歴史:

        史記「西南夷列伝」

 

 

   『史記』は前漢の史官であった司馬遷の作で、130巻あり、上は黄帝から、下は前漢の武帝に

    及ぶ2千数百年の中国古代史を記したもので、12本紀、10表、8書、30世家、70列伝から成る。

 

  ■メコンプラザ内での「史記」西南夷列伝関連紹介

■         滇王之印

            ・メコン圏と日本との繋がりを辿る  「倭と雲南に与えられた蛇鈕の金印」

         ・関連テーマ・ワード情報   石寨山古墓群遺跡

      張騫と西南夷世界               

         ・中国歴史の舞台としての中国西南部・南部  「シルクロード開拓の張騫と西南夷世界」

 

              ■西南夷列伝 第56

  メコンプラザで

   紹介(予定)テーマ

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西南夷(蜀の南の夷狄)の君長の国は数十であるが、夜郎(国名。貴州省)が最大である。その西方は靡莫の属で、数十あり、(国名。雲南省)が最大である。滇から北は、君長の国は数十で、邛都(国名。四川省)が最大である。これらはみな頭髪を椎の形に結び、田を耕し、村落を形成している。その他、西方の同師(邑名。雲南省)から東、北方の楪楡にいたるまでは、雟・昆明(ともに国名。四川省)と称されている。みな辮髪で、家畜とともに移住して定住せず、君長もいない。その地は数千里四方にわたっている。雟から東北方においても、君長の国は数十あり、徙・筰都(ともに国名。四川省)が最大である。筰都から東北方においても、君長の国は数十あり、冄・駹(ともに種族名。四川省)が最大である。これらの習俗は、土着するものもあり、移住するものもあり、すべて蜀の西方に居住している。さらに、冄・駹から東北方においても、君長の国は数十あり、白馬(種族名。甘粛省)が最大で、みな氐族(チベット系の種族)である。以上はすべて巴・蜀の西南の外辺に居住する蛮夷である。

 

 はじめ、楚の威王の時代に、楚は将軍荘蹻に命じて、兵をひきいて揚子江の沿岸をさかのぼり、巴郡(四川省)・黔中郡(湖南省)以西を攻略させた。荘蹻は、もとの楚の荘王の苗裔である。蹻は滇池(湖名。昆明湖。雲南省)まで行った。滇池の広さは三百里四方あり、その付近は肥沃な平野が数千里もつづいていた。蹻は兵威によってその地を平定して楚に順属させ、帰国して報告しようとした。ところが、たまたま秦が楚を撃って巴郡・黔中郡を奪い、道が塞がれて通じなかったので、蹻はひきかえし、その部下の衆をひきいて滇の王となった。すなわち、服装を変え、その地の民の習俗に従い、そこの君長となったのである。

 

 秦の時代に、常頞がその地を攻略して、幅五尺の道を通じた。よって、秦はこれらの国々に多くの役人を置いて統治したが、十余年たって滅びた。漢が興ると、漢室はこれらの国々をすべて弃てて治外の国とし、蜀のもとの要塞を復活して交通を絶った。しかし、巴・蜀の民のなかには、ひそかに要塞線から出て商売する者があり、筰の馬、bo[棘の字に人:日本語読みは”ほく”](四川省に住む西夷の一種族)の奴婢、髦(雲南省に住む西夷の一種族)の牛を購入してきたので、巴・蜀は富裕で活気を呈した。

 

 建元六年、大行(官名)王恢が東越を撃った。東越は王を殺して謝罪した。恢はさらに兵威を誇示して、番陽(江西省)の県令唐蒙を派遣し、南越にそれとなく帰順を諭させた。このとき、南越は蒙に蜀の枸醤(枸の実でつくった味噌)を食べさせた。蒙がどこから到来したものかと問うと、「西北の牂牁江経由できたものです。牂牁江は幅数里で、番禺(広東省)城下に流れてまいります」とのことであった。蒙は長安に帰着すると、その事情を蜀の商人に問うた。蜀の商人は言った。「蜀だけが枸醤を特産します。多くの者がひそかにそれを持ちだして、夜郎で売りさばくのです。夜郎は牂牁江に臨んでおります。牂牁江の幅は百歩あまりで、船をかよわすことができます。南越は財物をおくって夜郎を服属させ、さらに西のかた同師まで勢力をのばしておりますが、しかし、臣として使うところまではいっておりません」

