歴史編ー雲南

                             雲南陸軍講武堂

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 ■雲南陸軍第19鎮

 

 清朝末期、日清戦争の敗戦後、清政府は新式陸軍を創る事を決定し、20世紀初、全国新式陸軍(”新軍”)を36の鎮(師団に相当)に編成する事を決定。辺境の雲南の新式陸軍については、2つの鎮を創ることが計画されたが、先ずは1908年、雲南新軍として一つの鎮が編成され、第19鎮の番号が割り当てられた。

 

 第19鎮の下部に第37協、第38協と、2つの協(旅団に相当)が設けられ、第19鎮が成立した際の、雲南軍トップたる統制(師長)及び第37協協統(旅長)、第38協協統(旅長)は下記の通り。

 

 第19鎮の設立当初:

  (1908年)

  ・第19鎮統制(師長)

      崔祥奎

   │

   │→第37協協統(旅長)

   │   王振畿

   │→第38協協統(旅長)

       譚振徳

 

 1909年初の第19鎮設立当初の兵員総計は、10,900人で、第19鎮の設立と同時に、全省巡防隊も営制に改められ62の営に改編され、第19鎮と巡防官兵の総数は、3万5千人に達した。

 

 翌1909年に、

 第19鎮統制(師長)は、

 鐘麟同が就任し、第38協

 協統(旅長)は、曲同豊が

 就任。

 昆明起義を率いた蔡鍔は、

 1911年、起義の前に雲貴

 総督に請われ昆明に来て、

 雲南新軍第19鎮の昆明を

 担当する第37協協統(旅

 長)に就任。

 武装蜂起の起義軍臨時総

 司令に推される。

      

 

 

 引用文献

  『民国勁旅 滇軍風雲』

    (雲南人民出版社)

 

 

 

 

                         

 

   雲南陸軍講武堂 (中華民国後に講武学校に改名) 

 

 

 清朝末期、日清戦争の敗戦後,清朝は軍事改革を進め、新式陸軍(”新軍”)の創立を決定するとともに、新軍のための軍人養成の必要から、全国各地に多くの陸軍講武堂が設立されたが、1909年9月に昆明の翠湖の西畔に開校した雲南陸軍講武堂は、中国近代史において目覚しい役割を果たした陸軍学校として異彩を放っている。李根源が校長として発展させた雲南陸軍講武堂は、清王朝地方当局統治者の期待に反し、同盟会や革命派の重要な活動基地となり、革命派の勢力が浸透した雲南新軍第19鎮が雲南辛亥起義を成功させる上で大いに貢献するとともに、朱徳や葉剣英などの中華人民共和国元帥をはじめ数多くの人材を輩出した。

 

 雲南陸軍講武堂の開設以前に、雲南では武備学堂(1899年)、新操学堂(1901年)、陸軍速成学堂(1906年)、陸軍小学堂(1906年)及び第19鎮随営学堂(1909年2月)が開設されていたが、これらの軍事学校は下級軍官を訓練するところであり、設備も劣り訓練人数も限りがあった。雲南陸軍講武堂も、最初は一旦、1907年9月に設立され、総辦(校長)は、雲南陸軍小学堂の総辦(校長)であった胡景伊が兼任し、教官も多くが陸軍小学堂教官が兼任したが、開校時86名の学生がわずか半年で半数以下になり、また学校設備や教学レベルも劣り、たった7ヶ月で業務中止となった。

 

 1年後、雲貴総督・錫良は、新軍軍官および巡防営の在職軍官を順番に訓練することを主に、中等学校以上の学生も募集して下級軍官を養成する軍事学校を設立。1909年9月28日(旧暦8月15日中秋節)に、再建された雲南陸軍講武堂が正式に開校となる。再建の際には、丁度、日本陸軍士官学校第6期中国留学生たちが卒業する頃で、雲南当局は、これらの帰国留学者たちを講武堂の幹部や教官に任命した。講武堂の幹部や教官の中では、孫中山率いる同盟会会員が多数を占めた。李根源、張開儒、沈汪度、李烈鈞、方声涛、趙康時、唐継堯、庾恩賜(後に庾恩暘に改名)、顧品珍、劉祖武、李鴻祥、李伯庚、羅佩金など、同盟会員であった。

