国際関係・現代史 - ミャンマー          

        ラングーン爆弾テロ事件(2)

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●カン・ミン・チュル大尉の自白調書より

 

 タイ・チャン・ス司令官(北朝鮮の開城地区特殊工作部隊)の命令によって、以下の3人から成る暗殺班が組織された。

  ・ジン・モ少佐(逮捕)

    暗殺班の指揮官

  ・カン・ミン・チュル大尉(逮捕)

  ・キン・チー・オー大尉

    (ビルマ警察の逮捕に

    抵抗して死亡)

 

 この暗殺班は、1983年9月9日、北朝鮮の貨物船トンゴン(東健)号(5,379トン)で、甕津(オンジン)港を出港。

 (トンゴン号は、9月16日ラングーン港外に到着。9月17日〜9月24日までラングーン港内に停泊)

 

 ラングーン港到着後、在ビルマ北朝鮮大使館のチョン・チャン・フィ参事官宅に匿われる。(尚、この参事官は、1983年11月初めに、ビルマの対北朝鮮断交で帰国)

 

 アウンサン廟に爆弾をしかけたのは、10月7日夜10時頃で、指揮官のジン・モ少佐が見張りにあたり、カン・ミン・チュル大尉が廟の屋根にのぼり、キン・チー・オー大尉から爆弾を手渡されて設置。

 

 事件当日、アウンサン廟に近いウィザヤ映画館附近で爆弾の遠隔操作によって実際に爆発させたのは、指揮官のジン・モ少佐。

 

 

 

●暗殺班の逮捕状況

 

 爆破実行後、暗殺班3人は、ジン・モ少佐1人と、他大尉2人の二手に分かれた。ラングーン港に入港するてはずとなっていた北朝鮮船に逃げ込む予定であったが、成功する前に、ビルマ警察側に逮捕される。(3人の暗殺班のうち、1名は逮捕時死亡)

 

◆ジン・モ少佐(逮捕)

 10月10日夜、ビルマ社会主義計画党員らが、ラングーン市パズーダウン水路を小さなボートでラングーン川に向かっていた男を発見。男は岸に上がり逃走。男は自爆をはかるが、重傷で陸軍病院に収容される。

 

カン・ミン・チュル大尉(逮捕)

 キン・チー・オー大尉(死亡)

 10月11日午前7時ごろ、ラングーン市南方約30キロのタコッピン村で挙動不動の外国人2人がうろついているのを警官が見つけ、同行を求めた。うち一人が手榴弾を投げつけ、ビルマ側警官が死亡。これに対しビルマ警官が発砲し、一人が死亡。もう一人も逃走するが、翌12日逮捕。

 

            ■ラングーン爆弾テロ事件(1)

  1983年10月9日午前10時25分(現地時間)、ラングーン(ヤンゴン)市のアウンサン廟(殉難者廟)で起った爆弾テロ事件は、辛くも韓国の全斗煥大統領夫妻は難を逃れたが、韓国政府要人やビルマ閣僚も含む多数の死者をだす世界を揺るがす大事件となった。

  犯行については、北朝鮮の関与説、韓国の反政府勢力の犯行説、ビルマ国内のカレン族などの少数民族反乱勢力、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党、ネ・ウィン前大統領に次ぐビルマNO.2と目されながら当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ、更には全斗煥大統領の自作自演説などの憶測が飛び交う中、ビルマ政府による事件究明が進められた。事件発生からの動きは以下の通り。

  ・1983年10月11日

     ビルマ政府は、この事件で朝鮮人1人射殺、1人逮捕、1人を手配中との特別声明

     を発表

  ・1983年10月12日

     ビルマ捜査当局は、手配中の朝鮮人1人を逮捕

  ・1983年10月17日

     ビルマ政府は、逮捕済みの2人と射殺された1人の計3人の朝鮮人が犯人と断定。     しかし彼らの国籍には触れず。

  ・1983年11月4日

     ビルマ政府は、北朝鮮工作員の犯行と断定し、北朝鮮との外交関係を断絶。

     外交措置として最も厳しい国家の承認取り消しを発表。

  ・1983年11月22日

     事件の実行行為者としてビルマ側に逮捕された朝鮮民主主義人民共和国の

     容疑者2人に対する裁判開始手続きが、ラングーンの陸軍施設内に設けられた

     ラングーン地裁(1審裁判所)の特別法廷で行われた。その中で、捜査にあたった

     警察側は、2人の身元を北朝鮮軍のジン・モ少佐(30)、カン・ミン・チュル大尉

     (28)であると初めて明らかにした。

  ・1983年12月1日

     第7回公判。検察側の証人喚問は全て終了。

  ・1983年12月6日:

     第9回公判。ラングーン地裁(1審裁判所)のマウン・マウン・エ裁判長が有罪を

     言い渡し、結審。ジン・モ少佐は終始黙秘。カン・ミン・チュル大尉は罪状を認める

  ・1983年12月9日

     2人に対する判決公判。いずれも死刑判決

  ・1983年12月15日

     カン・ミン・チュル大尉は、判決を不服としてビルマ中央裁判所(最高裁)に上訴。

     ジン・モ少佐は上訴せず。

  ・1984年1月11日

     最終審裁判開始

  ・1984年2月9日

     上訴を棄却。死刑判決が確定。

 

 初の韓国元首の訪問でしかも多数の韓国政府要人が列席するというにもかかわらず、ビルマ側の警備は、会場の地面に注意を向けるばかりで、アウンサン廟の屋根の上は見過ごしてしまったという大失態であった。(大統領一行の訪問に先立ち、韓国から大勢の警護陣が乗り込んだが、アウンサン廟は儒教的な見地から聖地と考え立ち入り検査を遠慮し、ビルマ側に検査をまかせていた)。

 

 しかしながら事件後、不審者の路上検問やホテルの検問を強化し、事件発生から大して日がたたぬうちに容疑者2人を逮捕。11月3日夜、爆弾テロ事件の犯人の北朝鮮軍工作員の1人(カン・ミン・チュル大尉)が全面的に自供するや、翌11月4日朝、ビルマ政府は緊急閣議を開催、北朝鮮との断交を決定し、北朝鮮の大使館員とその家族に対しては48時間以内の国外退去を命ずるなど、手際の良い対応振りを見せている(北朝鮮の対しか任とその家族は11月6日ラングーン空港から北朝鮮の特別機でビルマを離れた)。更に犯人の裁判手続きについても、事前予告があり外交使節の傍聴を認め、時に英語・朝鮮語を用い犯人の裁判理解力を確かめ、メディアに公判結果を詳細に報じるなど、国際社会に対しても公正さを印象づけた。

 

 韓国政府とビルマ政府間の関係も、ビルマ政府の朝鮮民主主義人民共和国に対する断交措置で外交上決着がついたとして、韓国政府は、ビルマ政府に対し、事件の死傷者に対する損害賠償を要求しない方針を採っている。事件の責任につき、ビルマ政府部内では、国防省の情報部長と次長が現職を解かれただけで、政府首脳の辞任はなかった。

 

       参考文献:1983年10月〜1984年2月の日本主要各紙