現代史 - ヴェトナム                 

      日本軍仏印進駐時のフランス本国政情

 

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●フィリップ・ペタン

 

 (1856年〜1951年7月23日)

 北フランスの農家に生まれる。第1次世界大戦時、軍団司令官、北及び北東方面軍最高司令官として活躍。特にパリに至る最後の砦「ヴェルダン」を死守し(1916年2月〜1916年12月)第1次世界大戦を勝利に導き、国民的英雄となる。大戦終了後、元帥となる。

 その後、モロッコ反乱の時のフランス軍司令官、国防最高会議副議長、スペイン内戦末期のスペイン駐在大使などを歴任。

 第2次世界大戦開始後、1940年5月、ポール・レノー内閣の下で、副首相に就任。

ドイツ降伏後にスイスから自発的に帰国し、収監された。1945年7月23日ペタン裁判が行われ、1945年8月15日には死刑判決が言い渡された。のちに高齢を理由に終身禁固刑となり、流刑地の大西洋のユー島で95歳で死去した。

●ド・ゴール

 (1890年〜1970年)

フランスの軍人・政治家

第1次世界大戦に従軍。

1930年代は、フランス陸軍の装備などの近代化を主張するが、取り入れられず。1940年6月5日、ド・ゴールの軍改革に理解を示していたポール・レノー首相下の内閣改造で、前線指揮から国防次官に任命されたが、フランス降伏となるや、ロンドンに脱出。ロンドンにおける亡命政権「自由フランス」の首席としてあるいはアルジェリアに成立した「フランス国民解放委員会」の委員長として、国内のレジスタンスと呼応して対独抵抗を続けた。

1944年、連合軍のフランス上陸・侵攻と共に、パリに凱旋。フランス共和国臨時政府首席として1946年1月まで政権を担当。1958年、政界復帰し、内閣を組閣。同年10月議会の権限を制限し大統領に強大な権限を認める新憲法(第5共和政憲法)を公布。初代大統領に就任した。1969年退陣し、翌1970年死去。

 

●フランスの共和政

▼第1共和政

   (1792年〜1804年)

 フランス革命における王制廃止宣言から、第一執政ナポレオンの皇帝即位までの体制

 

▼第2共和政

   (1848年〜1852年)

 2月革命の結果成立し、ナポレオン3世の帝政樹立までの政体

 

▼第3共和政

   (1870年〜1940年)

 普仏戦争の敗北で崩壊したフランス第2帝政(ナポレオン3世)の後、成立。第2次世界大戦初期のフランスの敗北で崩壊

 

▼第4共和政

   (1947年〜1958年)

 第2次世界大戦の終結から、ド・ゴール大統領の登場まで

 

▼第5共和政

   (1959年〜)

  

 

 

 日本軍は、1940年9月23日北部仏印に進駐する。以降、翌41年7月28日南部仏印への進駐をはじめ、東南アジア進攻を進めていくが、この北部仏印進駐は、援蒋ルートの遮断という日中戦争の戦略的要請からだけでなく、インドシナを支配していたフランスが置かれていたヨーロッパ情勢とも大いに関係がある。ドイツに対するフランスの降伏とヴィシー対独協力政権樹立というヨーロッパ情勢の下、日本は仏領インドシナで覇権を伸張していく。

 

第2次世界大戦勃発からパリ陥落へ

 

 1939年8月23日独ソ不可侵条約が締結され、9月1日には、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発した。フランスでは、1936年から人民戦線(左翼連合政権)内閣が成立し、1938年4月に発足した急進社会派のエドアール・ダラディエ(1884年〜1970年)内閣では、宥和政策が進められていたが、9月3日、フランスはドイツに対し宣戦布告を行った。しかし、当初はフランス・ドイツ間は、戦争とは行っても形ばかりで、両国間に本格的な戦闘は生じなかった。

 

