辻 政信の『潜行三千里』(3)     ⇒書籍紹介

 

    昆明

 

 ■1946年3月9日  

  ・午後4時半頃着陸した。出迎えの書生どもによって邢太太の行李は検査を免れ、自動車に積み込まれた。

  ・ハノイ出発のとき、万一の場合に応ずるために工作費及び旅費として金条3本をもらって来たが、無造作にポケットに放り

   こんでいたのを、たちまち税関に押収された。

  ・邢太太はその晩一流の飯店に夕食を、翌朝は珍しい雲南包子の店に招待し、夜は映画と芝居に連続招待される。

   芝居は漢奸狩りのあくどい劇であった。


  ★昆明の街の露天に氾濫する商品はほとんど米国品だ。空輸のルートでいかに多くの商品が膨大な軍需品とともに集積

   されたことであろう。終戦後すでに半年以上も経過しているのに、今なお氾濫を続けている。

  ★邢中将の家は郊外にあった。国民党の支部と海外部の弁公室と私宅を兼ねている。・・家庭の空気はなごやかで10数

   名の青年が家族の一員として生活をともにしている。ことごとく海南島出身である。家と役所と職員と書生と、公と私とを

   渾然一体としたものが、依然として中国官界の現状であり、血縁地縁的に深く結び付けられている。

 

 ■1946年3月15日  

  ・王少将が突然重慶から帰ってきた。載笠将軍の命をもって、19日の飛行機に席を取ってくれた。

 

 ■1946年3月19日  

  ・朝ふらつく腰をささえながら(昆明についてから高熱がつづく)、邢太太の家を後に、太太や青年たちに見送られて、許参謀

   同道で飛行場におもむいた。

 

    重慶

 

 ■1946年3月19日

  ・午後6時すぎ、河原の狭い細長い飛行場に着陸。手違いであろう、軍統局から誰も出迎えはなかった。

  ・宿は重慶第一の「勝利大厦」

  ・開会中の二中全会に出席中の邢中将と筆談


  ★河原の飛行場の滑走路は磧に設けられた石畳であり、付属建物はほとんど全部よしず張りのバラック建て。年に2,3回

   の大水で流されることを覚悟した設備であろう。河原の飛行場から見上げる重慶の街は、切り立つような高い崖の上にあ

   る。高さは2,3百メートルあると思われる断崖の斜面に、電光型の路が2,3条通じている。・・・川向こうの一帯には数条

   の大煙突が淡い煙を吐き、戦時に東遷した軍需工場の規模がうかがい知れる。

  ★ホテルの1階、2階と室を廻ってみるといずれも満員で、知名の士ばかりだ。

   二中全会と国共協商会議とが併行して行われ、中国全土の、しかも国共両党と米国の首脳者がほとんどこのとき、この街

   に集まって戦いに勝った後の進路を談じているのだ。蒙疆から飛来した傳作義将軍が隣の部屋。タイ国の若い皇帝(後、

   バンコクで射殺された)が秘密に飛来して別館に泊まっていた。

  ★階下の食堂は朝から晩まで超満員だ。勝ち誇った支配階級は夜を日についで会議と宴会の連続であり、別館のダンスホ

   ールでは夜明け近くまで踊り狂っている。

  ★街の人たちの沈みがちな顔と反対に浮ついた空気が、退廃のきざしが、軍、政の上層部にも、中堅級にもみなぎっている

   と断ずることはむずかしくない。許君のところに遊びに来る大、中佐階級は室中を怪しげな足取りでダンスの初歩を真似て

   いる。一人として本を読み、静かに考える姿は見当たらない。新聞は経済面、特に物価の変動にまず眼を通すが、国際情

   勢や学芸欄を見るものはない。

 

 ■1946年3月20日 

  ・夜、邢中将は満面に喜色をたたえて帰った。

   「今日の二中全会の席上で直接主席に会い、君の来たことを話したら非常に喜ばれ、大きな声で、很好!(非常に結構だ)

