大東亜戦争

                              阿波丸事件

 

 

 

阿波丸の特徴

 

 船名:阿波丸

 総トン数:11,249トン

 全長:508.4フィート

 全幅:41フィート

 深さ:30.5フィート

 マスト:2本

 ブリッジ:船体の中央

 煙突:船体の中央に1本

 速力:16ノット

 (日本政府がアメリカ政府に通知した内容)

 

 1943年3月5日に三菱重工長崎造船所で完成。日本郵船所有の貨客船だが、太平洋戦争中の統制で船舶運営会の使用船となっていた。

 

 就航以来の船長は、浜田松太郎(1888年6月香川県小豆島生まれ。1945年4月阿波丸沈没により死亡)

 

  

米国潜水艦クイーンフィッシュの行動

 <阿波丸撃沈に関するラフリン艦長の報告書>より

 

▼1945年4月1日

 アメリカ潜水艦クイーンフィッシュは第17機動部隊の司令官の作戦命令に従って、東シナ海で敵に対する哨戒を行っていた

 

▼4月1日22:00

 クイーンフィッシュから約1万7千ヤード南方の位置に、一隻の戦艦がレーダーに映ってきた。

 

▼4月1日22:25

 附近にいた僚艦シーフォックスに敵艦を発見したこと、その位置、航行速力と予測進路を伝達した。そしてなおも追跡を続けた。

 

▼4月1日23:00

 レーダーを使用して、クイーンフィッシュと敵艦の距離が12百ヤードになったとき、深さ3フィートに照準を定めて艦尾の魚雷発射管から4本の魚雷を発射。

 

▼4月1日23:05

 レーダーの発するピーピーという音は消えて、敵艦は第一の魚雷が命中してから3分で沈んだ。

 

▼4月1日23:11

 撃沈の現場に到着。海面は重油で覆われて、浮遊物がゴタゴタと浮かび、海面は波が高く荒れ狂っていた。ただちに運行を停止し、浮遊物につかまって浮いていた15〜20名ほどの生存者を救助する活動をはじめた。デッキの上の救助員たちが海面に救助ロープを、波間に漂う生存者に投げたが、ただ一人を除き引き上げることはできなかった。

 

▼4月2日0:10

 この時刻になってからは、沈没現場付近で生存者の声を聞くことはもう出来なかったし、また発見することもなかったので、東方約25マイルの地点で与えられた哨戒の任務につくためこの場所を離れた。

 

▼4月2日6:00

 0:10に沈没附近を離れてから、ようやく捕虜から確かな情報が得られた。このときになって初めて、撃沈した船が阿波丸であることを知った。直ちに太平洋艦隊の潜水艦隊司令官に対し、阿波丸攻撃に関する詳細な報告書を作製した。捕虜を尋問して得た情報を同封して報告した。

 

▼4月2日15:48

 太平洋艦隊司令官から”クイーンフィッシュとシーフォックスは全力を注いで、生存者を救助し、また積み荷の内容を確かめるために海上の浮遊物をサンプルとして収集せよ”との指令を受けた。直ちに撃沈した現場へ16ノットのスピードで急行した。

 

▼4月2日17:39

 北緯25度27・1分、東経120度08・1分の位置に到着。

 

▼4月4日11:01

 潜水艦隊司令の司令によって、別の任務につくため悪天候が近づく中を、北方に向かって進んで行った。

 

 

 

   

   

      1945年(昭和20年)4月1日、台湾海峡

 

 

 2千名余りの乗客乗員と9800トンもの貨物を満載していた1万2千トン級の大型貨客船「阿波丸」(浜田松太郎船長)が、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月1日、午後11時、シンガポールから日本に向かう途中の台湾海峡において、米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈された事件。2千名余りの乗客乗員は、一人の生存者・下田勘太郎氏を除いて全員死亡した。この「阿波丸」は、アメリカおよび連合国側の要請によって日本の占領下で捕虜および抑留されている将兵や市民16万5千人(アメリカ軍捕虜と市民約1万5千人、連合国軍捕虜と市民約15万人)のために赤十字の救援物資を運び届けるという特殊な任務を帯びており、連合国側から往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」であった。

