国際関係・現代史 - タイ・ラオス国境紛争             

        タイ・ラオス武力衝突(1987〜88年)

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●チャワリット内閣

 

 (1996年11月〜97年11月)

 

 タイの第22代首相となったチャワリット・ヨンチャイユット(1932年生まれ)が、率いた内閣。

 

 バンバーン首相(チャートタイ党党首)率いる前政権が内閣解散後、1996年11月17日に行われたタイ下院総選挙で、チャワリット率いる新熱望党が、最大得票125票を獲得(対立するチュアン率いる民主党の得票は123票)。11月25日プミポン国王より第22代首相に任命される。

 

 1997年7月のタイ経済危機の中、1997年11月3日辞意を表明し、退陣した。

 

 チャワリット氏は、1986年5月、プレム首相の下、アチット国軍最高司令官解任後、司令官に任命され、タイ・ラオス武力衝突の解決にあたった。プレム首相下での司令官時代、力をつけ、次の首相候補との声が高かった。

 

1988年5月、軍を退役し、新熱望党を興すが、首相になるには、1996年まで待たねばならなかった。

 

  タイとラオスは、主にメコン河や山脈を境に、1750キロもの国境を接している。1984年にもタイ・ラオス国境線上の3村の領有を巡って両国間で衝突があったが、1987年から88年にかけて起った国境紛争は、一説には双方に7百名ともいう死者が出たという、公式の宣戦布告無しの本格的な武力衝突であった。

  紛争地は、タイ北部のピサヌローク県ルーイ県が、ラオスのサイニャブリー県と国境を接するところで、1370高地、1428高地、1148高地などを含む約70平方キロの山間地。1907年のタイ・フランス条約で国境が確定した事になっているが、この地域については双方が領有権を主張した。タイ側では、この地域をロムクラウ村と呼ぶが、共産ゲリラ勢力が1982年まで勢威を振るい、1982年にタイ軍が新村をつくり、モン(Hmong)族を中心に住ませていた。一方、ラオス側は、同地をサイニャブリー県ボーテン郡ナーボーノイ区内であるとし、自国領である事を主張した。

  1987年5月31日、ラオス軍がこの地域に進み、森林伐採権をタイ側から取得していた製材所のトラクターを焼き、6月1日にはこの地域周辺に進駐したことに、両国の衝突は端を発し、これを排除しようとするタイ軍との間で、以後断続的な衝突が続いた。

  1987年11月から砲撃線が本格化、タイ側は1987年12月15日より空爆を始め、とりわけ1988年2月に入ってからは、ラオス軍の全面排除に動き出し、空と地上からラオス軍の最後の陣地ともいうべき1428高地(海抜約1200m)に激しい攻撃を加えた。1988年2月初には、タイ空軍のジェット戦闘機F5Eが、ラオスのソ連製地対空ミサイルSAM7に撃墜された。当時はカンボジア問題の政治交渉が取りざたされていたが、タイはベトナム軍がラオスに与していると示唆する一方、ベトナム・カンボジアもタイを非難した。激化する戦闘の中、ようやく2月12日ラオスのカイソン首相が停戦呼びかけ交渉を行い、タイのプレム首相がこれに応じた。

  こうして、ラオス人民軍総参謀長のシサワット・ケオブンパン大将(首相府相兼内相)を団長とするラオス軍事代表団が1988年2月16日、バンコク入りし、両国軍首脳協議が、1988年2月16日よりバンコクで行われた。翌2月17日、停戦(19日午前8時を期する)と、停戦発効後48時間以内に兵力をそれぞれ3km後退させることで合意し、終結した。

 1988年2月19日午前8時を持って、停戦が発効し、翌20日から両軍が撤退を始めた。第3国の仲介を借りずに和平達成したわけだが、この時のタイ側の軍代表が、後にタイ第22代首相となるチャワリット陸軍司令官(国軍最高司令官代行)であった。1988年2月23日には、ラオス政府の招きでチャワリット陸軍司令官がビエンチャンを訪問するが、これはタイ国軍の最高指導者がラオスを訪問したのは、1975年にラオスが社会主義化して以来、初めてのことであった。

 両軍代表間による交渉で停戦が合意されたが、国境画定問題を話し合うべく、政府間交渉は、1988年3月、バンコク、更にビエンチャンと開かれるが、進展はみられなかった。

 

 参考図書:

  『Thai-Lao Boundary Disputes』

      (1997年、The Thailand Research Fund)