特別テーマ:

        戦国豪商とメコン圏

 

 

  

  ■戦国豪商主要人物

 

    荒木 宗太郎 (あらき・そうたろう)

                                   ⇒ ■メコンプラザ内での更なる紹介

          ・? 〜 1636年(寛永13年)

          ・長崎の貿易家。名は一清、のちに惣右衛門

          ・肥後熊本の武士だったが、長崎開港とともに長崎に移り、武士をやめて商人になった。1592年

           (文禄元年)、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャム・安南地方に数度貿易船を出した。

           宗太郎みずからも乗船、安南国王の一族、阮氏に深く信頼され、1619年(元和5年)に

          は、阮氏の娘、王加久戸売(オウカクトメ)を妻とし、帰国した。

           1622年(元和8年)には将軍徳川秀忠より新たに朱印状を受け、交趾方面に通商した。

           荒木船の船標は、円のなかにO・V・Cを組み合わせたものであった。それはオランダ東インド会

           社の船標を上下逆さにしたデザインであった。

    亀井 茲矩 (かめい・これのり)

          ・1557年(弘治3年)〜 1612年(慶長17年)

          ・大名。因幡鹿野城主

          ・尼子氏、山中鹿之助、織田信長、豊臣秀吉と次々に仕え、関ヶ原合戦では家康に仕えた。

           朱印状を得て海外貿易をおこなった大名は少なくないが、亀井茲矩もその一人である。だが、そ

           の規模が大きい。1607年(慶長12年)の西洋(さいよう)、1609年(慶長14年)、1610年

          (慶長15年)のシャム計3回の朱印状を受けている。

           庶子の鈴木八郎左衛門のほか、多賀是兵衛・梶原弥右衛門・塩五郎太夫などが長崎に住んで、

           その貿易業務を掌握した。朱印船の船長はもっぱら多賀是兵衛であったという。

           シャム国アユタヤの日本人町にはオクプラ純広という長がいたが、これは亀井茲矩にゆか

          りの者といわれ、家康のために鉛の購入を斡旋していた。

    木屋 弥三右衛門 (きや・やそうえもん)

          ・生没年不詳

          ・堺の貿易商

          ・1606年(慶長11年)、はじめて幕府より朱印状を下付されて以来、6回にわたってシャムに朱

          印船を出した。またルソンとカンボジアにも船を出し交易している。

           シャムの事情について徳川秀忠に説明したことがあり、1623年(元和9年)、来日のシャ

          ム王使節が徳川秀忠と二条城で会見した際には、陪席して通詞役をつとめた。

           堺北庄材木町に木屋の地名があるので、この地に本拠をおいていたと思われる。

    納屋(呂宋) 助左衛門 (なや・すけざえもん)

                                 ⇒ ■メコンプラザ内での更なる紹介

          ・生没年不詳

          ・堺出身の貿易家

          ・堺の海岸に倉庫を建てて海運業を営んだ者を納屋衆といい、納屋を屋号にした者は数軒あった。

           助左衛門の家は中浜の納屋といわれ、ほかに菜屋、魚屋とも書いたようだ。スペイン治下のルソ

           ン島に渡り、1594年(文禄3年)に帰朝。このとき舶載したのは唐傘・蝋燭・麝香、そして50個

           の真壺であった(『太閤記』)が、これらを豊臣秀吉に献上した。この真壺とは当時隆盛の茶の湯

           で最も珍重された「ルソンの壺」であり、国内での売り捌きには豊臣秀吉が関り、納屋助左衛門

           には巨額の利をもたらした。

           のち、豪勢な暮らしが豊臣秀吉に忌諱され、日本を離れ、カンボジアに亡命した、カンボジ

          アの王家の庇護のもと、対日貿易の監督役をつとめたと伝えられる。

    末吉 孫左衛門 (すえよし・まござえもん)

          ・1570年(元亀元年)〜1617年(元和3年)

          ・大阪の貿易商。末吉勘兵衛の子。名は吉安(よしやす)

          ・1601年(慶長6年)、父の末吉勘兵衛とともに銀座の創設に参画、1607年(慶長12年)に父の

           業を継いで伏見銀座の頭役となる。

           1608年(慶長13年)、朱印状を得てシャム貿易船を出した。ルソンには7回にわたって朱印船

           を出したほか、東京(トンキン)や安南(アンナン)とも交易した。末吉家の朱印船を末吉船と呼

           ぶ。大阪冬・夏の陣に際しては、徳川家康方につき大活躍した。大阪京橋から河内の柏原村にい

           たる平野川を開削し、柏原船という船便を開通した業績もある。

     ◆角屋 七郎兵衛 (かどや・しちろうべえ)