 

 どうして安全航行保障が破られ米国潜水艦は魚雷攻撃を行ったのか、という阿波丸撃沈の謎だけでなく、この「阿波丸事件」は、大戦後に日本が請求権を放棄するという賠償問題の処理のプロセスや、連合国による停船・臨検も受けないという保証から巨額の財宝が阿波丸に積まれていたという話から生れる沈没船引揚げについてのいろんな動きなど、非常に奇妙で複雑な事件。また戦争末期に、絶対安全に東南アジアから日本へ帰れる船と信じられたため、帰航の乗船希望者が殺到し乗船選考割り当てで乗船できた幸運の人たちが阿波丸と運命を共にすることとなった。

 

 阿波丸は、船体の一部を緑色に塗り替え、白十字の標識マークを付けて、1945年2月17日、約2千トンの救援物資を載せて門司を出港。高雄、香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタに寄港し、その積荷である連合国の救援物資を届け、帰途につくべく最後の帰港であるシンガポールに1945年3月24日再度入港。阿波丸の船室は一等船室が37人分しかないものの、ジャカルタで多数の在留邦人を乗せた後、シンガポールでも多数の東南アジア在留邦人が乗り込み、大多数の乗客は船倉に押し込められた。すでに大量のスズや生ゴムを積んでいた阿波丸はシンガポールで更に戦略物資を積み込み、総計9800トンの貨物を積載し、3月28日予定通りシンガポールを出港。4月1日に台湾の高雄へ正午位置を「北緯23度20分、東経117度27分」と報告し、台湾海峡の入口からこれから台湾海峡に入るとの連絡があったが、その後音信が途絶え阿波丸の消息が不明となった。

 

  ■最終決定の航路と寄港地

     【往路】 ・門司          1945年2月17日午後出港 

           ・高雄          2月20日午前入港、2月21日午前出港

                   ・香港          2月22日午後入港、2月23日午前出港

                   ・サイゴン       2月25日午後入港、2月28日午前出港

                   ・シンガポール 3月2日午前入港、3月8日午前出港

                   ・ジャカルタ     3月10日午後入港、

     【復路】 ・ジャカルタ     3月18日午前出港

           ・ムントク        3月19日午後入港、3月23日午前

           ・シンガポール 3月24日午後入港、3月28日午後出港

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           ・六連島到着予定 4月4日午後

           ・敦賀(福井県)入港予定 4月5日午後

                                    *最初の予定では、門司が帰港地(4月5日午前予定)

 

 この時、アメリカ側にあっては、”4月1日23時、東シナ海で敵に対する哨戒作戦に従事していたアメリカの第17機動部隊所属のクイーンフィッシュは、濃霧のたちこめる牛山島沖、北緯25度26分01秒、東経120度08分01秒の海上で、敵国の駆逐艦と思えた船舶を4発の魚雷にて撃沈。現場に到着したクイーンフィッシュは海上に漂う生存者の救助を行い、一人の日本人生存者を救出。翌2日、体力の回復したその捕虜から聞き出したところによると、昨夜撃沈した船舶は、日本の商船・阿波丸であることが判明した”との情報が太平洋艦隊潜水艦隊司令官より4月2日アメリカ政府に伝えられた。アメリカ政府内では、事件の対策をめぐって協議が行われたが、結局、その事実を公表するのは、阿波丸撃沈のニュースを受け取ってから8日後の4月10日となった。

 

 一方、日本側では、4月4日になっても到着予定地である門司沖の六連島に阿波丸は姿を現さず、翌4月5日、最終到着港である福井県敦賀にも現れず、日本政府は阿波丸に何らかの事故があったと判断し、その消息を探し求めたが何らの手がかりをつかむことができなかった。4月10日、日本政府は東京駐在のスイス代表団を通じ正式に、アメリカ政府に阿波丸の消息を求めると同時に、アメリカ国民に対しても、ラジオ放送によってその消息をたずねた。このため、アメリカ政府は急遽、4月10日に、スイス政府に要請して阿波丸沈没のメッセージを日本政府に伝達することを決定した。(日本政府はこの通知を4月12日に受け取る)

