大東亜戦争ータイ

                        日本軍の対タイ進駐作戦

 

 

 

 

第15軍の対タイ作戦行動と関連してバンコクで準備された作戦

 

 ・12月7日の夜、ピブン首相以下の首脳者を日本大使館の晩餐会に招待し、夜半になって突如交渉を開始して即答を求めるというもの。予定通り、晩餐会は開かれたものの、ピブン首相は行方が知れず参加せず

 

 ・万一の場合に備え、在留邦人の保護手段も準備。12月7日の夜、さり気なく映画会を催し、老幼婦女子を映画会場に集め、ころ合いを見て、彼らを自動車に乗せ、バンコク埠頭に碇泊中の大阪商船バタビヤ丸に送り込むという手はず。12月7日、夕方から日本人小学校で予定通り映画会が開かれる。

 

 

 ・在留邦人中、在郷軍人を中心とする屈強なものは別働隊として、同夜納涼と称してチャオプラヤー河河口のバンプー海岸に出動し、同地に上陸する吉田支隊の誘導に任じ、かつ、あらかじめバンコク、バンプー間の通信網を切断することになっていた。

  当日、在郷軍人の別働隊は吉田支隊出迎えのためバンプー海岸に向かい自動車で出発した。当初は在郷軍人が自動車約20両によりバンプー海岸でこれを出迎えバンコクに急送する手はずになっていたが、吉田支隊が上陸したころは、ピブン首相がまだバンコクに戻っておらず、和戦の態度は決まっていなかった。こんな時、バンコクまで最短距離にある吉田支隊が、自動車で一気に突進すれば、戦火が首都に波及し、思わぬ大事を引き起こす恐れが大きい。したがって吉田支隊の突進はすみやかに阻止しなければならず、この時バンコクにあった第15軍参謀八原博通中佐及び輔佐官徳永賢二中佐が、この任務を帯びて相前後して自動車でバンプー海岸に急進した。バンプー海岸でタイ警察隊と対峙中の吉田支隊に出会い、第1線に姿を見せた吉田中佐と徳永中佐との会談によって事態は判明し、吉田支隊はしばらくバンコクへの前進を待つことになった。

  

 

 

 

   

   

       1941年(昭和16年)12月

 

 

 1941年12月8日未明の太平洋戦争開戦に先立ち、日本軍の対タイ進駐作戦が準備された。日本軍のマレー方面の作戦を容易にし、あわせてビルマに対する侵攻作戦を展開するためにも、タイ国の安定確保が必要であったためだ。1941年12月初には、在タイ日本大使館にあってはタイ国首相ピブン元帥に対する平和進駐申入れの時機及びその要領などについて最後の熟議が行われ、また仏領インドシナに駐留していた近衛師団の主力を、タイ、インドシナ国境付近に進め応変の態勢をもってタイ国東部国境よりの対タイ進入作戦の準備を進めていた。バンコク付近のバンプー海岸への直接上陸作戦任務を担う吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第3大隊、速射砲1小隊、連隊砲中隊)も、1941年12月3日夜サイゴンで白馬山丸に乗船し、フーコック島に移動し、同島付近で待機した。対タイ進入作戦開始に先立ち、第3飛行集団の第15軍に対する空からの支援協力方法も取り決められていた。

 

 対タイ作戦行動を受け持つ第15軍司令官(飯田祥二郎中将、当時の司令部はサイゴン)に対し、「開戦日の夜半(日本時間の24時、タイ時間の22時)にタイ政府と日本軍のタイ領通過の交渉を始め、タイ国東部国境よりの進入開始は平和進駐の目処なき場合には作戦開始日努めて速やかに行うも平和進駐の可能性を確認したる場合はタイ国との衝突を回避する時間の余裕を得るため作戦開始日概ね正午頃行うものとし、バンコク付近に対する直接上陸は作戦開始日黎明とす」との南方軍からの命令が出された。また開戦日の黎明時には、マレー方面上陸作戦として第25軍の先遣兵団および第15軍の宇野支隊が、コタバルの他、シンゴラ、チュンポン、パタニ、タペー、プラチャップキリカン、バンドン、ナコンシタマラートなど南タイ各地の海岸に上陸することになっていた。

 

 対タイ外交交渉については、1941年12月7日(日曜)の夜、ピブン首相以下のタイ首脳を日本大使館の晩餐会に招待し、夜半になって突如日本軍通過の交渉を開始して即答を求める予定であった。在タイ日本大使館では計画通りにタイ国政府首脳者及び坪上大使以下陸海軍武官を集めて晩餐会が始められたが、肝心のピブン首相は姿を見せず所在不明となっていた。ピブン首相が東部国境方面(シソフォン付近)にいることがわかったものの、日本軍通過の交渉開始の時刻になってもピブン首相はバンコクに戻らず、やむなく坪上貞二大使をはじめ在タイ武官田村浩大佐一行は総理官邸に出かけ、タイ政府の外務大臣及び大蔵大臣に対し、正式面会を申入れ、「日本軍はやむを得ずタイ領を通過するが、タイ国に対してなんらの敵意はない。すみやかにタイ国軍隊に対して、日本軍に抵抗しないよう指令を出されたい」と申し入れた。大使館の晩餐会は解散となり、タイ側は緊急閣議に入ったがピブン首相が不在ではなんら決定できないままでいた。