          ・1610年(慶長15年)〜1672年(寛文12年)

          ・伊勢松阪の貿易商。名は栄吉

          ・祖父・元秀が大湊で海運業を始め、角屋を称す。元秀の子・秀持は、1582年(天正10年)6月、

           本能寺の変のとき堺に遊んでいて危なかった徳川家康を伊勢白子から尾張常滑に渡した功で、

           分国内航行自由の特権を許された。秀持の長男が忠栄で、七郎兵衛は忠栄の次男。兄の七郎

           次郎忠祐が松阪の本家を継ぎ、弟の九郎兵衛栄信は堺に移り、兄弟3人で海外貿易に大活躍

           した。

           1631年(寛永8年)、七郎兵衛は安南に渡り、日本人街に住んだと推定される。2年後

          に幕府は日本人海外渡航禁止令を出したが、七郎兵衛は安南にとどまり、商品を奉書船

          を通じて日本に送った。1636年(寛永13年)に海外在住日本人の帰国が禁止され、七郎兵

           衛の消息は一時途絶えたが、30数年後に消息が判明すると、安南国王の一族と婚姻を結ぶほ

           どの出世を遂げていた。

     ◆西村 太郎右衛門 (にしむら・たろうえもん)

          ・生没年不詳

          ・近江出身の貿易家。

          ・1615年(元和元年)、大阪から九州方面へ航海中、暴風雨のために難船漂流,安南(アン

          ナン)に辿りついた。安南国内の政争に介入し、国王方につき、勝利に導く戦功をあげた。

          それを認められて一城主として厚遇されたという。帰国を計画したが果たせず、安南で死ん

          だといわれる。以上のことは、1647年(正保4年)、西村太郎右衛門がはるばる近江八幡

          の日牟礼神社に献納したという絵馬に描かれている。

    末次 平蔵 (すえつぐ・へいぞう)

          ・?〜1630年(寛永7年)

          ・貿易家。長崎代官。博多の豪商・末次興善の子。名を政直。

          ・1571年(元亀2年)の長崎開港とともに博多の豪商・末次興善は長崎に移り、興善町を開いた。

           末次平蔵は父のあとを継ぐと、朱印状を得て貿易船を出し、ルソン・シャム・台湾・交趾・東京(トン

          キン)など手広く商圏を開拓した。

           1619年(元和5年)、長崎代官・村山等安の私曲を幕府に訴え、勝訴、村山等安に代わって長崎

           代官の地位についた。富と権力を併せて手に入れたわけだ。その栄耀は60万石の大名以上と謳

           われた。1628年(寛永5年)、末次平蔵の朱印船(末次船)の船長・浜田弥兵衛が、オランダの台

           湾総督長官と争い、人質を得て帰国すると、末次平蔵はオランダ人の日本貿易差止めを幕府に上

           申し、これを実現した。

           末次家の全盛は短く、末次平蔵の孫の代にカンボジア密貿易が発覚し、一族のすべてが

          処罰された。

     ◆原田 孫七郎 (はらだ・まごしちろう)

          ・生没年不詳

          ・長崎の貿易商・原田喜右衛門の手代

          ・原田孫七郎は何度もルソンを往復し、マニラに居住したこともあるので、ルソン事情に詳しく、イスパ

           ニア・ポルトガルに昔日の威勢がないことを知って、豊臣秀吉にルソン攻略を建言した。1592年

           (文禄元年)、入貢を促す豊臣秀吉の国書をマニラに届け、スペインのマニラ総督の使者を平戸に

           連れ帰った。この交渉は実らなかったが、豊臣秀吉から年禄5百石を給された。1593年(文禄2年)

           には台湾に入貢を促す使者として入国したが、これも失敗に終わった。

    西 類子 (にし・ルイス)

          ・?〜1646年(正保3年)

          ・堺の貿易家。号は宗真。ルイスは洗礼名。

          ・肥前大村藩士の子だが、豊臣秀吉治世のころからルソンに渡航、貿易をしていた。1607年(慶長

           12年)、藩主大村喜前(のぶさき)の推挙で徳川家康に謁見、海外経済事情を説明して信任を得た。

           ルソン渡航と国内すべての港に出入りする自由を許され、巨利を博した。元和年間(1615〜1623)

           に堺に移って隠棲した。

 

    主な引用参考文献:

        ・『歴史読本 昭和58年8月号 特集 戦国豪商列伝』