1911年10月30日
清朝末期、中国における反清革命運動は、度重なる蜂起の失敗もあったが、1911年(辛亥年)10月10日、長江中流の湖北・武昌に駐屯していた清朝最新鋭部隊、新建陸軍(新軍)の将兵が反乱を起こし、当地の官僚を擁立して、湖北軍政府を樹立。この武昌決起の後、革命派による闘争が各地に次々に波及していき、各省に革命派による独立政府が作られていった。翌1912年に各省の代表を集めて、上海において中華民国臨時政府が成立し、亡命先のアメリカから帰国した革命派の指導者・孫文(1866年〜1925年)が初代の臨時大総統に選出される。清政府と中華民国臨時政府との交渉結果、袁世凱が中華民国の初代大総統に就任するとともに、1912年2月清朝・宣統帝溥儀が正式に退位し清朝が滅亡することになる。
武昌決起の後、革命気運の高かった雲南でも、中国同盟会雲南支部(1906年初成立)のメンバーをはじめとする革命派が積極的に呼応し、唐継堯、劉存厚、蔡鍔、沈汪度などが、秘密裏に武装蜂起を計画し、1911年10月16日、10月19日、10月22日、10月25日、10月28日と、昆明で5回の秘密会談を行い、計画を進めた。最後の第5時秘密会談は、午後7時から翌日の午前3時まで昆明・洪化橋の唐継堯の家で行なわれ、蜂起に立ち上がる兵力部署や攻撃計画などが決定されるとともに、最終的に決起日時を宣統3年9月初10日(1911年10月31日)午前3時とし、蔡鍔(1882年〜1916年)を起義軍臨時総司令に、李根源(1879年〜1965年)を副司令に推すことを決定した。
第2回秘密会議から加わり起義軍臨時総司令に推された蔡鍔は、日本士官学校第3期卒業生で、1911年、雲南新軍第19鎮(師)37協(旅)統領(旅長)に任じられていた。当時、雲南新軍第19鎮は、37協と38協の2つの協(旅)からなり、37協本部と所轄の73,74の2つの標は省城昆明の防備を担当していた。
もともと蔡鍔と李根源が別々に軍を率い同時に蜂起を行う事になっていたが、しかしながら、蜂起の準備に武器を運搬中、軍の当直隊長の追及にあったことから、1911年10月30日(農暦9月初9日)夜8時過ぎ予定より早まって戦闘が開始されることになった。起義軍は円通山、造幣所、兵工場を占領し、戦闘は2日目まで続き、翌日午前、講武堂の教官・学生の協力も得て、五華山、軍機局、総督署を攻め、昆明全土を占領、10月31日正午には戦闘が終了し起義が成功したことが宣告された。清朝の体制側の主たる人物については、第19鎮統制の鐘鱗同は起義軍に殺された。雲貴総督の李経羲は一旦捕らえられたが蔡鍔が解き放した。総参議の靳雲鵬は車夫に変装し逃げ切った。雲南最西部の騰越では昆明に先立ち蜂起に立ち上がっていたが、昆明での蜂起後、雲南南部でも蜂起が起こり、雲南全土が革命勢力の下に服していった。
こうして当初予定より武装決起が数日早まり、決起が始まった日が農歴辛亥年9月初9日”重陽節”にあたり、このため重九(chongjiu)起義と称されることになった。
1911年11月1日、昆明・五華山で”大中華国雲南軍都督府”が樹立され、蔡鍔が雲南軍都督に推挙された。軍都督府には、参議院、軍政部、参謀部、軍務武の機構が設けられ、李根源が参議院院長と軍政部総長を兼務して就任した。こうして1659年以来の清王朝の雲南に対する252年に及ぶ封建専制統治が終了する事となった。
参考文献:
「雲南文化芸術詞典」(雲南人民出版社)
「雲南百年故事」(雲南人民出版社)
「唐継堯伝奇」(王丕震 著、雲南人民出版社)