    とほめられた。君の抱懐している日華合作の趣旨は全く同感である。ただし、外交問題は一朝一夕ではむずかしい。米

    国の対日態度は『先厳後寛』(初めは厳であるが、次第に寛容になる)であろう。日華合作の可能性は十分にある。万事

    は載笠が帰ってから相談してきめる。安心してしばらく休むように伝えよ」との主席の意向。

   なお主席の希望で、君を詳細に報告し、載笠将軍と一緒に謁見があるだろうから、過去の経歴を詳しく書いてくれとのこと、

   早速夜を徹して書き上げた。

  ・「幸先はよい。後はただ載笠将軍の帰京を待とう」彼は今、北平、青島方面の接収指導に出張している。もう2,3日で帰る

   との話であった。

  ・ハノイで別れた懐かしい王通訳の手紙を邢中将から渡された。


  ★途中蒋主席の防空官邸のある山洞の部落を過ぎた。この地下官邸は8年の重任を終わって今静かに休息している。

   重慶から数里離れた山洞に通ずる道路は堂々たる舗装である。米国技師の指導で、わずかに1年足らずで完成した由。

   防空官邸はこの山の中腹の森林中にあった。規模の大、とうてい日本の重爆では爆撃できるものではない。おそらく原子

   弾でも駄目だろう。

  ★ビエンチャンで知合った程中佐の手紙を重慶に勉強中の息子に転送してやったところ、数日後、息子の少尉が旅館に

   訪ねてきた。父や母の近況を伝えたら、6年ぶりだと涙を流して喜んだ。彼の述懐によると、重慶の華僑中学(彼の学んだ)

   の先生の大部分共産党であり、ついに大喧嘩して退校し、青年軍に志願して少尉に任官したと。抗戦首都重慶の各学校

   ではすでに数年前から教師の多数が赤化していた。

   国民党の大世帯は米国の支援でどうにか8年の嵐にたえてきたが、白ありならぬ赤ありがすでに屋台骨に食い込んで、土

   台がぐらぐらになっていたのである。

  ★東亜連盟を通じての旧知繆斌氏の子供が、兪鴻鈞財政部長の宅に寄寓している。何とかして面会し、慰めてやろうと邢

   中将を介して連絡したが、元気でやっているらしい。しかし、面会はついに許されなかった。この頃繆斌氏はすでに漢奸と

   して蘇州の監獄につながれて、裁きを待っていたのである。

  ★物価は食料品に関する限りハノイや昆明よりもはるかに安いが、米国製品はどこよりも高かった。

   南京遷都を控えて、ここにもかしこにも貸家があふれている。戦時中の一割にまで下がった。どの店にも古着、古道具の

   山がある。大きな荷物は大官以外は持ち運べないために、二束三文で叩き売り、旅費を作っているらしい。

  ★日華事変直前の重慶の人口は5,60万人と推定されたが、終戦直後は百万を突破していた。2倍の激増である。排他

   心の強い蜀人も、流れ入った他省の人によって、繁盛の余慶を受けたものの、この戦時景気は勝利とともに急落する。

   上海、南京方面から西に移された民族工業も、勝利の日とともに煙突の煙が淡くなり、先を争って投売をやっている。喜ば

   しい勝利の祝盃の中に、襲い来る不景気の波におびえて、巷には沈痛な表情があふれていた。

 