 ところが、1940年5月10日、ナチス・ドイツは西部攻勢を開始し、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻。5月13日には、ドイツ軍はフランス国境を突破する。フランス政府は、5月21日、エドアール・ダラディエ内閣から保守的共和派のポール・レノー(1878年〜1966年)を首相とする内閣に変わるも、重戦車類の大量導入などで、電撃戦を進めるドイツ軍の勢いを止めることはできず、6月10日には、フランス政府はパリを捨て、トゥールに移る。パリは無防備都市宣言され(1907年のハーグ陸戦条約で無防備都市への攻撃が禁止されていた)、1940年6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城した(パリ陥落)。

 

 

 

仏の降伏、仏独休戦協定締結と親独政府のヴィシー政権

 

 北アフリカに移ってでも戦いを続けようとするポール・レノー首相らの徹底抗戦派と、ペタン元帥らの休戦派に分かれたが、ドイツの勢いと多くのフランス国民の厭戦感情

を背景に、休戦派が多数を占めた。1940年6月16日、ポール・レノー内閣は総辞職し、84歳のフィリップ・ペタン元帥を首班とする内閣が成立し、翌6月17日、フランスは降伏した。ドゴールは、ロンドンに脱出し、亡命政権「自由フランス」を率いて抵抗を継続することになる。

 

 1940年6月22日に、仏独休戦協定(停戦ではなく、休戦)が締結され、24日には仏伊休戦協定が締結された。トゥールからボルドーに首府を移していたフランス政府は、1940年7月1日、フランス中央部の高地の小都市・ヴィシーに更に首府を移動。

 1940年7月11日には、ペタン元帥は共和国大統領職を廃止し、国家主席に就任し(副首相は、ピエール・ラヴァル:1883年〜1945年)1870年から続いていた第3共和政は崩壊した。これ以降、1994年8月連合国軍とフランスのレジスタンス勢力によってパリが解放されるまでの4年間が、ヴィシー期(時代)とされ、ドイツ占領下で対独協力が行われた。

 

 

休戦協定と仏領海外植民地

 

 仏独、仏伊休戦協定によって、フランス本土は以下の通りに分割された。

   ●ドイツの占領地区・・・パリを含む北半分とボルドーを含む南西部

   ●自由地区・・・・中央部の小都市・ヴィシーを首府とするフランス政府

   ●ドイツ併合地区・・・仏独の長年の係争地である北東部のアルザス・

                            ロレーヌ

   ●イタリア占領地区・・・マルセイユを含む南西部の一部地区

 

 ドイツの全ての被占領国の中で、フランスだけが、国土の3分の1程度ではあったが、「主権」国家として政府を持ちつづけることが許された。しかし「主権」国家とはいっても、さまざまな制限がある「主権」であり、対独協力が「自主的」にも半強制的にも進められた。連合国軍が北アフリカに上陸すると、ドイツ軍は1942年11月11日、フランス全土を占領することになる。

 

 パリ陥落、ドイツへのフランスの降伏、フランス本土のドイツ軍占領となったが、インドシナを含むフランスのアジア・アフリカの広大な海外領土については、ナチス・ドイツは、ヨーロッパから離れたこれらの海外領土が離反していくのを防ぐ仕事をヴィシー政権に任せておく方が、ドイツ占領軍にとって得策であると判断。ドイツ占領軍の統制下ではなく、対独協力政権たるヴィシー政府の管轄のままとされた。

 

 

その後の展開

 

1944年6月2日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行され、1944年8月25日は、パリ解放が行われ、パリに凱旋したドゴールが、1944年9月9日、臨時政府首席として組閣を行った。翌1945年5月7日にはナチス・ドイツが降伏する。一方、仏領インドシナでは、パリ解放後1944年8月30日、ドゴールが、日本=ヴィシー政府間で締結された協定の無効を宣言し、敗色濃厚な日本の在留軍とインドシナ政庁との間に対立が顕在化してきた。米軍がインドシナ上陸をしてきた場合、在インドシナのフランス軍が呼応することを恐れ、日本軍は武力行使による在インドシナのフランス軍の武装解除とインドシナの完全占領を計画し、1945年3月9日クーデターを敢行した。これにより日本の敗戦まで、インドシナにおけるフランスの主権は全く失われた。