国際関係・現代史 - 中国・ビルマ間領土問題             

             江心坡

 

中国・インド国境紛争

 イギリス政府は1907年英露協商でチベット<緩衝国化>に関するロシアの合意を獲得し、その南下を一応阻止したが、次には中国の対チベット前進政策に直面した。その結果1913年〜1914年にインド北部の避暑地シムラで第1回シムラ会議が、チベットの国際的地位を協議するために開催された。

 イギリス、チベット、中国が参加したこの会議で、1914年3月イギリスとチベット代表間でマクマホン・ラインが中国抜きで秘密裏に合意された。このマクマホン・ラインとは、イギリス領インド北東部(アッサム)とチベット間の人為的境界線で、イギリス全権代表ヘンリー・マクマホン(1862〜1949)が対チベット境界線を約96km北上させることをチベットに認めさせた。

 第2次世界大戦後、1947年独立したインドは、このマクマホン・ラインを国境線として継承したのに対して、1949年誕生した中華人民共和国は宗主権下にあったチベットとの秘密協定に基づくとしてその法的根拠を否定。

 アクサイ・チン地方をめぐる中印西部国境問題、チベット問題とともに、1950年代後半から紛争化する中印国境問題の一つとなった。

 1959年にチベットの反乱が起き、ダライ・ラマがインドに亡命すると、その対立が一気に表面化し、国境地帯で武力衝突が起きるようになった。1960年4月にはネルー・周恩来のデリー会談が開かれたが物別れに終わった。1962年10月20日には、遂に中国軍は西部・党部国境地帯で一斉攻撃を開始、インド軍はアメリカの軍事援助を受けるなど大規模な戦争に発展したが、1ヵ月後に中国は一方的停戦と撤退を発表した。

 

 

  1960年10月中国・ビルマ間で締結された中緬辺界条約で、中国(清朝)からイギリスが永久租借地として獲得していた南坎(ナンカン)の地が、中国よりイギリスより独立したビルマに正式に割譲されたわけだが、この時、中国・イギリス間で長年領有を争っていたより広大な地域も、ビルマの領土とすることを中国が認めている。これが江心坡地区で、この地域名称は中国側が用いていたもので、イラワジ河上流のメーカ川(恩梅開江)とマリカ川(邁立開江)との間にはさまれた長さ約300km、幅約100kmにも及ぶ細長い山岳地帯である。現在この一帯はミッチーナ地区とともにミャンマー領カチン州の主要地区となっている。

 

  19世紀末にビルマ全土を植民地化したイギリスは、ビルマと長大な国境を接する中国西南辺境地区をも脅かすことになる。1890年代にイギリスと清朝の間に締結された条約で、清朝はイギリスのビルマ支配を承認させられると同時に、@江心坡及び片馬地区以北の尖高山以北地区(中緬北段界)を未定界とする。Aナムティン川とナムワン川のワ族地区(中緬南段界)を未定界とする。B南坎(ナンカン)地区がイギリスに永久に租借されることなどが決められた。

 

 清朝側は、歴代のビルマ王朝の統治権がバモー以北のイラワジ河上流にまで及んでいなかったこと、メーカ川・サルウィン分水嶺の西側のカチン族の首長たちがこれまで漢人土司に年貢を納めてきたことなどを理由に、メーカ川とマリカ川との分水嶺が国境として妥当であることを主張したが、イギリス側は、メーカ川とサルウィン河との分水嶺を境界線とすることを譲らなかった。

 

 そして紛争地域をとりあえず未定界と取り決めた条約締結後も、イギリスは未定界地域の支配領域への編入を狙い、1913年イギリスは片馬を武力で占領し、江心坡地区と中国内地との交通を遮断させ、以前侵略を試みカチン族やリス族の抵抗にあっていた江心坡地区にも1926年軍事行動を起こし、1927年には占拠し江心坡地区のカチン族の山官たちを捕虜とした。これに対し、中華民国政府雲南交渉署は、在雲南イギリス総領事に抗議を行い、中華民国政府はイギリスの江心坡地区占領を認めてこなかった。

 

 この問題は、1948年イギリスから独立したビルマと、1949年に成立した中華人民共和国との間にも引き継がれたが、1957年周恩来がビルマ首相ウ・ヌと会談した時、イギリスが主張していた国境線を承認し、3年後の1960年江心坡地区と南坎をビルマの領土とすることを認めた条約が締結されることになる。

 

 こうした中国側の大きな外交上の譲歩については、中国でも意図的に避けられてきた感があり、余り知られていないが、この政治的背景には以下の点があったとみられている。

 

 (1)当時、中国・インド関係が非常に緊張しており、中印紛争が一触即発の状況にあり、このため中国は西南の国境を接するほかの国との間で国境問題をできるだけはやく解決したかった。

 (2)李彌将軍率いる国民党残党が、国民党の大陸政権を失った後、ビルマ東部の中国・ビルマ国境地区に撤退してゲリラ活動を続けた。この残党軍が一時は反攻し雲南にまで進入したり、中国・ビルマ国境地帯で広大な地域に渡りゲリラ区を支配したこともあり、当時ビルマ中央政府に反対するシャン族戦線と協力して独立国を建国する可能性も否定できなかった。中国の西南地区に中国反攻をも目指す反共国家が出現することは、建国後まだ不安定であった共産中国としてなんとしても避けたかった。

 

 

 参考図書:

  『非官方記録的歴史真相 共産中国50年』1999年、解放雑誌社

  『世界民族問題事典』1995年、平凡社