 ■1946年3月24日 

  ・正午頃、許君と一緒に街を歩いていると、壁新聞の前に黒山の人だかりを見た。「雨農墜」との大見出しだ。載笠将軍、

   号は雨農黄埔。客が重慶に待っているとの電報で、急いで青島から帰る途中、天候が悪く南京に着陸しようとして山に衝突

   したらしい


   ★載笠将軍は浙江省奉化県の人、蒋主席と同郷であり、黄埔軍官学校の愛弟子。北伐革命時代にはまだ学生の身で

    従軍し、情報勤務に敏腕を謳われ、赫々の功業をたて、西安事変には身を挺して主席を死地より救出し、抗日8年の戦

    争中、軍統局(藍衣社)を一手に掌握して敵と共に味方をも慴伏させた話は余りにも有名。

    黄埔軍校の6期生、少将でありながら彼の部下には2期、3期が中将の階級でたくさん使われていた。彼は階級を越え

    た存在であった。権勢におもねらず、主席には苦言、直言を呈し得る唯一の人であり、宋美齢と休んでいる室にでも随

    意に入れる唯一の人であった。

    彼の部下の工作人には、東亜連盟に共鳴したものが少なくjなかった。

    戦時中、日本軍の厳重な網を潜って香港からたびたび上海に変装して忍び込み、洋車曳きに化けてゆうゆうと地下工

    作を指導したこともあり、15万人の有給職員と20万人の直属部隊をもって全国に組織の網を張り、対日情報を獲得

    するとともに貪汚をにらみ、内通を防ぎ、完全に蒋主席独裁の柱となり、目となり、耳となり、鼻となった。このような絶

    大な権力を一手に委せられたものは数多い将領の中にもただ彼一人であろう。自らを持することがきわめて薄く、いつ

    でも綿布の藍衣をまとい、布の支那靴を履いていた。藍衣社の名前は、載笠の質素な服装を部下が真似たために自

    然についたものということだ。

    彼が死んだ後、遺族は全く糊口に窮した。それほど彼は清廉であった。しかし部下の有能なもの、功績を収めたものに

    対しては万金の賞を惜しまない。軍統局の職員は他の官庁職員に比べると給与は格段に恵まれている。それで内部

    の不正を防ぎつつ、工作に力を集中させた。それでも貪汚をやるものがあれば、即座に銃殺した。彼が重慶のある麾下

    部隊を巡視したとき、兵隊の顔色がすぐれないのを見て、その翌朝早く再び急襲視察し、朝食の量が定額よりはるかに

    少ないのをとがめ、兵食の上前をはねていた部隊長を、兵の面前で自ら銃殺したのも有名な話題である。

    彼ほど多くの人を殺したものは中国の永い歴史の中にも少ないだろう。しかし不思議にも民衆からは敬慕されていた。

    これは彼が清廉であったことと、彼の殺したものが貪汚売国の徒であったからである。中山陵の麓の霊谷寺には、大き

    な墓が主席の内帑金で建てられ、その遺族もまた主席の特別の援助で生きている。彼の死は蒋主席には何物にも代

    え難い痛手であった。国民党崩壊の大きな一石は正しく載笠将軍の急死であった。

 

 ■1946年3月28日 

  ・勝利大厦から、郊外の工場街もある軍統局の対共産党宣伝部に移動。俗に張家花園といってこのあたりでは有名な

   豪家。主任は孟少将で、劉大佐、李大佐、黄中佐等の数家族が公私一体の生活を営む所。

 

 ■1946年3月31日 

  ・邢中将を介して来華の目的を口頭で報告しておいたが、詳細は載笠将軍と共に直接蒋介石主席に報告する予定であっ

   た。しかし既に載笠将軍が死んでしまい、毛少将(軍統局副長官)の意思として、李副官が主席に対する報告を筆記して

   提出するよう要求してきた。日本文で毛筆で意見書を出したのは3月31日。一夜を徹して2冊作り、正本は主席に、副本

   は危険を冒し、腹に巻いてその後の旅を無事に内地に携行することができた。

 

 ■1946年4月18日

  ・蒋介石あての血書を書き、李副官を呼び渡した。すぐに軍統局長官のもとに急いだ。約1週間の後、毛人鳳少将(載笠

   の夫人の弟)軍統局副長官から、「主席はあの報告の全文を読まれた。君の心中には十分感動された。自重して待て」

   との伝言であった。

 

