毎日新聞(夕刊)  昭和62年(1987年)3月4日  水曜日      (4)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             メコンプラザ情報DB 「山田長政」

 

    山田長政は実在したか

            ー 日タイ修好百周年に寄せて −  

 

                  矢野 暢

 

                      やの・とおる 京都大教授(国際政治学、外交史)

                      1936年、熊本県生まれ。京都大学法学部卒。法学博士。東南アジアの地域研究に

                      優れた業績を残し「タイ・ビルマ現代政治史研究」「日本の南洋史観」「劇場国家・日本」

                      など著書多数。「冷戦と東南アジア」で昭和61年度吉野作造賞受賞。

 

 

        一次資料も明治期の写本

 

   ことしは、日タイ修好百周年記念の年にあたる。官民あげて記念の行事や事業の準備が進め

  られているときくが、この年にあたって気になることがある。それは、ほかならぬ山田長政のこと

  である。

 

   日本人は、タイというとすぐ山田長政の名前を口にする。それは、ほとんど条件反射的ですら

  ある。しかし、山田長政は、ほんとうに日タイ友好の象徴といわれるにふさわしい存在なのかどう

  か、この際、学問的に再検討を加える必要がありはしないかと思う。ことと次第では、山田長政

  の歴史的実在すらを疑わねばならない可能性すらあるのだ。

 

   過去に山田長政を実在の人物として描きあげてきた日本側の資料は、必ずしも好もしいもの

  ばかりではない。もっとも初期の資料として知られるのは南禅寺金地院の僧崇伝の『異国日記』

  であって、「山田仁左衛門長正」という名前が記されている。長政についての確かな資料が元和

  7年(1621)のこの日記だけだという事実は、もっと注目されていい。ついで、智原五郎八の

  『暹羅国山田氏興亡記』は、山田長政伝説の種をまいた作品である。五郎八自身が聞き書きに

  よると断っているのに、一次資料として、ごく最近まで頻繁に引用されてきた重大な存在でもある。

  これは寛永期の作といわれるが明治14年の政府修史局写本しか残っていない。ところがこの

  『興亡記』は、文化5年(1808)の近藤重蔵『外蕃通書』によって、根も葉もない虚説と斥けられて

  いる。

 

   宝永4年(1707)の『天竺徳兵衛物語』も有名だが、およそ90歳になっての追想禄である。そ

  の他いくつかあるが、いずれも伝聞を越える具体的な記述は乏しく、また山田の出身地について

  も伊勢あるいは尾張としていて、静岡出身とはしていない。そして共通して、山田の晩年、すなわ

  ち南タイに渡って業死を遂げたといわれる局面については記述していない。

 

   ところが、文化10年(1813)に出た平田篤胤の『気吹飈(いぶきおろし)』は、智原の『興亡記』

  などを素材に、まさに荒唐無けいな山田長政論を展開している。見てきたようなウソでかたまって

  おり、武勇の人物としての山田像がこの講釈本で決定的になってしまう。ただ、話の展開は、後代

  の山田長政論とは細目がかなりちがっている。

 

   このような江戸期の山田長政像がより鮮明な容姿を与えられるようになるのは、明治維新以降

  である。主として静岡の郷土史家の仕事を通じて、かなり具体性をもった山田長政像がつくりあげ

  られていくことになる。とくに関口隆正や間宮武などという人物のことは、この際洗い直してみる必

  要があろう。

 

 

      南進論風潮強まったとき

 

   明治20年代という明治期南進論の風潮に導かれたものであろう、明治25年の関口の『山田

  長政事蹟考』と『山田長政本伝』は、山田が駿府の生まれであったかのように実証してみせた作

  品である。静岡の郷土史家たちは、山田の子孫の存在と過去帳の存在まではっきり調べ出して

  くる。

 

   山田長政の存在が公的に認知されたのは、大正4年11月、宮内大臣波多野敬直によって従

  四位を贈られたときであった。折しも、大正期南進論の最盛期であった。皮肉なことに、山田長政

  がシャムで活躍したかどうかについての実証的な検証は、むしろその後に行われるのである。

 

   岩生成一氏の『南洋日本町の研究』の刊行は大正15年のことであった。これによって、アユタヤ

  ーの一角に所在した日本人町の様相が明らかになった。そして、その岩生氏が、山田長政の実在

  を実証する決定的な資料として、アユタヤーに住まったオランダの商館員ファン・フリートの「シャム

  国革命史話」というオランダ語文献を発見することになる。昭和5年のことであった。

 

   シャムに長年住まった三木栄氏の一連の山田長政論が、昭和の初めごろから「史学雑誌」等の

  論文で世に問われることになる。三木栄氏の代表著『山田仁左衛門長政』が刊行されるのは昭和

  11年秋、まさに日本が国策としての南進政策を打ち出した直後のことであった。三木氏は、岩生

  氏を補佐するかのように、戦後にかけて独自の山田長政論を展開しつづけることになる。

 

   問題は、そのファン・フリートの作品に登場する日本人である。「オークヤーセーナーピムック」と

  いう人物である。シャムでは官吏になると欽賜名(ラーチャティナナーム)に名前が変わるしきたり

  であったから、山田長政が山田長政として活躍しえたわけではない。岩生氏はじめ多くの日本人

  学者は、この「オークヤーセーナーピムック」こそが山田であると比定している。

 

 

      問われる歴史学の破綻

 

   私が気にするのは、まさにこの点である。江戸期にはじまる山田長政像の形成過程の吟味を

  いい加減に放置しながら、それを受けて長政探しを行った昭和期の精神性、そしてファン・フリー

  トの描く、あたかもヨーロッパの宮廷物語のような劇的な描写に歴史の現実を読みとろうとした

  性急で浅薄な知性の質に、私はこだわりたいのである。むろん、タイ語の信頼できる文献には、

  どこにも「山田長政」もなければ「オークヤーセーナーピムック」も出てこない。アユタヤーが滅亡

  したときに史料が消えたからだ、と、みな解釈しているが、そうだろうか。

 

   密航してシャムに渡った二流の商人「山田長正」は、あるいは実在したかもしれない。それ以上

  の存在ではなかったことは確かであろう。だが、山田長政はつねに武断的英雄として描かれてき

  た。そのこと自体、望ましい歴史学的認識の破綻を意味しよう。それよりも、日本人は江戸から

  今日にかけて、なぜ東南アジアとの関わりにおいて「山田長政」を必要としたのか、それこそが問

  題であろう。アジア事情にうとい日本の政治的知性の、むしろ知識社会学的問題として、その点

  は問われねばなるまい。私たちは、南進論的思考をこの際きっぱりと超克すべきであろう。ことし

  は、まさにそのための年なのである。