歴史編ービルマ

                  バー・モウの日本亡命

, 関連テーマ・ワード

 

 石射大使の遺著

 「外交官の一生」から

 

バー・モウの激怒

 

 『大使、聞いてもらいたい。この脱出は乱暴きわまるものだ。われわれはわずか20時間の予告で、ラングーン脱出を余儀なくされたのである。わたしは軍に言った。自分は多勢の家族を引き具さなければならない。その中には臨月の娘もいる。途中、家族のための食料の準備、出産の場合の用意、携帯品の取りまとめ、遺留財産の処置も講じなければならぬ。20時間をもってしては不可能だと。然るに軍は、途中の食事は全部軍でお賄いする。出産に備えて医師もつける。それらの点はご心配なく、ともかく定刻通り立ってくれ、というのだ。その言に任せて難きを忍んで立ち退いて来た。他の閣僚も、同様に無理をして行をともにしたのである。然るに来てみればどうであるか。途中の食事は愚か、宿所の予定さえもない。付けられた医師は産科ではない。われわれの脱出に対して、途中何ら便宜供与の手配もなく、この敗軍の激流の中に、一行を突き落としたのだ。軍はかねがね、われわれの生命財産の安全を保障すると確約していたが、それはいまや一片の反古に等しい。わたしは家族や閣僚に対して、苦しい立場にある。大使も家族をお持ちであろう。わたしの苦境をお察しあれ。平岡大佐、彼何等の非常識ぞ、わたしの娘の生理現象を無視して行進を強いるとは −』

 

 

ビルマ領内から離れる

 

 (1945年)8月13日の午前、東郷外相の訓令が山本タイ大使から転電されて、ムドン部落の軍通信隊へ入った。それによると、終戦の次第を通達したあと”ビルマ政府の今後の身の振り方は、自らの裁量によって決せられたき旨、同政府に通告せよ”とある。石射大使は、すぐ木村軍司令官に軍側の意向を打診したところ、終戦のことはまだ知らぬが、バー・モウ氏の一身は大使に一任するといわれた。ムドンに引き返しバー・モウ氏に大臣訓電の趣旨を申し入れた。もう日の暮れ方であった。バー・モウ氏は悲痛な、しかし冷静な表情で、わたしの通告を受けた。そして日本政府の丁重な通告を感謝するといい、ビルマ政府の身の振り方は、閣僚と相談のうえ決定するが、他の閣僚はいざ知らず、自分一個はビルマ国内に潜伏して独立運動に献身するといい張った。わたしは数回にわたってバー・モウ氏に、いまは日本に亡命し、日本政府の庇護の下に一身を全うし、後図を策すべきである、と説いた。数日間、何度も閣議を開いたのち、バー・モウ氏は結局、わたしの勧告に従って、ともかく仏印の家族のもとに走り、その時の形勢次第で日本に亡命することに決し、他の閣僚はムドンに居座って”bravery face the British(イギリスに対し敢然とたち上がれ)”と覚悟を決めた。(1945年)8月18日、バー・モウ氏と随行者数名は、タンビザヤ駅仕立てのバンコク行き急行列車に乗るべく、未明、自動車でムドンを出発した。民家はまだ夢の中に静まり返っていた。闇をおかして見送るもの、閣僚たちとわたし、バー・モウ氏とわたしは再会を固い握手に約して別れた』のである

 

      1945年8月24日〜1946年1月18日

      (1947年1月18日〜同年7月までは巣鴨に収容)

 

      1945年4月23日: モールメンに向けてラングーン脱出 (家族とともに)

      1945年8月18日: バンコク、サイゴンに向けムドンを出発 

      1945年8月23日: 日本に南方総軍手配の飛行機でサイゴンを出発

               (ダナンで給油し台北飛行場着。台北で一泊)

 

      1945年8月24日: 台北を飛び立ち、立川の飛行場に到着

                 (途中、福岡で給油)

             陸軍省の車で市谷台の陸軍省に向かい、帝国ホテルに泊まる。

             その後、神田駿河台の竜名館という旅館に移り、

 

      1945年8月26日: 車で竜名館から高崎まで向かい

                   高崎から汽車に乗り新潟県六日町に到着。

                   今成拓三氏の家に

                同行者は、北沢直吉氏と通訳の佐藤日史氏

            六日町駅での出迎えは、遠藤栄三氏と岩野良平氏

      1945年8月27日: 薬照寺に移動

      1945年8月27日〜1946年1月16日  薬照寺で亡命生活

 

      1946年1月16日:薬照寺での送別会

           送別の宴会参列者:バー・モウ、土田覚常、今泉隆平、岩野良平、

                杉田一雄、遠藤栄三、関口常正、今成雄志郎、今成豊吉、

                今成拓三(亭主役)

 

          自首するために石打駅から汽車で上京。

            同行者は、今成拓三氏と井口良平氏

            上野駅で、外務省の車が待っており、池の端の梶田家という旅館に

            はいるが、すぐに丸の内ホテルに移る。梶田家で北沢直吉氏(当時、

            吉田外相秘書官)と甲斐氏(当時、外務省調査局第二課長)が待機。

 

      1946年1月18日 GHQ(連合軍総司令部)、英代表部に出頭自首

      1946年7月、巣鴨の収容所から釈放される

      1946年8月、ビルマに帰国

     

 