 ■1946年5月21日

  ・汪兆銘氏の人格を説き、その妻子を救うのみならず、南京政府の大小漢奸を一律に海のような宏量で寛容することを主

   席に進言したが、残念ながら採用されなかった。重慶との間に和平を図った繆斌氏は、5月21日死刑執行の宣告を受

   けた後、上告も許されず、漢奸処刑の魁として銃殺された。

 

  −その後ー

  ・南京政府の大黒柱を以て任じた陳公博、銃殺される(6月3日)

  ・褚民誼、処刑。日本の古武士の最後を思わせるものがある。

  ・林伯生の死もまた堂々たるもの

  ・重慶と南京と、常に二股をかけ、日和を見た周仏海と周学昌は最後まで醜をきわめた。

  ・女ながら男も及ばぬ態度は陳壁君(汪兆銘夫人)

   法廷で堂々と、「日本と提携したことは孫文の大亜州主義によるものである。共産党はソ連の前衛であり、重慶は米国の

   走狗ではないか?自分のやったことが誤りならば早く銃殺せよ。地下に行って立派に孫文に報告し、また亡夫に報告しよ

   う。どんな判決でも勝手にやるがよい。決して上告はしない」と。

 

 マーシャル元帥が特任として終戦後来華し、国共両党を妥協させて中国を近代的民主国家として統一し、その上に経済

  援助を与え、軍事的に指導して、民生を安定し、赤化を防止しようとする努力は真剣に行われた。しかし、この誠意ある人道

  的調停は、残念ながら国共両党からは喜んで迎えられなかった。それには中国革命の本質から来る深い理由があった。

 

 ■1946年6月30日

  ・午後2時ごろ、日語を解する軍統局の一将校が来談。「明日の飛行機で南京にたつから、今すぐ急いで重慶に行け。張家

   花園の孟少将以下全員も本日中に引揚げよ」との命令。

 

   遷都後の南京での約2年の国防部勤務 

 

 ■1946年7月1日

  ・米式戦闘機と大型輸送機が少なくも百機を下らない銀翼を並べている城外飛行場に、中山稜を左に見て午後6時着陸。

  ・軍統局から蒋成君ほか1人がジープで迎えに来てくれ、王君と4人で乗った。

  ・蒋君が車上で一枚の辞令を見せてくれた。

     史政信、国防部第二庁弁公、 部長 白崇禧

   軍統局の系統から国防部に切りかえたらしい。日本の敗戦軍人で正式に中国国防部にその職員として入ったのはおそらく

   これが初めてであろう。

  ・黄埔路の元中央軍官学校の跡に、戦時中の軍政部、軍令部等を統合し、国防部として店開きしたばかり。

  ・第二庁は情報であり、専門ではないが、外国人を第三庁(作戦)に入れることは不可能であろう。

  ・王少将(留日学生、陸士の42期に相当する人)に挨拶

  ・王少将から鐘中佐(留日学生)を紹介され、当分鐘君が身辺一切を世話するとのこと。


  ★元の総司令部では、板垣総参謀長の官舎には雲南省主席の竜雲将軍が、聚星倶楽部には孔祥熙が、三笠宮殿下の

   宿舎には徐永昌将軍が、それぞれ新しい表札を掲げている。

 

 ■1946年8月4日

  ・突然、鐘君が室を変われといってきた。新しいねぐらは元の総司令部の炊事場であり、その部屋は炊事軍曹の住んでいた

   ところ

 

 ■1946年8月中旬

  ・南京に着いてから間もなく戦犯裁判が開かれた。その第一は酒井中将の断罪であった。

 

  −その後ー

  ・谷中将は南京虐殺事件の責任者として、磯谷中将と共に南京に送られ、1947年春雨華台で銃殺

  ・田中軍吉中佐、野田少佐、向井少佐の3人が南京残虐の下手人として連行されてきた。この3人は巣鴨にいったん収容、

   取調べの結果証拠不十分で釈放されたもの。田中中佐は山中峯太郎氏の小説のモデルのために、野田、向井両少佐

   は某紙の百人斬ニュースのお蔭で、どんなに弁解しても採り上げられず、ただ新聞と小説を証拠に断罪された。

  ・広東で処刑された田中久一軍司令官

  ・北京では川島芳子が処刑

 