 

 そこで蒙は上書して天子に説いた。「南越王は、天子にならって、黄屋に乗り左纛を立てており(黄屋は、車蓋の裏に黄色の絹を使用した天子の車。左纛は、旄牛の尾でつくった旗で、天子の乗物の左方に立てる)、その地は東西一万余里にわたっております。名はわが外臣ではありますが、実は一州の君主であります。いま、長沙・豫章の兵をひきいて討伐しようといたしますと、水路はとだえがちで進軍は困難であります。ところが、ひそかに聞くところによりますと、夜郎では精鋭の兵十余万を調達できるとのことであります。それをひきいて船を牂牁江に浮かべ、南越の不意をつくのは、越を制する一奇策かと存じます。まことに、漢の強大と巴・蜀の豊饒をもっていたしますれば、夜郎への道を通じ、統治のための役人を置くことは、非常に容易なことであります」

 

 天子はこれを聴許し、蒙を郎中将に任じた。蒙は兵千人、輜重夫一万余人をひきいて、巴の符関(四川省)から夜郎の地にはいり、ついに夜郎侯多同と会見した。そして、多同に厚く贈り物して、天子の威徳をさとし、統治のために漢の役人を置くことを約定し、その地を漢の県になぞらえて、多同の子を県令に任じた。夜郎付近の小邑は、みな漢の繪帛を貪り、”漢からの道は険しいから、漢はこの地をそう長くは保有してはおられまい”と考えて、しばらく蒙の約定を聴きいれることにした。蒙は帰還して報告した。そこで、漢はその地を犍為郡(四川省)とし、巴・蜀の兵卒を徴発して道路を工事し、bo[棘の字に人:日本語読みは”ほく”]道(県名。犍為郡の主県)から牂牁江を目指した。

 

 蜀人の司馬相如も、西夷の邛・筰の地に郡を置くべきだと進言した。そこで、相如を郎中将に任じて、おもむいて漢への服属をさとさせた。その結果、西夷もみな南夷のように、統治のために漢の一都尉・十余県を置いて、蜀に帰属した。

 

 当時、巴・蜀の四郡(漢中・巴・広漢・蜀)は西南夷の地への道を通じようとして、兵をおくって国境を守備し、糧食を転送した。しかし、数年たっても道は通ぜず、士卒は疲労して餓え、湿気にあい、死者が非常に多かった。その上、西南夷はしばしば反し、兵を発しては攻撃をしかけ、消耗するばかりで効果はなかった。天子はこのことを憂慮し、公孫弘に命じて視察させた。弘は帰還して、その便益でないことを答えた。弘が御史大夫になると、ちょうど、漢は朔方郡(内蒙オルドスの地)に城塞を築き、黄河に拠って匈奴を追いはらっているときだったので、弘はしばしば西南夷の害を主張し、「西南夷の経略はしばらくやめて、もっぱら力を匈奴にそそぐべきです」と進言した。かくて、天子は西夷の経略をやめ、ただ南夷・夜郎の両県だけに一都尉を置き、犍為郡には次第に自力で統治するようにさせた。

 

 元狩元年になると、博望侯張騫が大夏(バクトリヤ)への使いから帰ってきて、「大夏におりましたとき、蜀の布と邛の竹杖を見ました。どこから入荷したのかと問わせますと、『東南の身毒国(天竺すなわち印度)からのものだ。身毒国は数千里ほどのところにあり、そこの蜀の商人の市で手に入れた』とのことでした。あるいはまた、邛の西方二千里ばかりのところに身毒国がある、とも聞きました」と報告し、よって、さかんに、「大夏は漢の西南にあります。中国を慕っているのですが、匈奴が漢への道を隔絶しているので、気をもんでいるのです。まことに、蜀と身毒国を通ずれば、道は便利で近く、利があって害はないでしょう」と主張した。そこで、天子は王然于・柏始昌・呂越人らを使者として、ひそかに西夷の地に出て、さらに西を目指して身毒国をさがさせた。使者たちが滇に到着すると、滇王嘗羌は彼らを逗留させ、彼らのために道を求めて、十余人を西方に派遣した。一年あまりたったが、道はみな昆明のために閉塞され、身毒国に通ずる道はなかった。滇王は漢の使者と語っているうちに、「漢とわが国とでは、どちらが大きいか」と問い、夜郎候も同じことを問うた。道が通じていないので、滇王も夜郎候も、おのおのみずから一州の君主だと思いこみ、漢の広大さを知らなかったのである。使者たちは帰ってくると、さかんに、「滇は大国であり、これを漢に親付させようと努力することには、十分価値があります」と主張したので、天子は滇を注目した。

