現代史 - タイ

              1991年2月 タイの軍事クーデター

 

 

 

 国家治安維持団布告第二号

 (国家治安維持団メンバー

     の任命)

 

 国家に対する不穏分子が引き起こす可能性のある事態を防止し、治安を維持するために、以下のとおり、国家治安維持団司令部メンバーを任命する。

 

 1.スントーン・コンソンポン

   国軍最高司令官兼

   国家治安維持本部司令官

  ・・・国家治安維持団団長

 

 2.スチンダー・

   クラープラユーン

   陸軍司令官

  ・・・国家治安維持団副団長

 

 3.プラパット・

   クリッサナチャン

   海軍司令官

  ・・・国家治安維持団副団長

 

 4.カセート・

   ローチャナニン

   空軍司令官

  ・・・国家治安維持団副団長

 

 5.イサラポン・

   ヌンパックディー

   陸軍副司令官

  ・・国家治安維持団事務局長

 

 1991年2月23日

 

 (同日付の布告第5号により

  サワット警察庁長官を追加)

 

 

        1991年2月23日、タイ

 

  1988年8月より初の民選首相としてプレム首相の後を継いでいたチャチャイ首相の政権に不満を持つタイの軍部が、1991年2月23日、クーデターを決行し、午後2時50分、スントーン国軍最高司令官が全テレビ局を通じて「陸海空軍・警察・文官からなる国家治安維持団(NPKC=National Peace Keeping Command)が、本日午前11時半、政権を完全掌握した」と発表した。また、自ら国家治安維持団の団に、また実質的陸軍の最高実力者とされるスチンダ陸軍司令官が副団長に就任したことを宣言した。更に治安維持のため、国会治安維持団布告第4号にて、1991年2月23日午前11時30分よりタイ国全土に戒厳令が施行する一方、立憲君主制は護持すると告げ、国民や軍部隊に平静を呼びかけた。

 

 この日の朝、スントーン国軍最高司令官、カセート空軍司令官等、多数の軍・政府要人が見送りに空軍司令部に集まったなか、2月19日付で国防副大臣に任命したアーティット副首相を伴って、チェンマイの離宮におられたプミポン国王に拝謁し宣誓の儀式を行うために空軍機でバンコクのドンムアン空港からチェンマイに向かおうとしていたチャチャイ首相一行は、軍用輸送機に同乗していた空軍コマンド部隊によって突然、身柄を拘束された。一方、タイ軍部は2月23日正午前、第11歩兵連隊の部隊がバンコク市内にある政府広報局、全テレビ局を占拠、その他の部隊は首相府、警察局犯罪鎮圧部を制圧下に置いた。スントーン国軍最高司令官は同日夕、テレビを通じ、戒厳令のほか、1978年憲法の停止、国会と内閣の無効を布告し、5人以上の政治目的の集会を禁止した。また国営のラジオ、テレビ放送はすべて独自番組の放送を禁止され、軍の放送を流すことだけが許され、新聞も検閲が必要になった。

 

 チャチャイ政権と軍との対立が激化していた状況下で起こった国家治安維持団による全権掌握の理由については、チャチャイ政権の腐敗行為、政治家による善良な官僚に対する介入、政府による議会専制主義、軍に対する介入、王室関係者等暗殺未遂事件の真相隠蔽が挙げられたが、直接のきっかけは、チャチャイ首相がアーティット元陸軍司令官を副首相兼国防副大臣(当時、国防大臣は首相が兼任)の正式任命を阻止することにあった。

 

 1985年9月9日、1981年4月のクーデター未遂事件の首謀者であるマヌーン大佐が少数の部隊を動かして再びクーデターを試みたが、軍内でプレム首相の支持を受けて台頭しつつあったチャワリット陸軍副参謀長に鎮圧され未遂に終わったが、この未遂事件の背後にいたと目されたのが当時のアーティット陸軍司令官。アーティットは、プレム首相により1986年5月司令官の職を解任され、代って陸軍司令官にチャワリットが任命され、軍の体制はその後スチンダー陸軍司令官に継承されていた。

 

 1991年2月23日による軍事クーデターは、大きな混乱や反対もなくスムーズに成功に終わり、拘禁されていたチャチャイ前首相も、クーデターの2週間後には軟禁を解かれた。クーデター直後、スントーン国家治安維持団団長は、チェンマイでプミポン国王に拝謁、国王が戒厳令の解除、新憲法の早期制定、半年以内の総選挙実施を強く要求したとされ、1991年3月1日、暫定憲法が公布され、3月6日に、軍人出身ではなく外交官出身、サハ・ユニオン社会長、タイ工業連盟会長を務めたアナン・パンヤーラチュン(1932年生まれ)を首班とする暫定内閣が発足した。

 