 ■1946年8月下旬

  ・鐘君の代わりとなった童中佐が連絡にきて、第2庁長以下の幹部が訪問するとのこと。鄭介民中将が北京出張中の留守

   を預っている龔少将以下6名の中堅どころであった。一行の大部分は留日学生出身であり、約1時間にわたって将来の

   日華合作を論じた。しかし、そのような大きな問題には少しも関心がないようであり、ただ情報収集工作だけを重視している

   (直後、童中佐の代わりに早稲田大学出身の金大佐が担当)

 

 ■1946年9月上旬

  ・王、黄、馬、林、金の5人の少将が、そろいもそろって閣下の服装で属官官舎の畳の部屋を訪ねてきた。いずれも留日学

   生出身の40にならぬ人たち。話が終ってから金少将(母が日本人で子供の時から日本に育った)の私宅で会食があった。

  ・翌日、黄少将が一人でやってきて、日本人を中心とする第三研究組が発足し、情報工作を開始するとのこと。

   黄君は主任で、王少将が副組長、鄭中将が名義上の組長であった。

  ・最初の課題は「厳寒地作戦の参考」。今、満州に進撃した40万の華南の将兵が生まれて初めての冬を迎えるため、急い

   で間に合わせたいとの希望であった。

  ・関東軍参謀時代の体験を思い出して一晩の中に約40枚の作業をまとめ、翌朝黄君の家に届けた。これが国防部勤務の

   処女作であるが中国側はあまりにも迅速なのに驚いたらしい。蒋主席や陳誠参謀総長の矢の催促で、そのまま一言も修

   正することなく翻訳し、員策して国防部の名前で全戦意配った。

  ・その後、矢継ぎ早に情報収集計画やら防諜対策やらを注文してきたが、皆一晩作業であった。

  ・劉参謀次長が面接するとのことで、王少将、陳大佐同路で赤壁路の、元三品報道部長のいた家に劉中将を訪ねた。

   劉次長は日本の歩兵学校や陸大に学び、日本を深く研究し、日本に好意を持ちつつも抗日戦争中は対日作戦の主任者

   であり、現在においても中堅将校から深く慕われ主席の信望が最も厚い将軍であった。

  ・土田中将(仮名)が上海で留用され、南京に来ていたが、9月上旬初めて会った。

 

 ■1946年10月18日

  ・王亮君がジープで迎えに来て、第三研究組が建業路に新たに店開きした由。

  ・2ヶ月一緒に起居した藤田泰一君(仮名、福井の産)に限りなき惜別をまた、肝胆相照らした金大佐にも名残を惜しんで

   別れた。

  ・新しい公館はかつて南京の特務機関長をしていた日本の某憲兵大佐が中国の妾を囲っていた建物。

  ・紹介された中国側の陣容は、張、趙、劉参謀(ともに留日学生)。別に通訳官が5,6名とタイピスト1名、事務員約20名

   の世帯。その中にも一人の日本人がいた(3年前漢口から南京へ飛行途中、沖野海軍大佐とともに敵地に不時着して

   頭部に重傷を負い、捕らえられて重慶に連行された佐村大尉(仮名)。年末には帰国を希望してようやく許された)

 

 ■1947年3月初め

  ・昨年8月、中国側から家庭への連絡を保証された。

  ・父の歩んだ40数年の足跡を書き残し、子供達に父の失敗を踏ませてはならぬと考えて、幼時の思い出から、立志、初陣、

   苦戦、善戦、悪闘の5巻書き終わったのは1947年1月末であった。70余日、40万字を越える自叙伝であり、懺悔録で

   あり、家訓でもある。王少将(東京の代表団に転出)と同行すべき趙参謀に託し、密封の上、留守宅に送った。

  ・3月初め、すでに開封点検されてある長男からの手紙が届けられた。

 

