紀元前214年(秦始皇33年)
戦国7雄の一国であった秦の王・政は、紀元前230年に韓を滅ぼすことに始まり、僅か9年で戦国7雄と称された他6カ国(韓・趙・魏・楚・燕・斉)を征服。紀元前221年に中国を統一を完成し、ここに始皇帝と号することになる。天下統一の大業完成後、数々の統一政策を進める一方で、始皇帝は、越族が居住する今の広東省・広西省等の南方(嶺南地方)への領土拡張をめざす。当時、越人が東南アジアから中国本土にかけての海洋交易で潤っており、秦にも南方や西方の産物が持ち込まれており、前漢時代に記された「淮南子」や「史記」李斯列伝によれば、秦の始皇帝は、越地方の犀角や象牙と、翡翠などの宝石の南方の産物を好んでいたといわれている。
こうして秦の始皇帝は、嶺南地方に大軍を派遣し、苦戦の末(秦軍が嶺南に軍を進めた年代については諸説あり)、紀元前214年(秦始皇33年)、嶺南地方を平定。嶺南地区は秦朝中央集権制国家の版図に組み入れられ、嶺南地区に南海郡、桂林郡、象郡の3郡を新設した。始皇帝が皇帝となって最初に実施した政策は、丞相・李斯の主張を採用し、封建制を廃止して郡県制を全国的に施行することであった。中国統一時、全国は36郡に分治されたが、その後、嶺南三郡をはじめ更に新領土が加わったことや、大郡を分けることによって郡の数は48郡まで増加している。
この秦朝が新設した嶺南三郡の地理的範囲は、南海郡が現在の広東省、桂林郡が現在の広西壮族自治区と、異論なくみられているが、象郡の地理的範囲については議論が分かれている。象郡の地理的範囲については、現在の広西壮族自治区内とし、その郡庁所在地は臨塵(現在の広西南寧西)とする説や、現在の広西壮族自治区東南部と貴州省東部とする説もあるが、一般には現在のベトナム北部と広西壮族自治区の一部の領域とみられている。
秦朝の郡県制では、それぞれの郡には、長官として守、軍の指揮官として尉、監察官としての監(御史)などの官吏が中央から派遣され、政務、軍事、監察と分掌することとなっていた。しかし嶺南三郡については、南海郡に尉を任命しただけで南海郡に郡最高長官郡守を置かず、南海尉に軍、政、財の権力が集中することとなった。またその他2郡については尉も任命されなかった。これは嶺南三郡は、新たに置いた郡で官制が整わず、また中央からは遠く南に離れた地にあり中央王朝との連絡も非常に困難で、そのうえ現地の反抗意識も根強く、南海尉にある程度の独立した専断的な権力を任せることが必要であったとみられている。この初代南海尉に任命されたのが、南下する秦軍を率いて嶺南を平定した任囂。
秦の大軍はそのまま嶺南に残り、罪人や奴隷たちも嶺南に送り込まれ、多くの漢人が越人と雑居することになり、漢越両族の融合が進んだ。中原から嶺南に至る交通路の整備なども進められたが、秦朝の嶺南支配も僅か数年で瓦解することになる。秦朝紀元前210年始皇帝が亡くなると、その翌年には陳勝呉広が率いる農民反乱が起こるなど、全国的に混乱し、最終的に始皇帝死亡後わずか4年後の紀元前206年、秦朝は滅亡することになる。
こうした秦末の混乱期に、嶺南を平定後そのまま嶺南に残り南海郡竜川県の県令に任じられていた趙佗が、病気で死期が近づいていた南海郡郡尉・任囂から南海郡の郡尉の職務を任される。任囂が亡くなると、趙佗は道を遮断し、兵を集めて各関所を守り、同時に秦朝が任じた官吏たちを殺害し、自分の一味の者に置き換えるなど力を固めた。秦朝が滅亡すると、趙佗は兵を挙げ、紀元前204年、桂林郡と象郡を攻め、領地を併合し、自ら南越武王と称し、主要な民族が越族である「南越国」を打ち立てる。番禺(現在の広州)を都とした。
*主な参考文献
『広州簡史』(広東人民出版社、1996年3月)
『嶺南古史』(広東人民出版社、1999年9月)