■ラングーン爆弾テロ事件(1)
1983年10月9日午前10時25分(現地時間)、ラングーン(ヤンゴン)市のアウンサン廟(殉難者廟)で起った爆弾テロ事件は、辛くも韓国の全斗煥大統領夫妻は難を逃れたが、韓国政府要人やビルマ閣僚も含む多数の死者をだす世界を揺るがす大事件となった。
犯行については、北朝鮮の関与説、韓国の反政府勢力の犯行説、ビルマ国内のカレン族などの少数民族反乱勢力、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党、ネ・ウィン前大統領に次ぐビルマNO.2と目されながら当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ、更には全斗煥大統領の自作自演説などの憶測が飛び交う中、ビルマ政府による事件究明が進められた。事件発生からの動きは以下の通り。
・1983年10月11日:
ビルマ政府は、この事件で朝鮮人1人射殺、1人逮捕、1人を手配中との特別声明
を発表
・1983年10月12日:
ビルマ捜査当局は、手配中の朝鮮人1人を逮捕
・1983年10月17日:
ビルマ政府は、逮捕済みの2人と射殺された1人の計3人の朝鮮人が犯人と断定。 しかし彼らの国籍には触れず。
・1983年11月4日:
ビルマ政府は、北朝鮮工作員の犯行と断定し、北朝鮮との外交関係を断絶。
外交措置として最も厳しい国家の承認取り消しを発表。
・1983年11月22日:
事件の実行行為者としてビルマ側に逮捕された朝鮮民主主義人民共和国の
容疑者2人に対する裁判開始手続きが、ラングーンの陸軍施設内に設けられた
ラングーン地裁(1審裁判所)の特別法廷で行われた。その中で、捜査にあたった
警察側は、2人の身元を北朝鮮軍のジン・モ少佐(30)、カン・ミン・チュル大尉
(28)であると初めて明らかにした。
・1983年12月1日:
第7回公判。検察側の証人喚問は全て終了。
・1983年12月6日:
第9回公判。ラングーン地裁(1審裁判所)のマウン・マウン・エ裁判長が有罪を
言い渡し、結審。ジン・モ少佐は終始黙秘。カン・ミン・チュル大尉は罪状を認める
・1983年12月9日:
2人に対する判決公判。いずれも死刑判決
・1983年12月15日:
カン・ミン・チュル大尉は、判決を不服としてビルマ中央裁判所(最高裁)に上訴。
ジン・モ少佐は上訴せず。
・1984年1月11日:
最終審裁判開始
・1984年2月9日:
上訴を棄却。死刑判決が確定。
初の韓国元首の訪問でしかも多数の韓国政府要人が列席するというにもかかわらず、ビルマ側の警備は、会場の地面に注意を向けるばかりで、アウンサン廟の屋根の上は見過ごしてしまったという大失態であった。(大統領一行の訪問に先立ち、韓国から大勢の警護陣が乗り込んだが、アウンサン廟は儒教的な見地から聖地と考え立ち入り検査を遠慮し、ビルマ側に検査をまかせていた)。
しかしながら事件後、不審者の路上検問やホテルの検問を強化し、事件発生から大して日がたたぬうちに容疑者2人を逮捕。11月3日夜、爆弾テロ事件の犯人の北朝鮮軍工作員の1人(カン・ミン・チュル大尉)が全面的に自供するや、翌11月4日朝、ビルマ政府は緊急閣議を開催、北朝鮮との断交を決定し、北朝鮮の大使館員とその家族に対しては48時間以内の国外退去を命ずるなど、手際の良い対応振りを見せている(北朝鮮の対しか任とその家族は11月6日ラングーン空港から北朝鮮の特別機でビルマを離れた)。更に犯人の裁判手続きについても、事前予告があり外交使節の傍聴を認め、時に英語・朝鮮語を用い犯人の裁判理解力を確かめ、メディアに公判結果を詳細に報じるなど、国際社会に対しても公正さを印象づけた。
韓国政府とビルマ政府間の関係も、ビルマ政府の朝鮮民主主義人民共和国に対する断交措置で外交上決着がついたとして、韓国政府は、ビルマ政府に対し、事件の死傷者に対する損害賠償を要求しない方針を採っている。事件の責任につき、ビルマ政府部内では、国防省の情報部長と次長が現職を解かれただけで、政府首脳の辞任はなかった。
参考文献:1983年10月〜1984年2月の日本主要各紙