歴史編ーベトナム編

                         ディエンビエンフーの戦い

 

 

 

 

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 「ディエン・ビエン・

     フーの戦い」

 

 

 フランス外人部隊の

  ディエンビエンフーの

  各陣地への割り当て:

 

 ・第3外人歩兵連隊の

  1個大隊

   ⇒最南端の

   イザベル陣地

 

 ・第13准旅団第1大隊

  ⇒北東端の

    ベアトリス陣地

 

 ・第13准旅団第2大隊

  ⇒中央部の

   クロディーヌ陣地

 

 ・第2外人歩兵連隊の

  1個大隊

  ⇒中央部北西の

    ユゲット陣地

 

 ・第3外人歩兵連隊の

  大隊

  ⇒西端の

    ラレーヌ陣地

 

 ・第1外人落下傘大隊

  ⇒機動力を与えられ

    総予備となる

 

 

 ●ド・カストリ

クリスティアン・マリ・フェルディナン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ

 

 1902年8月11日パリで生まれる。志願兵のままで軍隊に残り、下士官のときサン・シール陸軍士官学校に入学。このため他の将校より遅れて昇進し、大尉になったのが38歳のとき。

 

 ド・ラ・クロワ・ド・カストリ家は、先祖にルイ15世の元帥と海軍大臣だった人物があり、家系のなかに陸軍元帥1人、海軍大将1人、副総督が4人、聖霊騎士団の騎士が5人、陸軍中将が8人、という名門の武門の家系

 

 クリスティアン・ド・カストリの馬術の技術は超一流で、第2胸甲騎兵連隊中尉のとき、1933年度高障害世界選手権を獲得、2年後には飛越の世界選手権をも得た

 

 第2次世界大戦後、のちのインドシナ派遣軍総司令官になったナヴァール将軍の下で、カールスルーエでの大演習に参加。この時のド・カストリの大胆な作戦展開は、ナヴァール将軍の激賞するところとなる。

 

 1953年11月20日、ディエンビエンフーの占領が完成するが、その司令官になり手がなかった。1953年11月30日、タイピンの飛行場で、ナヴァールはド・カストリにディエンビエンフー司令官への昇進を告げる。12月7日零時、ド・カストリ大佐がディエンビエンフーの司令官に公式に任命された

 

 しかしヴェトミン軍の攻撃の前に、途中から指揮権を放棄し、ラングレ中佐とビジャール少佐の2人の将校が戦闘の指揮を行っている。それでも、4月15日、ド・カストリは准将に昇進する。(ラングレが大佐に、ビジャールが中佐に昇進している)

 

   

   

        1954年3月12日〜5月8日

 

 第1次インドシナ戦争末期の1954年3月から5月にかけて戦われた同戦争中、最大で最後の戦い。インドシナ戦争での劣勢に悩むフランスは、ベトナム軍とラオスの革命勢力との連携を遮断するとともに、ベトナム人民軍主力をおびき出して殲滅する事を目的として、1953年11月、タイ族などの少数民族が居住するラオス国境に近いベトナム西北部の盆地ディエンビエンフーに、要塞の建設を開始し、1954年3月には、40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵力1万6200名から成る大要塞を完成させる。この地は、南北に細長い盆地であり、最北端のガブリエル陣地と最南端イザベル陣地とでは、10キロも隔たっていたが、東西は狭く6キロ程度で、要塞はそれぞれ女性の名が冠せられたいくつもの陣地から成り立っていた。

 

 1953年11月20日、ハノイを発進したフランス軍落下傘部隊が、小規模のヴェトミン兵が守備するディエンビエンフーに降下し、すぐにフランス軍の手中に陥ち、その後11月下旬には、まず第1外人落下傘連隊がこの盆地に送り込まれ、補修された旧日本軍のディエンビエンフーの飛行場に、後続部隊を乗せた輸送機が連日のように飛来し、作戦開始数週間のうちに、ディエンビエンフーのフランス軍総兵力は、1万名を超し、最終的に17個歩兵大隊中、7個大隊がフランス外人部隊となった。

