は、抗日華僑の断罪を理由とし、あるいは搭乗員の行

   方不明を種にしてしばしば恐喝された。

   邦人経営の商社や物資の接収においても、現物と目録とを完全に一致させたものはほとんど全部落第した。表外に少なく

   とも3割以上を控除して、接収委員の自由処分に委したものだけは無条件に合格した。・・今井通訳を介し、葉少将は金条

   10本を、青山連絡官を通じて某大佐は越幣2百万円を公然要求し、応じなければ軍司令官はもちろん、数百名の将兵を

   断罪すると脅かしてくる。・・・

   これはただに戦犯問題だけではなかった。漢奸の名の下に目ぼしい金持の華僑は百数十名検挙せられ、裏口から身代

   金を強要して応じたものは即日釈放されたが、どうしてもうなづかないものは罪の有無にかかわらず断罪された。一人の

   相場は越幣50万円(昭和25年・5千万円)である。

   土橋軍司令官は、この状況を聞き、中国側の盧漢方面軍司令官に対し『一切の責任は一身にあり、部下の戦犯を宥恕

   せられたし』と強硬に意思表示した。しかしこんなことでは相手は微動だもしない。

   幼年学校以来の盟友岩国君も、全く別個の世界に立たされて、一人でも多くの将兵を、一日も早く祖国に帰すべく、涙を

   呑み、眼をつぶって中国側の非を黙認しなければならなかった。

   悲しいかな、永い間、戦う敵の国民政府陣営内にこそ真の友ありと求めてきた希望は、現実の前に淡雪のように消えね

   ばならなかった。

 

 ■1946年2月15日

  ・葉少佐が突然連絡部を訪れ、王少将が呼んでいるとのことで、党本部に急ぐ。

   李大佐も立会って王少将から、上海の未知の同志(陳長風、偽名の張先生)からの一通の秘密電報を渡された。

   「張」すなわち陳長風からの電報を受け取った王少将の態度が急に変わり、慇懃をきわめている。

   同時に重慶からも、邢中将と同行して至急来いとの電報が入っている。


  繆斌と田村君とを通じて関係のあった重慶地下工作の重要幹部は、張氏。ともに東亜連盟の思想的同志であった。

   張氏との関係はかつて日本の上海憲兵隊が、彼を逮捕しようとして逃がし、その代わりに彼の家族を監禁して囮に使おう

   としたとき、繆斌氏の請を容れ、当時の憲兵特高課長山崎中佐に依頼してただちに放免釈放したことがある。

   ★東亜連盟の思想戦を身を以て数年実行した結果、東条大将から叱られたが、敵の中に見方を獲得したのである。

   一日も早く重慶に飛び、新しい日華関係の第一歩を開拓したいものだ。その日もまさに数日の後に予約されている。重慶

   では戦後2回目の国民党中央委員会が近く催され、邢中将はその一員として招かれている。彼と共に重慶に来るようにと

   の電報は、前途に光明をもたらしている。

 

 ・2月になって中国側の戦犯調査はいよいよ大詰になった。仏印に進駐していた第6方面軍も1946年3月末までに昆明に

   引上げ、戦犯管理所も同時に閉鎖するとのこと。

  ・方面軍に連絡官として派遣されていた青山少尉は、同郷出身の青山代議士の一人息子であり、佐藤君に紹介されて会っ

   た。

  ・待ちに待った邢中将は、2月23日ようやくサイゴンからハノイに帰った。早速党本部で再会し、29日の飛行機で一緒に重

   慶に飛ぶとのこと。28日の午後、荷物をまとめて本部に行ったら邢中将は王少将とともに今朝の飛行機でたったという。

   この次の3月9日の便で邢中将の太太(夫人)と同行せよとのこと。2月28日夜、陸軍中将、国民党中央委員閣下の令夫

   人、邢太太に会った。

   

 ■1946年3月9日

  前夜お別れの夕食を共にし、9日未明に起きて身辺一切の始末を終わった。宮内一等兵、その他にはドーソンの集中営に

  行くとウソをついた。岩国君があわてて起き、軍服に着替えて見送ってくれた。今井通訳も懐かしく見送ってくれた。

  軍の自動車を国民党本部の前で降りた。中国の友人と、中国の車で行くからとあざむいて、自動車を無理に帰らせる。

  『史光裕』の名で昆明行きの飛行機に乗る。午後1時頃ハノイの空港を離陸。

 

                      ⇒中国大陸での潜行へ