現代史・ベトナム戦争編

                           ベトナム和平パリ協定

 

, 関連テーマ・ワード

パリ国際会議センター

 《和平協定調印式の舞台》

 ベトナム和平パリ協定は、1973年1月27日、パリ市内凱旋門近くのクレベール通りにあるフランス外務省国際会議センターで、調印式が行われた。

 この石造りのビルは、もとマジェスチックホテルであったが、第2次世界大戦中は、ナチ・ドイツ占領軍の司令部として使われ、パリ解放後は米軍司令部やユネスコなどに使われてきた。

 もともと1836年スペインから亡命中のイザベル2世王妃の宮殿用に建てられたものだが、戦前の旅行者には「一流ホテル」として知られていた。

 ここで1968年5月に北ベトナム、米国のベトナム和平に関するパリ会談が始まり、1969年1月からの拡大4者会談に引き継がれ、4年8ヶ月間、計202回にわたる平和への話し合いがつづいた。

パリ国際会議センターの大広間

  《和平協定調印式場》

 ベトナム和平協定の調印式場は、パリ国際会議センターの大広間で、この場所はこの建物がホテル時代舞踏会場だった広間。

 3つのシャンデリアの下に、直径8mの大円テーブルが置かれ、緑のラシャが敷きつめてある。

 大円テーブルには、入口に近いところに米国代表団が、クレベール通り沿いの窓側に南ベトナム代表団が、米国と相対して北ベトナム代表団、窓側から見て正面に南ベトナム臨時革命政府代表団がそれぞれ坐った。

 各代表団は5人ずつ。各代表団のうしろに20人ずつの随員が2列に並ぶ。

 国際監視委構成国となるインドネシア、カナダ、ポーランド、ハンガリーの各大使と、仏外務省儀典長、国際会議センター責任者が立ち会った。

 インドネシア、ハンガリー、フランスは、米国代表団と南ベトナム臨時革命政府代表団の間に、ポーランド、カナダ、フランスは、南ベトナム政府代表団と北ベトナム政府代表団の間の位置で調印式に立ち会う。

 

 <1973年1月、朝日新聞>

 

 

   

                  1973年1月27日、パリ

 

  1973年1月27日午前11時(日本時間午後7時)、「ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定」が、パリ国際会議センターにおいて、ベトナム民主共和国、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国、ベトナム共和国の4者によって調印され、パリ和平協定が発効した。

 

  各国代表の調印者は、

    ウィリアム・P・ロジャー国務長官(アメリカ合衆国政府代表)、

    チャン・バン・ラム外相(ベトナム共和国政府代表)、

    グエン・ズイ・チン外相(ベトナム民主共和国政府代表)、

    グエン・チ・ビン外相(南ベトナム共和国臨時革命政府代表)。

 

  同協定によりグリニッジ標準時1973年1月28日午前零時(ベトナム時間は1月28日午前8時)に停戦が発効した。

 

 ベトナム和平パリ協定は、本文9章23条からなる「ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定」及び同時に調印された議定書を含む諸規定の総称。

 

 

  「ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定」の

 主な内容は以下の通り (本文9章23条の全内容はこちらを参照

 

  ■1954年ジュネーブ協定を尊重 

  ■1973年1月28日から無期停戦

  ■停戦後60日以内に南ベトナムの全外国軍事要員を撤退、軍事

    基地を撤収

  ■南ベトナム政府軍および解放戦線軍は現状を維持し増強を禁止

  ■停戦後60日以内に全捕虜釈放

  ■停戦後90日以内に南ベトナム内の民間ベトナム人抑留者釈放に

    努力

  ■南ベトナム政府と解放戦線の若い、報復の禁止

  ■民主的選挙を組織する「民族和解一致全国評議会」設置のための

    協議。90日以内に合意文書調印に努力

  ■4者合同委員会の代表任命と、国際管理・監視委員会の設置

  ■協定調印後30日以内に国際会議召集

  ■カンボジア、ラオスにおける一切の軍事活動を終結

  ■米国と北ベトナムの新たな互恵関係

 

 

 同時に以下の4つの議定書にも調印が行なわれた。

  ◆北ベトナムの領海、港湾、水路にある機雷の除去、機能停止、破壊

   に関する議定書

  ◆南ベトナムの停戦と合同軍事委員会に関する議定書

  ◆国際停戦管理・監視委員会に関する議定書

  ◆軍人捕虜および民間抑留者の釈放に関する議定書

 

 

 テト攻勢後、ジョンソン米国大統領は、ホーチミンに対し、両国代表による直接会談を呼びかけ、民主共和国もこれを応諾。1968年5月、パリで第1回会議が始まった。しかし、両者は相互の撤退を要求して対立し、会議は長期化した。アメリカは、1968年10月、北爆の全面停止と、アメリカ、民主共和国、ベトナム共和国、解放戦線の4者会談を提案。1969年1月から、新提案に基づく4者会談が開始。しかし、そこでも停戦協定に限定しようとするアメリカと、南ベトナム連合政府の樹立と平和的南北統一を主張する解放戦線・民主共和国の主張は大きく隔たっていた。解放戦線は1969年6月8日に、政治主体を形成してティエウ政権を相対化しようとして臨時革命政府を樹立する。

 

 パリでは停滞する公式会談の陰で、1969年8月から、レ・ドゥック・トーとニクソンの特別補佐官キッシンジャーとの間で、パリで秘密会談が始まり、

秘密会談ではティエウ=キ政権の位置付けをめぐって対立が続き、その間にも互いに激しい戦闘・爆撃が続けられたが、1972年7月以降、和平交渉の当面の目標がアメリカ軍の撤退に絞られたため、和平合意へ大きく前進することとなった。

 

 1973年1月18日拡大4者会談が第174回の最終回となり(拡大4者会談以前は、28回の2者パリ会談が開かれた)、1973年1月23日には、キッシンジャーとレ・ドゥック・トー間で和平協定案に仮調印するに至った(仮調印は、1月23日午後零時半)。仮調印の事実はすぐに明らかにはならず、ニクソンアメリカ大統領が、1月23日午後10時(日本時間1月24日正午)からテレビを通じ、全米にベトナムについて和平合意が成立したことを報告。南ベトナムや北ベトナムでも和平合意成立について発表された。和平協定の全文は、翌1月24日午前10時(日本時間1月25日午前零時)にホワイトハウスが発表した。

   パリ協定は、アメリカとベトナム民主共和国の直接交戦の停止を規定したが、南ベトナムにおけるティエウ=キ政権と臨時政府との並立抗争はそのままにされた。アメリカはその後急ピッチに撤兵を進め、1973年3月29日米軍のベトナム撤退完了は実現したが、「民族和解一致全国評議会」の設置に至らず、戦闘が継続し、1975年4月30日サイゴン陥落となる。

 

 尚、ラオスでは、このパリ和平協定をうけて、1973年2月、ラオス王国政府とパテト・ラオとの間で「ラオスにおける平和回復と民族和合の達成に関する協定」(ヴィェンチャン協定)が調印されている。

 

   *主な引用参考文献

      『東南アジア史@大陸部』

       (石井米雄・桜井由躬雄 編、1999年12月、山川出版社)