通道会議 1934年12月11日
黎平会議 1934年12月18日
蒋介石が展開する数次にわたる大規模な包囲作戦の前に、追いつめられた中国紅軍主力部隊・第1方面軍8万強が、項英と陳毅率いる一部の残留部隊を残して、1934年10月、当時中国共産党中央の出先機関が置かれていた江西省瑞金からの退却を始めた。こうして開始された長征は、1936年10月先遣の彭徳懐軍が、陝西省にあったソビエト地区の呉起鎮に入城したことをもって終わりとされるが、この江西省瑞金から陝西省延安までの12,000キロという壮絶な退却は、当初から陝西省延安という目的地が目指されていたわけではなかった。
当初は具体的な計画はなかったが、北西350キロの湖南省西部にいた賀竜らの第2軍団によるソビエト根拠地と合流することを望んでいた。紅軍の移動に気づいた蒋介石が、湘江で紅軍封じ込め作戦を取る中、1934年11月末紅軍は湘江の渡河を開始。紅軍は12月初までに主力の渡河を完了するも、湘江の戦闘は、全軍の半数以上を失う大損害を受けた惨敗であった。
湘江での惨敗を機に、コミンテルンのドイツ人顧問・オットーブラウンと博古を中心とする紅軍指導部への不信が、紅軍指揮官たちの間で高まる中、1934年12月11日(会議開催日については異論もあり)、貴州省境に近い湖南省西南の町・通道で、主だった軍事・政治の指導者が急遽召集され、非公式な会議が開かれた。会議が開かれた場所は、周恩来の記憶では、たまたま結婚式があった町はずれの農家の一翼で開かれたとされるが、この会議の大きな問題は、紅軍が、すでに合意されていたコースを取って北へ向かい、賀竜に合流するかどうかということにあった。
毛沢東は軍事委員会から2年以上はずされていたが、この会議には招かれ、紅軍は賀竜に合流する計画を放棄し、湖南省北西へ向かうコースを変更して、西方へ移動したのち北方に転じ、貴州に向かい、遵義にソビエト地区を建設する方針を提案した。賀竜のソビエトと合流しようとしていると判断した蒋介石が、その進路を阻止しようと装備のすぐれた師団をいくつも配置を終えていた。
通道会議での議論はほとんどなく、朱徳ならびに軍の司令官は、毛沢東の提案に直ちに賛意を表明し、他の出席者も賛成した。紅軍は、1934年12月12日の朝までに、貴州省の南東、湖南省との省境を越えてすぐのところにある、かなり栄えた県の中心地・黎平に向けて行軍を開始した。1934年12月15日、紅軍は戦闘らしい戦闘もなくこの黎平の町を占領。1934年12月18日夕方、政治局の拡大会議が、周恩来の司会で、黎平の中心部の徐という商人の店舗と家屋に設営された紅軍指導部で開かれた。毛沢東は、通道で主張したように、紅軍が北進して賀竜に合流する計画を破棄するよう正式に提案し、それに代えて、西方に向かい貴州第2の町・遵義へ入り、そこで正式な会議を開くとともに、新しいソビエト地区を建設することを提案した。1934年12月19日朝、毛沢東の提案を受け、黎平から320キロ弱西方にある遵義に向かって、紅軍の行動が開始された。
1934年12月31日、紅軍は、貴州省最大の河、烏江まで50km足らずの商業の町・猴場で、再度政治局の会議が開催。3個師団の敵が接近中という諜報員の情報に対し、オットー・ブラウンは紅軍は踏みとどまって迎撃すべきだと主張するが、毛沢東は全速力で遵義へ向かうべきと反駁した。毛沢東の主張の通り、紅軍は翌1935年1月3日から4日にかけて、烏江を渡り、1月7日には貴州軍閥・王家烈の配下にあった地方軍閥・柏輝章の本営であった遵義を占領する。そして紅軍が事実上、毛沢東の指揮下に置かれることになった歴史的意義のある遵義会議が、1935年1月15日から3日間に渡って開かれた。しかしながら、通道会議・黎平会議で毛沢東が提案した遵義にソビエト地区を建設するという方針については、当初の見込みと異なり、軍事的・経済的・地理的観点から、遵義地区に根拠を据える計画は困難とわかり、紅軍は1935年1月19日、遵義を出発し、更なる長征を続けることとなった。
参考図書:
『長征ー語られざる真実』
(ハリソン・E・ソールズベリー著、岡本隆三監訳
時事通信社、1988年)
『長征 中国 瑞金〜延安12,000キロ』
(日本放送出版協会、1986年、竹内実・日本語版監修)