 

 飯田第15軍司令官はピブン首相の回答があるまで近衛師団の攻撃前進を待たせたいという意見であったが、南方軍(司令部はサイゴン)の塚田総参謀長は寺内総司令官の決裁を得て12月8日03:30(日本時間)、第15軍の進撃開始を命じた。南方軍の命令を受けた第15軍は近衛師団に対し、タイへの武力進駐開始を命じた。近衛師団先遣隊としての岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐が率いる近衛歩兵第5連隊第1大隊基幹の部隊は、シエムリアップ付近から12月8日午前7時に前進を起こし、まず国境監視哨を武装解除し、続いてバッタンバン平原に突入(このバッタンバン平原は仏印からタイに割譲されたばかり)し新国境を突破。やがてシソフォンを過ぎ,夕方近く旧国境付近に近づき旧国境を越えバンコクへの西進を続けた。トンレサップ湖の南方から前進を起こした近衛師団の主力縦隊も、12月8日払暁、新国境を突破し、バッタンバン、シソフォンを通過し、シソフォン以西は近衛師団先遣隊の進路に入りバンコクへの西進を続けた。海上からバンコクの南方海岸バンプーに上陸することになっていた吉田支隊は、フーコック島を12月7日出発し、12月8日午前3時から4時の間、戦闘部隊はなんら抵抗を受けることなくバンプー海岸に上陸した。しかしこの時点でピブン首相はバンコクにまだ戻っておらず、和戦の態度は決まっていなかった。

 

 一方、ピブン首相は、12月8日午前9時(現地時間午前7時)ごろ、終夜自動車を飛ばしてようやくバンコクに帰った。ピブン首相は帰途最寄のタイ国軍指揮官に対し、日本軍に抵抗しないように命令してきたが、バンコクに帰ってからも直ちに全軍に対し停戦命令を無線をもって下達した。以上の措置を終え、ピブン首相と日本大使との会談が内閣庁舎で行われた。坪上大使は、日本軍のタイ領侵犯はやむをえなかった次第を申し述べた後、逼迫した国際情勢と日本軍のタイ領通過の必要性及び即時停戦処置を要する理由を説明し、(1)軍隊通過の承認 (2)防守同盟 (3)攻守同盟 (4)三国同盟加入 の4条件の中のいずれかをタイ政府と協定の上条約を締結したい旨申し入れた。これに対しタイ国政府側は単純な軍隊通過協定を選ぶとして、12月8日正午頃、単なる軍隊の通過のみの協定が成立、午後3時ごろ正式に調印された。

 

 タイ東部国境から何の抵抗もなくバンコクへの西進を続けていた近衛師団は途中で平和進駐の交渉成立を知ることとなり、引き続きバンコクへへの西進を続け、近衛師団先遣隊は12月9日未明バンコクのドンムアン飛行場に到着。飛行場付近で大休止の後、午前11時ごろドンムアン発、バンコク市内ルンピニ公園に前進した。近衛師団(師団長西村琢磨中将)主力も12月9日午後バンコクに入り、飯田第15軍司令官も12月9日午後、別途バンコクに入った(近衛先遣隊のバンコク入城に先立ち、偵察のためバンコク市内に前進した第1大隊長竹内秀三郎少佐は、バンコク市内で暴徒の襲撃に遭って戦死)。バンプー海岸に上陸後バンコクに急進してラーマ6世橋を占領する任務を帯びていた吉田支隊は、バンコクからの事態の連絡で、バンプーでしばらく前進を待つことになり、ピブン首相の態度判明後、前進し12月9日午後バンコクに到着した。

 

  しかしながら、12月8日黎明に日本軍の各隊が上陸した南部タイの各地では、日タイ両軍間に衝突が起こった(佗美支隊がコタバル上陸、第5師団主力がシンゴラ上陸、宇野支隊主力がチュンポンに上陸、第5師団の安藤支隊がパタニ及びタペーに上陸、宇野支隊の一部がプラチュアップキリカンに上陸、宇野支隊の一部がバンドン及びナコンシタマラートに上陸)。12月8日午後には各地ともおおむね停戦することができたが、プラチュアップキリカンでは通信機故障のため、長らく宇野支隊との間に戦闘が続き、双方に相当の死傷者を出した。当初、日タイ間には日本軍通過の承認に関する協定だけであったが、その後、真珠湾空襲におけるアメリカ側の甚大な被害、南太平洋全域にわたる日本軍の攻撃の成功、さらに12月10日英戦艦プリンス・オブ・ウェールス及びレパルスが日本軍により撃沈されるなどの戦況から、日タイ間の交渉は急速に進み、12月10日夜半、攻守同盟決定、12月11日11時攻守同盟仮調印、日タイ同盟条約の正式調印は1941年12月21日に宮殿内の寺院で行われた。更に、この日タイ同盟条約に基づく日タイ共同作戦に関する協定は1942年1月3日に成立している。

 

   主な引用参考文献:

       ・ 『マレー進攻作戦』

            (防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1969年12月)