歴史編ー雲南

                          マーガリー事件

 

 

   

   

            1875年2月

 

 アヘン戦争(1840〜42年)後、中国への侵略を進めようとする英国は、1852年、下ビルマ一帯を英領に編入し、インド、ビルマ北部から雲南方面、さらに中国西南部を経て長江下流地域に通じる通商ルートの開拓を目指していた。この地域の探険・調査に乗り出そうと、1868年、英国はビルマのバモー(中国語表記では”八莫”)から雲南の騰越を経て大理に至る第一次探検隊を派遣しようとしたが、騰越には到達したものの、杜文秀起義軍のため、この目的を遂げることができなかった。

 

 清同治13年(1874年)、英国は、ビルマから雲南へのルート探索調査を目的に陸軍将校・ブラウン(中国語表記では柏郎)率いる約200名に及ぶ第2次探検隊を組織。英国駐華公使はこの侵略行動に協力するため、英国駐華領事館員マーガリー(A.R.Margary、中国語表記は馬嘉理あるいは馬加里)を通訳に任命し、ブラウン大佐一行を迎えるため、上海から長江を経由して雲南に入り、大理、騰越へと向かった。

 

 マーガリーは騰越に到達した時、騰越城郊外で地図測量と写真撮影を行った為、現地の住民や官憲の反発を招きマーガリーを取り囲み写真を提出するよう要求する騒ぎが起り、騰越から、南甸(現在の梁河)、干崖(現在の盈江)、蛮允(現在の盈江県芒允)などの地を経て、ビルマに追い払われた。ビルマに出国しバモーに到達したマーガリーは、バモーに到着していたブラウン大佐と会い、雲南への侵入について画策する。

 

 1875年初、マーガリーはブラウン大佐率いる武装部隊を先導して越境し雲南に侵入。前面に数百名の中国武装人員が阻もうとしていると聞き及び、ブラウン大佐は隊を停め、マーガリーが数人の武装人員を引き連れ、現地の軍民の動向を探りに更に中国国境内30余キロにある蛮允に入った。ブラウン大佐率いる大隊のところまで戻ろうとした時、蛮允郊外の戸宋河畔で、ジンポー族を主体とする現地住民たちと衝突。中国側の住民が先に射殺され、中国側住民の怒りが爆発し、マーガリーとその随員5人を殺害するに至った。

 

 一方、ブラウン大佐率いる武装部隊は、2月21日、蛮允街の南郊15キロの班西山下の雪列で宿営していたが、辺境防備の任にあった騰越鎮左営都司・李珍国(1827年〜1887年、騰冲洞山人)の下、事前に地元各族人民を動員して抗英戦闘準備をしており、こうした地元の自衛武装団に前進を阻まれ、双方の間で戦闘が起った。先進の武器を擁した英国の武装部隊は、騰越の地方自衛武装団の攻撃の前に、ビルマに逃げ帰ることになった。

 

 中国主権を無視した英国の動きであったが、中国侵略を狙う英国は、マーガリーが殺害されたこの事件の真相究明を中国側に迫った。英国側の恫喝の前に慌てふためいた清政府は、事件関係者を処分することで解決を図ろうとした。抗英を積極主張していた騰越鎮総兵・蒋宗漢と同知・呉啓亮を罷免、李珍国は罷免の上、逮捕入獄され、他にマーガリー殺害の関係者として現地住民23人が捕えられ斬首となった。英国はこの事件を口実に1876年9月、山東省烟台で「中英烟台条約」を結び、賠償金以外に種々の中国進出の権利を獲得し中国侵略を進めていった。尚、李珍国は烟台条約締結後、釈放されたが、反英闘争を継続し1887年に病死した。

 

 

   *引用参考文献

     『世界民族問題事典』(平凡社、1995年)

      『騰越史話』(雲南人民出版社、2002年)