 ■1947年4月下旬

  ・第3研究組の組長は鄭介民中将が兼ねていて、店開きして半年たって初巡視。訓示が終ってから単独で会談の機を与え

   られた。載笠なき後の後釜として信望があり、蒋主席の信頼も高いとの評判であったが・・・。

 

 ■1947年5月

  ・日本から情報専門の軍人を密かに雇おうとする空気は、対共戦の本格化と共に濃化してきた。

   上海で留用した土田中将と2人だけで、近代戦の基礎資料を整えたものの、情報工作として活きた資料を取るには人員

   が足らなかったためであろう。誰を連れて来るかについては全く相談を受けなかった。

  ・大川大佐(仮名)が日本から着いた。昔の恩師であり、同郷の先輩。しかし面談許されず、日本軍人が彼を中心として共

   同戦線を張ることを極度に恐れ、個々の日本人を横に連係なく分離して使う方針が明らかに察せられる。

  ・山田少将(仮名)と松山大佐(仮名)が南京に到着。

  ・土田、山田、松山との4人で合同の研究を希望したが、中国側はあくまで土田中将を切り離そうとして悶着が起こった。

  ・江蘇路の新公館は4人を主体とし、工作を開始するために準備されたものであり、建業路の竹の舎とは比較にならない

   堂々たるもの。

  ・山田少将、松山大佐を案内してきた王亮少佐は、4,5日上海で滞在してから南京に着いた。妻のたよりをもたらした。

   全く4年ぶり。終戦前後の苦痛の中にも木村、永井、児玉氏等の同志から護られて、辛うじて餓死を免れ、2人の子供を

   保育院に入れ、長男を職工とし、自らは司洋裁店に通い、わずかに糊口をしのいだ涙の痕が紙面にまでもにじんている。

   最後の結びに「万一の場合はさすがに辻だといわれるように、子供たちに恥ずかしくないように立派に死んでくれ」と書い

   てある。

 

 ■1947年7月

  ・山田少将、松山大佐が来華したにかかわらず、葉少将以外の上官は会おうとさえせず、また4人の会同をどうかして妨害

   しよとする空気が強く、5,6月はむなしく過ぎ、工作について何一つ指示するではなし、外出は許されず、おまけに同居の

   経理官が私腹を肥やし無礼、無作法は目も当てられない。

  ・7月9日、ついに新来の客は最後の腹を定めた。4人そろって帰国の決心を表明した。

  ・7月末帰京した葉少将は上司の命令として最後の断を下した。

   「第3研究組を解組し、土田、山田、松山3氏は速やかに日本に帰り、辻は英国の追及が急であるから一人しばらく留ま

   るよう」との指示があった

 

 ■1947年8月

  ・8月12日、土田中将は南京を去り、山田、松山両氏は8月25日南京を去った。

 

 ■磯谷閣下の最後の公判が開かれたのが1947年夏。古い陸軍の先輩で、最も尊敬する一人。金沢の歩兵第7連隊の長

  として若い中尉(辻)を指導されてから20数年の薫陶を直接、間接受け、父亡き後の父と仰いだ将軍であった。

 

 ■ある夜、見慣れぬ一人の中国青年が闇にまぎれて突然来訪し、張先生からのたよりを手渡してきた。

     ”中日の将来に関する抱負は昔も今も変わらない。大兄が生きていたことを無上に喜び、必ず新しい合作に、

      両国の紐帯たることを期待している。中国国民党の腐敗は、大兄が身を以て痛感したことだろう。外国人の

      同志に見られることは恥ずかしいが、自分ももはや望みを失っている。

      このような腐敗の渦中に入ることは良心が許さない。目下浪人して日々の糊口にも窮している。たとえ餓死

      してもこれらの腐敗分子から食わせてもらいたくはない。

      東亜連盟の同志は半分以上中共に入り、中共を民族的に東洋的に導くべく努力中である。大兄は達見の明

      を持っているにかかわらず、中国革命の前途に逆行し滅び行く国民党を助け、彼らと心中することは同志として

      黙視し得ない。何とかして早く帰国し、再び新しい中国と心から提携し得るよう時を待て。

      「史」先生の名は以後「時」先生と改める。

      時政信盟兄

                             張         ”