 

 これに対し、ヴェトミンの兵力は、ディエンビエンフーに集中されていき、ヴェトミン軍の第304、第308、第312、第316の4個師団が投入され、盆地周辺の丘陵には密かに陣地が構築されていった。1953年12月末、偵察中の第1外人落下傘大隊が、初めてヴェトミンの待ち伏せ攻撃を受け、12月28日には、北部峡谷を視察中のド・カストリ司令官の参謀長ギュット中佐が、砲火を集中されて戦死する。ヴェトミン軍による包囲網は急速にフランス軍陣地に迫り、1954年3月12日、ボ・グエン・ザップ将軍率いるヴェトミン軍は主滑走路への砲撃を始めディエンビエンフー攻略を開始する。フランス軍の予想を超えた盆地周囲の山上からの砲撃のもと塹壕で接近を図り、複合陣地を順次攻め落としていった。

 

 ディエンビエンフー要塞の東北方面にはベアトリス陣地があり、この陣地を指揮していたのが、フランス外人部隊第13准旅団長のゴーシェ中佐で、当初滑走路に砲撃が加えられていたが、3月13日17時過ぎには、ベトナム軍の砲撃がベアトリス陣地に集中され始め、ヴェトミン軍は保有していないと思われた105ミリ榴弾砲による砲撃が始まり(ヴェトミン軍が、1949年に中共軍が中国大陸を制圧すると、ヴェトミンへの軍事援助の質が改善し、ソ連製の対空機関砲や、国民政府軍から捕獲したアメリカ製の105ミリ砲もヴェトミン軍は保有していた)、ゴーシェ中佐は戦死。夜零時過ぎにベアトリス陣地は陥落した。このゴーシェ中佐は、1945年の日本軍による仏印処理の際、第5外人歩兵連隊の第1大隊を率い、雲南へ脱出(当時は大尉)し改編された部隊を率いて1946年インドシナに戻った人物。

 

 1954年3月15日の早朝から、第1外人落下傘大隊の2個中隊、第5ヴェトナム人落下傘大隊によるフランス軍の反撃も開始されたが、失われた拠点の奪回はできず、その後も第3外人歩兵連隊の1個連隊が守備するラレーヌ陣地(アンヌ=マリの陣地の一角)が大激戦の末、陥落(3月25日)。他の陣地を守備するフランス軍の中のタイ族部隊やヴェトナム兵部隊、またアルジェリア兵やモロッコ兵などの植民地兵や現地兵たちの戦意は低く、実際にフランス軍の戦力として残ったのは、外人部隊とフランス軍落下傘部隊になり、その外人部隊兵の多くは、前の大戦でのフランスの敵国だったドイツの軍人たちだったといわれる。

 

 1954年4月に入ると、滑走路の一部はヴェトミンが占領し、フランスがおさえていたハノイから送られる増援部隊と物資の補給は空からの落下傘によるしか手段がなくなってしまう。4月9日から10日の夜半、第2外人落下傘大隊の700名強が、リーゼンフェルト少佐に率いられ、クロディーヌ陣地に降下する。続いて第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの志願者が落下傘降下の経験がないのに数百名夜間に初降下する。雨期のため水浸しの塹壕陣地での悲惨な戦いが続けれらたが、ついに1954年5月7日のヴェトミン軍による総攻撃により、最南端のイザベル陣地以外の全要塞が陥落。5月8日の午前中、ド・カストリ将軍の司令部にヴェトミン兵が突入し、ド・カストリ以下1万人近くが捕虜となって戦いは終結し、4月26日に始まったジュネーブ会議の行方に大きな影響を与えた。この戦いではフランス軍の損害は、戦死行方不明が2700名、負傷4400名であり、その3分の1以上が外人部隊で、一方、ヴェトミン軍の損傷は、戦死7900名、負傷1万5000名に上ったといわれる。

 

   *引用参考文献

      『フランス外人部隊』(柘植久慶 著)

      『ベトナムの事典』(同朋舎、1999年)