  ビルマ戦局の悪化にともない1945年3月下旬になってマンダレーが落ち、さらに南に下がったメイクテイラが落ち、英印軍のラングーン進出まであとわずかとなると、ラングーンにあった日本軍のビルマ方面軍司令部は、1945年4月22日になって、いきなり「明23日夜、ビルマ政府、大使館、居留民は、ラングーンよりモールメンに向かって撤退すべし」という命令を発した。4月23日夜、ビルマ国家元首バー・モウも、夫人、長女、長女の夫で日本の士官学校を出て、バー・モウの侍従武官をしていたボーヤンナイ中佐らを連れ、他のビルマ政府閣僚たちとそれぞれの家族と一緒に、指定された憲兵隊司令部前に集合した。ビルマ方面軍司令官以下日本軍幹部は飛行機でラングーンを撤退し飛行機で約30分の距離のモールメンに飛んだが、バー・モウや臨月の身重だったバー・モウの長女らバー・モウの家族にさえ、飛行機の手配はなく、英軍が北から迫ってくる中を車でペグーまで北上しそこから東に向かってのモールメンへの脱出行は難を極めた。

 

 モールメン近くのムドンという集落に落ち着くが、バー・モウや閣僚たちのビルマ政府はそこに残るものの、その家族までムドンに残すことはなく、もっと安全な場所に移した方がいいということで、バンコクに出てタイ国政府経営のトロカデロホテルで休養した後、汽車でカンボジアのコンポンチャムに移動した。尚、臨月の身重だったバー・モウの長女は、ラングーンからの脱出行の際、シッタン川を渡りチャイトウ村にさしかかった時に男の子を出産している。

 

 バー・モウ自身は、終戦直前に外務省から石射大使を通じてムドン部落へ連絡があり、日本政府とのやりとりで、ご希望なら日本へおいでください、ということで、日本へ亡命する決心をし、終戦直後の1945年8月18日、ムドンを車で発つ。汽車で泰緬国境を越えバンコクに入り、バンコクから、日本軍の小型偵察機でサイゴンに飛んだ。1945年8月23日、南方総軍手配の飛行機で、ビルマ大使館参事官でバー・モウと長らく行動をともにしていた北沢直吉氏とともに日本に向けサイゴンを出発。この飛行機は爆撃機を旅客用に改装したかなり大きな双発機で、ビルマ方面軍参謀長の田中新一中将らの相客があった。

 

 台北に一泊後、8月24日、東京・立川の飛行場に到着。市谷台の陸軍省に行ったあと、帝国ホテルに向かい、重光外相と面談。帝国ホテル、神田駿河台の竜名館に滞在するも、占領軍に見つからないように長期にわたってバーモウをかくまう手立てが必要であり、この点については大東亜省南方事務局の政務課(大東亜省は1945年8月26日廃止)の手配で、新潟県六日町在住の翼賛壮年団新潟県副団長でハム工場を経営していた今成拓三氏がバー・モウの隠匿を引き受けていた。8月26日、北沢直吉氏と通訳としての外務省の職員・佐藤日史氏の同行のもと、バー・モウは高崎まで車で、高崎から汽車で新潟県六日町に向かうことになる。

 

 尚、日本に到着後、北沢直吉氏がバーモウと相談して日本名を名乗ることにし、『東亜毅男』で「あずま・あきお」と読ませ、満州国の大学教授で、日本語がしゃべれないから満州人とした。

 

 一方、大東亜省南方事務局政務課員の石井喬氏の来訪を受けてバー・モウ引き受けを承諾していた今成拓三氏は、岩野良平氏、遠藤栄三氏、杉田一雄氏という3人の地元の同志を呼び集め、どこに隠すかを相談し、石打村(当時。その後、石打村は塩沢町に合併し塩沢町君沢となる)にあった薬照寺(当時の住職は土田覚常氏)に決めた。岩野良平氏と遠藤栄三氏が、バーモウら3名を8月26日夜、こっそりと六日町駅で迎え今成拓三氏宅に連れ、翌8月27日から薬照寺で亡命生活を開始。こうして今成氏の他の地元の同志たちの協力もあって、1946年1月16日までの約半年間、占領軍に見つからずにバー・モウを隠し続けることになる。(バー・モウ受け入れのいきさつについては、皇統維持の件で偶然同じタイミングで今成拓三氏を訪れることになった中野学校メンバーとの間では話が異なる点があるが、その違いについては『昭和史の天皇 8』 (読売新聞編、読売新聞社、1969年10月)に詳しい。

 

 バー・モウは日本海を渡って大陸に抜け出し、蒋介石あるいはスターリンを頼っていくとも言っていたようであるが、昭和21年(1946年)1月8日、ついにシンガポールのマウントバッテン司令部から依頼を受けたGHQから、吉田茂外相秘書官をしていた北沢直吉氏に出頭命令が下り、その指示で翌1月9日、英代表部へ出頭する。この北沢召喚が、バー・モウ隠匿問題についての追及での北沢召喚は、バー・モウをGHQ,英代表部への出頭自首を決意させ、昭和21年(1946年)1月16日、今成拓三氏と井口良平氏(今成家に出入りしていた大工)とともにバーモウは石打駅から上京、1月18日に英代表部に自首する。

 

 しかしながら、バー・モウが英代表部に出頭した後、「日本には強力な反連合軍組織があり、そのメンバーは青年将校、革新官僚、そして一般の青年層を加えて秘密組織を作り、その本拠は佐渡島にある」と、バー・モウが大芝居をうったために、大捜査が開始された。すぐにビルマへ送還されて絞首刑になることを避け、イギリスが弾力的な政策をとらざるを得ないような情勢の変化まで時間稼ぎをしたいというバー・モウの狙いとも見られているが、このこともあって、北村直吉氏や今成拓三氏をはじめとするバー・モウの日本側の主要関係者は1946年8月2日に一斉釈放となるまで、巣鴨の収容所に収監され、バー・モウは1946年7月、巣鴨の拘置所より無罪釈放され、翌8月ビルマに帰国し政界に復帰した。

 

    主要参考文献

      『昭和史の天皇 8』

            (読売新聞編、読売新聞社、1969年10月)