 

 中でも雲南陸軍講武堂の歴史発展において、最も重要な役割を果たしたのが、雲南騰沖人の李根源(1879年〜1965年)だ。李根源は早くに日本に留学して同盟会に加入し、同盟会雲南支部機関刊行物『雲南』雑誌の創刊に力あった。1909年日本陸軍士官学校第6期卒業後、雲南に戻り、再建中であった雲南陸軍講武堂監督(教育長)兼歩兵科教官に任命され、後に1910年5月、総辦(校長)になった。こうして李根源が総辦(校長)に、沈汪度が監督(教育長)に、張開儒が提調(配置指揮者)と、講武堂のトップ3を全て同盟会員が担うことになった。

 

 『民主』『雲南』などの書物が教官や学生に広く秘密に回覧され、また李根源は、精神講和の機会を常に利用して学生に革命思想を吹き込んだ。

この学校の特色は、規模も比較的大きく、班の数や学生人数も比較的多かった。1911年10月辛亥革命爆発前に、雲南陸軍講武堂で軍事訓練と民主革命思想洗礼を受けた学生は約800人に及び、彼らは新軍第19鎮や巡防営に戻り、雲南辛亥起義の重要な骨幹と主要な軍事力となった。

 

 武昌決起に、雲南でも革命派が積極的に呼応し、雲南新軍第19鎮(師)37協(旅)統領(旅長)の蔡鍔を起義軍臨時総司令に、李根源を副司令として、1911年10月30日に昆明で武装蜂起(昆明辛亥重九起義)を敢行。革命派の武装蜂起は成功し、1911年11月1日、昆明・五華山で”大中華国雲南軍都督府”が樹立され、蔡鍔が雲南軍都督に推挙され、李根源は参議院院長と軍政部総長を兼務して就任した。こうして1659年以来の清王朝の雲南に対する252年に及ぶ封建専制統治が終了する事となった。この昆明起義では、講武堂教官の顧品珍も、学生を率いて南門外で激しく戦った。尚、蔡鍔の後に、独立性を持った雲南軍隊(滇軍)を率い雲南の軍政トップとなった唐継堯、龍雲、羅漢の3人も雲南陸軍講武堂と関係が深く、唐継堯は創設当初に教官を務め、龍雲と羅漢は第4期の卒業生であった。

 

 4,000人以上の卒業生の中には、南洋華僑青年や、朝鮮、ベトナム等の青年もおり、卒業生の中には、中国歴史上、突出した著名な革命軍人も輩出した。最も有名なのが、共に中華人民共和国元帥となった第3期特別班の朱徳(1886年〜1976年)と、第12期の葉剣英(1903年〜1986年)の二人だ。朱徳は、中共の最高軍事指導者として長く活躍し、1949年中華人民共和国副主席に就任し、1959年以降、全国人民代表大会常務委員長を務め、一方、葉剣英は中共きっての戦略家として知られ抗日戦争中は八路軍参謀長として活躍し、中華人民共和国成立後は国防委員会副主席等の要職を歴任、その後共産党副主席、国防相、全国人民代表大会常務委員長を務めた。この他にも、第4期の龍雲と羅漢、第17期の周保中(東北軍区副司令員、吉林省政府主席)、第18期の崔庸健(後の朝鮮民主主義人民共和国委員長)、第18期の曽澤生(中国人民解放軍中将)、第14期の王甲本などが、雲南陸軍講武堂の卒業生である。

 

  主要引用参考文献

     『民国勁旅 滇軍風雲』(雲南人民出版社、2004年5月)

     『滇中英才 −雲南民族歴史人物』(雲南教育出版社、2000年12月)