 

 事件発覚後、日本政府は4月12日直ちにアメリカ政府に対し詳しい情報と責任ある説明を求め、4月26日には、スイス政府を通じて正式に、アメリカ政府に対して抗議を通告。5月26日には、日本政府は2回目の抗議を送るとともに、阿波丸に関し、代船を含む損害の賠償を要求する。8月10日には、アメリカ政府に対して賠償明細書を通達すると共に、直ちに解決することを要請する。アメリカ政府は、終戦間近の7月5日になってようやく、「・・・阿波丸は安全保障の取決めの諸条件に十分従っているようにみえるので、それが阿波丸だと確認する責務はアメリカ潜水艦の艦長の側にあった。彼がそれをしなかったという点で、アメリカ政府は阿波丸撃沈の責任を認める」としながらも、賠償問題は戦争中は十分な解決が不可能で、戦争終結まで延期したいと提案。阿波丸の賠償問題は、戦後に持ち越され、日本側はまだ賠償請求の意思を明確に持ち賠償交渉が続けられたが、1948年に入り、マッカーサーの方針で賠償請求権放棄を、片山、芦田、吉田内閣が次々に受け入れていき、1949年4月の第5回衆議院本会議において、与党議員から阿波丸事件に基づく日本国の請求権放棄に関する決議案が提案され、野党の強い反対があったが、多数を持って決議案は可決。同年4月14日、外相資格の吉田茂、連合国軍総司令部(GHQ)の外交局長でアメリカ国務省の日本における政治顧問のウィリアム・シーボルト、認証者マッカーサーの3人によって、「阿波丸請求権の処理のための日本国政府及び米国政府間の協定」(阿波丸協定)が署名調印され、この協定は同日発効した。

 

 尚、阿波丸の乗客乗員数であるが、日本政府は当初、アメリカ政府に賠償請求をする際に2003人という数字を示した(生存者の下田勘太郎氏を含む数字)。その後、2045人となり、外務省も厚生省もこの数字を使っている。しかし、東京都港区の芝増上寺にある阿波丸殉難者合同慰霊碑には2070人の名が刻まれている。乗船者の多数は、米軍の攻撃で海の放り出され助かった遭難船員が700人以上、帝国石油450余人、阿波丸乗組員148人(下田勘太郎氏含む)、昭和電工97人、日本軽金属94人、古河鉱業11人、官庁関係では大東亜省・外務省46人、軍需省地下資源調査所11人など。在外公館氏視察をかねた救援物資配送の使節団の責任者が、大東亜省の竹内新平次官(大東亜省新設時の総務局長)、大東亜省政務課の東光武三課長、外務省調査局の山田芳太郎局長らと共に阿波丸に乗船していた。ビルマ政府の最高顧問・小川郷太郎氏や、1945年4月10日に東京で予定された大東亜会議に招集された東南アジア諸国に駐在していた司政長官、司政管等の多数の日本政府の高官たちも乗員の一員だった。たった一人の生存者、司厨員の下田勘太郎氏は、戦後1946年日本に戻り、ほとんど阿波丸に関し沈黙し続け、1970年、69歳で亡くなった。

 

 長年、台湾海峡の海底深く沈んだままになっていた阿波丸については、中国政府が1977年から極秘に引揚げ作業に取り組み、1980年12月、1977年から続いた阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えたと発表。中国は、1979年7月、80年1月、81年5月の3回にわたって、遺骨368柱、遺品1683点を日本に返還している。

 

   主な参考文献:

     『阿波丸事件 −太平洋戦争秘話』

                  (ミノル・フクミツ著、読売新聞社、1973年8月)

     『阿波丸はなぜ沈んだか 昭和20年春、台湾海峡の悲劇』

                  (松井覺進 著、朝日新聞社、1994年5月)