 

 ■1947年9月末

  ・駐日代表団の陳大佐が9月末連絡のため帰華。その意見によると日本の追及はすこぶる急とのこと。

  ・その後、林中将が東京から帰華したとき、服部さんからの信書をもたらした。客観情勢は、なおしばらく帰国してはならぬ

   とのこと。その忠言を感謝してさらに半年の滞華を決意した。

 

 ■満州は接収後2度目の冬を迎えた。陳誠将軍が参謀総長から満州に転出し、全満を武力で占領確保すると豪語したもの

   の、日に日に不利の様相を呈してくる。全般の悲勢を判断し、満州を放棄し、華北はしばらく持久し、その他の全軍で揚子

   江を固め、南北対立の策を大胆率直に進言した。しかしこの心からの忠言は,大きな反感をもって迎えられた。第二庁長

   以下当面の主任者は、事の重大を恐れたか主席に取り次ごうともしない。ただ目前の戦局に没頭し、吉林と長春の局部

   的撤退さえも議して決し得ない醜態である。国防部にもいよいよ人がないとの感を深くした。もうとうてい救う道がない。

   これ以上国防部の禄をはむことは無意味である。

 

 ■1948年2月

  ・「ソ連物的戦力の判断」を終ったときを待って2月正式に辞表を出した。

  ・まだ英国の追及が激しい。帰ったら必ず捕らえられて絞首刑だ。我慢して待て。というのが慰留の言葉であったが、

 

  ・「ご親切は有難い。しかしあえて危険を冒し、卑怯者とののしられながらも中国に潜行したことは、大きな希望と使命を自

   覚したからである。国防部に勤務を命ぜられてから幾回となく誠意を以て献策したがほとんど用いられない。それでも、も

   し日本で戦犯として追及されていないならば、喜んで留まってもよい。だが追及を避けるために、その目的で一日でも中

   国に逃避していることは断じて希望しない。捕らえられると否とは運命である。故郷にはすでに80歳に近い老母が病み

   ふしている。明日とも図られない母の臨終に、一身の危険を避けるために会えなかったら子としての道が立たぬ。帰国後

   捕らえられたら、何も弁解せずにただ絞首台上に登ろう。これが敗戦の罪を償う当然の道である」と参謀総長に具申した。

 

 ■1948年4月末

  ・ついに帰国を認可。

 

 ■1948年5月13日

  ・離華の挨拶に国防部に出頭。第二庁長から2年間の貢献に深く礼を述べられ、惜別の挨拶があった。

 

