寛永3年(1626年)2月に山田長政が奉納
故郷の駿府を後にして、長崎から台湾を経てアユタヤへ渡った山田長政は、やがてアユタヤ日本人町の頭領となり、アユタヤ王朝からも重く用いられていくことになるが、その絶頂期ともいうべき寛永3年(1626年)2月に、シャムから駿府の浅間神社に、一枚の戦艦図絵馬を奉納している。自らが乗っている戦
艦図絵馬を奉納した。

山田長政奉納の戦艦図絵馬
(静岡浅間神社蔵)
<書籍「史実山田長政」
の裏表紙より>
上左の画像のように、絵馬には、7行にわたって以下の文字が書かれている。
奉挂御立願 諸願成就 令満之所 当国主
今天竺暹邏国住居
寛永三丙寅歳 二月吉日 山田仁左衛門尉長政
文字の下には船の絵が描かれているが、戦艦の絵が描かれている。艦首には巨砲が2門あり、片側の舷側にも8門の大砲がある。
この戦艦図は、寛永3年(1626年)から天明8年(1788年)までの間は、浅間神社に秘蔵されていた。18世紀前半の享保期には、8代将軍吉宗が、浅間神社に所蔵されているという長政奉納の戦艦図絵馬を見たいと言い出し、江戸城に運ばせ江戸城でこれをみるということもあった。ところが、天明8年(1788年)11月5日、駿河城下片羽町から火が出て、その火が浅間神社に飛火し、本社・拝殿以下焼けてしまい、それとともに長政奉納の戦艦図絵馬も焼失してしまう。
ところが、焼失以前に、榊原長俊という駿府勤番をつとめたことのある旗本が、江戸から駿府在勤中の宝暦4年(1754年)、浅間神社の宮司に乞うて、戦艦図絵馬を模写していた。それで、榊原長俊が模写した戦艦図絵馬をもう一度模写して浅間神社の宝物とすることとなった。榊原長俊が最初に模写した戦艦図絵馬については、大正時代に入りひょんなことから世に出ることになる。大正10年(1921年)に、郷土史家の後藤粛堂という人が、地元の「静岡民友新聞」に「山田長政とその時代」という記事を連載したところ、静岡県周智郡森町の医師中沢親之氏が、自分の家に山田長政の戦艦図があると後藤氏に連絡をとり、鑑定の結果、この図が榊原長俊が最初に模写したものであることが判明する。この図は、大正12年(1923年)12月、中沢家から浅間神社に奉納され、戦艦図の写しの2枚が浅間神社に所蔵されることになった。
参考文献:『史伝 山田長政』(小和田哲男 著、学研M文庫)
『史実 山田長政』(江崎 惇 著、新人物往来社)