歴史人物編ービルマ(ミャンマー)

                        バー・モウ

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「メコン圏と日本との繋がりを辿る」コーナー

 

 第2回(2000年2月掲載)

 

元ビルマ国家元首バー・モウと新潟県南魚沼郡

 

 

      バー・モウ 1893年〜1977年

  ビルマ民族運動の先駆的指導者で、第2次世界大戦当時、国家元首(国家代表)の地位にあったバー・モウは、日本とも大変関わりの深い人物である。第3次英緬戦争が終結し、1886年ビルマ人王朝は滅亡。英帝国支配下のインド領の一部に組み入れられたが、その7年後の1893年にバーモウはマウビンで誕生する。

  ラングーン大学、カルカッタ大学卒業後、英ケンブリッジ大学、仏ボルドー大学に留学し、弁護士の資格と、ビルマ人としては最初の哲学博士号を得るが、この間ビルマでは、仏教青年会(YBCA)に始まり、1920年結成された仏教徒団体総評議会(GCBA)の下で、ウンタヌース(民族の志士)たちが政治運動を呼び起こしていた。こうした革命への胎動が見られる時にバー・モウは英国から帰国。帰国後は弁護士となり、1930年に起こったサヤ・サーン率いる英国の弾圧策に抗議する農民反乱の被告人の弁護を無償で引き受けるなど、反英独立運動の闘士として活躍した。

  1936年には、シンエタ(貧民)党を結成。1937年の新憲法下では、最初のビルマ人首相に就任した。同内閣は、1939年瓦解するが、第2次世界大戦が始まった同年末には、シンエタ党、ドバマ(タキン)党、全ビルマ学生機構の3つの大衆組織が連合し、自由ブロックを結成(総裁バー・モウ、書記長アウン・サン)。その後自由ブロックの指導者への弾圧が強まり、1940年8月バー・モウは逮捕投獄される。しかし翌年4月脱獄を果たし、日本軍政下で行政府長官となり、1943年には、ビルマの独立宣言と共に、国家代表(元首)に就任した。しかし、1944年末には、戦時下の反植民地統一戦線が瓦解し、タキン党が英国側に寝返り、日本軍のラングーン撤退となっていく。

  1945年8月、バー・モウは、一旦日本に亡命し、新潟県の寒村で潜伏生活をしていたが、結局1945年12月には英占領軍に出頭し巣鴨拘置所に収容されることになる。しかし翌1946年8月、英国により特赦され帰国した。戦時一時政界に復帰するが、軍事政権下では拘禁され、釈放後、1977年、ラングーンの自宅で84歳の波乱の生涯を閉じている。

  バー・モウについては、1968年に英文でエール大学プレスから出版された自著『ビルマ独立運動回想録1939−1945』があり、『ビルマの夜明け バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』として太陽出版から邦訳(訳者・横堀洋一氏)が発行されている(初版1973年、新版1995年)。ビルマの独立運動や、第2次世界大戦時の歴史的な事件に当事者として関わってきたバー・モウ氏の自著だけに貴重な資料である。