国際関係・現代史 - 中国・ビルマ間領土問題             

             ナンカン (南坎)

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●英領植民地としての香港

 

 英領・香港は1997年中国に返還されたが、英領植民地・香港は、中国・イギリス間の以下3条約によって形成されていた。

@南京条約(1842年)香港島がイギリスに割譲された。

A北京条約(1860年)九龍半島の先端部がイギリスに割譲された。

B新界租借条約(1898年)九龍半島の基底部と235の島並びに附近の海面が99年間イギリスに租借された。

 

 1941年12月8日に日本軍は、援蒋ルートの中継基地として重要な戦略拠点であった香港に侵攻。同年12月25日にイギリス軍が日本軍に降伏し、香港は一時、日本軍政下に組み込まれた。

 

日本の敗戦後、イギリスは、蒋介石の中華民国政府の香港回収を退けて英領植民地・香港を再生させた。

 

香港の領域の大部分を占める新界地区は、イギリスへの割譲地ではなく租借地であり、租借期間は1898年に99年間と決められていたため、1997年6月30日をもって租借条約は期限満了となった。

 

 香港返還問題が1970年代末より浮上し、82年から香港の将来をめぐる中英交渉が始まった。

1984年12月、両国は中英共同声明で、1997年に1国家2制度(特別行政区)によって香港の中国への一括返還(外交と防衛を除く高度の自治を50年間保障)に合意。1997年7月1日中国に返還・統合された。

 

●ポルトガル領マカオ

 

 1513年に中国に初来航、1533年に対中国貿易を開始したたポルトガルは、1555年にマカオへの定住を始め、1557年には中国官憲の元寇討伐に協力した功績でマカオ居住権を獲得。当初は完全な植民地ではなく、地租を中国に納付し、マカオ在住の中国人は中国の管轄権に服した。マカオの植民地化は、1849年マカオ司令官がマカオの自由港化を宣言し、地租の支払いを中止したことに始まる。そして1887年のポルトガル・清条約でポルトガルは正式にマカオを獲得した。1979年ポルトガル・中国の国交樹立時に両国はマカオの統治権はポルトガルにあるものの、主権は中国にあることを確認。その後マカオ返還につき、両国政府は1987年4月に共同声明に調印、88年1月に批准書を交換した。1999年12月20日、香港と同様、1国家2制度方式(特別行政区)により、中国に返還・統合された。

 

 

 

  「第2の香港」「もう一つの香港」と言うと、どの地を思い浮かべるであろうか?知名度からいってもマカオを挙げられる方がほとんどであろう。しかし英領租借地であったと言う意味では、南坎(ナンカン)の方が適切であるかもしれない。

  

  南坎(中国語読み:ナンカン、ミャンマー側での地名もナンカン)は、現在はミャンマー領内で、カチン州南部とシャン州北部が接するところにあり、また中国雲南省徳宏タイ族ジンポー族自治州の西南端の町・弄島と瑞麗江をはさんで国境を接する町である。南坎は、瑞麗江(イラワジ河の支流でシュエリー川、中国語読みではルイリー江)及びその支流である南碗河が交わる孟卯三角州(ムアン・マオ三角地、中国語読みではメンマオ)の先端の町でもある。

 

 1885年イギリスがビルマ全土を併合すると、イギリスは清朝に対し、イギリスのビルマ支配を承認させる一方で、清朝版図内の雲南と英領インドの一部となったビルマとの国境が画定されていった。この折、イギリスは清政府に南坎の割譲を要求、李鴻章から拒絶される。しかし1897年(清光緒23年)イギリスの圧力の下、両国間で締結された「中英続議ビルマ条約」で、イギリスは南坎を中国の地として承認するも、中国より同地を永久に租借することとなった。

 

 1948年ビルマはイギリスより独立を果たしたが、その後1949年に成立した中共政権は、ビルマとの友好関係を構築するため、1960年10月、約220平方kmに及ぶ南坎地区をビルマに割譲することが、中緬辺界条約第2条で合意された。

 

 大国・中共中国が、南坎の租借は、イギリスが中国を威圧した上で調印させられた不平等条約に基づくものとして1897年締結の条約を破棄することも無く、その上「ビルマの実際需要を考慮」してということで、永久租借権関係を破棄し領土割譲を行うというビルマへの大譲歩は、一体どういうわけであろうか?この点については、南坎以外の中国・ビルマ間の領土問題も紹介した上で、別途触れたい。

 

 尚、ナンカン(南坎)は、中国・ビルマ間の交通の要衝であり、南坎から瑞麗江を渡ってビルマから雲南に入っていく。更に南坎附近は土地が肥沃でビルマ北部での有数の米の生産地であり、中国・ビルマの商人が集まり、商業小都市を成している。また1950〜60年代には、国民党軍残党のうち、李崇文と李文煥のゲリラ隊が南坎附近の臘戍に駐屯し、対外連絡、情報収集や給養の購入・調達は、南坎一帯で行われたと言われている。

 

 

 

 

参考図書:

  『非官方記録的歴史真相 

    共産中国50年』1999年、解放雑誌社

  『世界民族問題事典』1995年、平凡社