 

 南越が謀反すると、天子は馳義侯を使者として、犍為郡から南夷の兵を徴発させた。ところが、且蘭(南夷の国。貴州省)の君主は、遠征すればその留守に近傍の国々が自国の老弱者を捕虜にするのではないかと恐れて、部族とともにそむき、使者(馳義侯)および犍為郡の太守を殺した。そこで、漢は巴・蜀の罪人で南越を撃とうとする者と八校尉を出動させて、南越を撃破させようとした。たまたま、越はすでにやぶれてしまったので、漢の八校尉は南下せず、兵を引いてひきかえし、頭蘭(南夷の国名)の誅伐にむかった。頭蘭は常に滇への道を隔絶していたのである。頭蘭を平らげてしまうと、ついに南夷を平定して、その地を牂牁郡とした。

 

 夜郎侯は始め南越にたよっていたが、南越が滅びると漢の配下につき、漢にそむく諸国を誅伐し、ついに入朝した。天子はこれを夜郎王とした。南越がやぶれた後、漢が且蘭・邛の君長を誅し、また筰侯を殺すと、冄・駹らはふるえあがり、漢の臣となるから役人を置いてほしいと請願してきた。そこで、邛都を越雟郡(四川省)とし、筰都を沈犂郡(四川省)とし、冄・駹を汶山郡(四川省)とし、広漢の西の白馬を武都郡(甘粛省)とした。また、天子は王然于に命じて、越をやぶり南夷を誅滅した漢の兵威を誇示し、それとなく滇王をさとして入朝させようとした。しかし、滇王には数万人の民があり、また、近くの東北方には労浸・靡莫(ともに小国名)があり、みな同姓でたがいに扶けあっていたので、入朝することを聴きいれなかった。労浸・靡莫は、しばしば漢の使者や吏卒に暴行を加えた。

 

 元封二年、天子は巴・蜀の兵を発して労浸・靡莫を撃滅し、軍を滇に迫らせた。しかし、滇王は初めから常に漢に善意をもっていたので、誅殺はしなかった。滇王は西南夷から離れて国をあげて降り、漢の役人を置き入朝したいと請願した。そこで、その地を益州郡(雲南省)とし、滇王に王の印を賜い、もとどおりにその民の君長とした、西南夷の君長の数は数百であるが、ただ夜郎と滇だけが王の印を受けた。滇は小国であるが、漢に最も寵遇された。

 

 

 太子公曰く −

 楚の先祖は天の福禄をうけたのであろうか。周の時代においては文王の師となり、楚に封ぜられた。周が衰えたときには、地は五千里と称された。秦は諸侯を滅ぼしたが、楚の苗裔だけは滇王として残った。漢は西南夷を誅して国は多く滅びたが、滇だけはまたも漢の天子の寵遇する王となったのである。しかし、南夷の事件の発端は、唐蒙が枸醤を番禺で見たことにあり、大夏の事件の発端は、張騫が邛の竹を杖としているのを見たことにあった。西夷は後に分割されて、西と南の二方にわかれ、ついに七郡となった。

 

 

    訳文引用文献:

       「史記」(下) 

          (司馬遷 著、野口定男 訳者、平凡社、1971年) 

                   中国古典文学大系12(全60巻)

 

 ■夜郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荘蹻入滇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 枸醤

 牂牁江

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■公孫弘と西南夷世界

 

 

 

 

 

 

 

 張騫と西南夷世界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■夜郎自大

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■滇王之印