 アナン暫定政権の業績は多く、成立の当初から、1932年の革命で絶対王制から憲政になって以来最良の内閣とまで言われたが、早期民政復帰のために、1991年12月9日、新たな憲法(「1991年憲法」)が公布され、それに基づく総選挙(第16回)が1992年3月22日に行われた。総選挙第1党の新党サマキータム(正義団結)党・ナロン党首が、一旦、与党4党の推薦で首相指名されるが、ナロン党首の麻薬密売容疑で米国が援助打ち切りを示唆して強く抗議。4月7日スチンダー陸軍司令官が新たに首相に任命される。ここから国民が強い反発し、1992年4月下旬から大規模な反スチンダー運動に発展。ついには軍・警察が集会参加者に対し一斉に発砲、1992年5月流血事件を引き起こしてしまう。

 

 

  参考文献:

     『クーデターの政治学』(岡崎久彦 他著、中公新書、1993年9月)

     『タイ 開発と民主主義』(末廣昭 著、岩波新書、1993年9月)

 

              朝日新聞 1991年(平成3年)2月24日 日曜 1面

         (同日の一面トップの大きな記事は、地上戦か停戦かの岐路に立つ湾岸戦争に関する記事で、見出しは

          「地上戦必至の情勢 イラク軍の撤退期限切れ多国籍軍、一斉進攻の構え イラク軍動きなし」といったもの)

 

  左の記事が、同日付の7面(国際)の解説記事

 

    

      タイ国軍がクーデター  戒厳令布告、首相も拘禁

 

  【バンコク23日=宇佐波雄策、脇阪紀行】チャチャイ政権に不満を持つタイの軍部は23日、

  クーデターを決行し、午後3時前、スントーン国軍最高司令官が全テレビ局を通じて「陸、海、空

  の3軍は本日午前11時半、政権を完全掌握した」と発表した。また、自ら国家治安評議会の議

  長に、また実質的陸軍の最高実力者とされるスチンダ陸軍司令官が副議長に就任したことを宣

  言した。さらに同日夕、タイ全土に戒厳令を敷く一方、立憲君主制は護持すると告げ、国民や軍

  部隊に平静を呼びかけた。

   タイ軍部は23日正午前、バンコク市内にあるチャンネル9など国営テレビ3局と国営ラジオ局

  などを占拠した。スントーン国軍最高司令官は同日夕、テレビを通じ、戒厳令のほか、憲法の停

  止、国会と内閣の無効を布告し、5人以上の政治目的の集会を禁止した。また国営のラジオ、テ

  レビ放送はすべて独自番組の放送を禁止され、軍の放送を流すことだけが許され、新聞も検閲

  が必要になった。

   また軍部筋によれば、この日午前、チェンマイの離宮にプミポン国王に会いに行く途中のチャ

  チャイ首相とアティット副首相が乗った軍用輸送機が同乗していた軍人によって強制着陸させ

  られ、2人は国軍最高司令部に身柄を置かれている。

   陸軍のテレビ局チャンネル5の周囲には2台の装甲車、他の局の周辺にも装甲車や軍用車が

  出動し、完全武装の兵士らが機関銃を備え付けるなど緊迫している。

 

 

 

     タイのクーデター  軍、地位低下に焦り   政党重視の首相に反発

 

  【解説】23日起きたタイ・クーデターの背景にあるのは、タイ政治における軍部の役割の相対的

  低下であり、それに対する軍部のいらだちといってよい。

   1985年9月のクーデターを未遂に終わらせたプレム前首相は、唯一最大の圧力団体だった

  軍部の突出を抑え、軍部、政党、王室というタイ政治の3大勢力の微妙な均衡のうえに政治を運

  営した。

   初の民選首相としてあとを継いだチャチャイ首相は、政党重視の姿勢を強め、軍部は不満を高

  めていた。

   とりわけ、陸軍司令官から副首相兼国防相として入閣したチャワリット将軍が、閣内の対立から

  昨年(1990年)6月に辞任して以来、チャチャイ首相と軍部の関係は急速に険悪化。チャワリット

  辞任の当日には、バンコクの歩兵連隊本部に陸軍兵士千人以上が集結して示威行動をとる騒ぎ

  もあった。

   今回クーデターの中心は、スチンダ陸軍司令官らタイ陸軍士官学校の5期生とみられている。

  このグループはチャワリット将軍の子飼いであり、タイ陸軍首脳部をほぼ独占。軍内部の権力闘

  争などで、将軍と密接につながってきたことで知られる。

   タイ経済の繁栄は外国投資を抜きにしては考えられない。あえて今回、実力行使に踏み切った

  ことは、軍部の地盤沈下に対する危機感が予想以上に進行していたことを示している。

                                (バンコク  増子義孝)