 ■1948年5月14日

  ・離華の一切の準備を終った。

  ・夜、満州出身の曹大中少将(日本留学生)のアレンジで主席の密命を帯びて最後のきたんな意見を聞きに来た黄杰中将

   と会談。鉛筆書きで速記録にまとめ、黄、曹、史3人が連署。要旨は、

  (1)蒋主席の側近には忠言苦諌の士がない。東条総理もこの過失によって失敗したが、このままで推移したら主席もまた

    必ず失敗するであろう。国防部の中堅及び上層部を一掃し、耳に逆らう幕僚をそろえて危局を突破すべきである。

  (2)戦局は決定的に不利である。蒋主席の頭には10数年前の瑞金攻略の成功がこびりついているらしいが、今日の中共

    軍の実力は国民党軍を凌駕している。冷静、公平に彼我の戦力を判断して英断を下すべきである。起死回生の方策は

    ただ一つ。今ただちに満州を放棄し、華北を撤退し全軍をもって揚子江の線を固め、福建、広東、広西、湖南、江西、雲

    南、台湾を抗戦根拠として建設し、首都をただちに広東に移すべきである。現状をもって進めば、満州は今年末(1948

    年末)まで持てない。南京、上海は明年(1949年)春、陥落するであろう。

  (3)戦後の中国外交はきわめて拙劣である。いまだに以夷制夷政策を踏襲して盟国の信を失っている。よろしく態度を改め

    拒否権を放棄して米英集団とともに、速やかに対日和平を締結し、日本の技術と米国の資本とを以て華南の建設に邁

    進すべきである。

  (4)日本より賠償として工場を撤去することは愚の骨頂である。現に上海埠頭には貴重な工作機械が腐り、屑鉄になって

    いる。すぐこれを中止し、所要の工場をそのまま日本で操業させ中国から必要な原料を輸出し、その製品を取得すべき

    である。

  (5)政治の腐敗を徹底的に粛正すべきである。小悪をやる前に大悪の高級官吏数名を銃殺し人心を一新しなければなら

    ぬ。政治の腐敗が経済を混乱し、民心を離反させ軍の戦意を喪失している。土地政策を断行して農民大衆をつかむこと

    が対共政治の根本である。共産党を養うものは国民党内の腐敗分子である。

  この5カ条を断行すれば、国民党は中国の半分を領導し、国際情勢の変化に乗じ、再び起つ力を保持できるが、これをやら

  ねば後一年は持てないだろうと重ねて強く進言した。

   

 ■1948年5月15日

  ・未明、江蘇路に帰り、一切の整理を終わり、1年間使った勤務兵に手厚く報いた。最後に大川大佐以下の同僚に別れを

   惜しみ、南京駅に向った。

 

   上海 

 

 ■1948年5月15日

  ・劉参謀の案内で王文成氏の宅に落着いた。

  ・岡村大将、松井中将に挨拶。

  ・日本人の集中営に行き、北京大学教授としての帰国の手続きをすませた。


  ★王文成氏は、本名王子恵。維新政府の実業部長として、重慶側の了解の下に偽装して和平陣営に入り、日華の和平

    を策した人。終戦後の漢奸検挙にも免れて、1946年日本に渡り、日華合作に当たったが複雑な内部の勢力争いによ

    って召喚されていた。

 

 ■1948年5月16日

  ・王氏の家族一同に見送られ、王丕承少将とも別れを惜しみ、劉参謀に送られて埠頭に向った。

  ・百数人名の日本人と、5,60名の戦犯容疑者の最後の引揚船。

  ・16日夕刻、船は上海を離れた。(船は2,3日北上して青島に着いた。軍警の略奪ぶりは上海よりもひどかった)


  ★引揚船の船客は台湾からの引揚邦人約3百名。戦犯容疑の軍人あり、台北大学の教授あり、留用された技術者あり、

    職人、商人あり、等々、色とりどりであった。事態の悪化に希望を失って引揚げるものである。お互に同情し、国民党

    の前途に悲観する空気は満ち満ちている。接収の初め、長官として赴台した陳儀将軍は、ついに本国軍人、官吏の

    非違を取締り得ないで、台湾島民の不平を買い2・28事件(1948年)となって爆発した。銃殺された数万の台湾人

    の血は深い怨恨となって本国人の上に流れた。

  ★船室は後部の艙底であり、貨物同様に積み込まれ、半畳に一人の割合で寝るにも足が伸ばせなかった。隣人は永井

    君。同文書院の学生で、荷風山人の甥である。文学青年らしいタイプであった。

  ★江湾組と称するのは戦犯容疑で拘留された軍人。その中に陸大同期の福山少将がいたが、大学教授某がまさか同期

    生とは気がつかないらしい。

 

   帰国

 

 ■1948年5月26日

  ・約10日間の航海を終わって佐世保の港に入った。検疫が終り、上陸についての注意がメガホンを通じて復員関係の役人、

   旧陸軍将校の口から大声に発せられた。

  ・26日朝、いよいよ上陸した。(6年ぶりの祖国)