
昭和59年(1984年)9月14日 朝日新聞 天声人語
ある市で本当に起こったことである。6月から7月にかけて、東南アジアの女性たちが何回
か、県営プールに泳ぎにきた。出稼ぎのホステスたちだった。
やがて「プールで泳いだ子どもたちに性病がはやっている」という悪質なデマが流れだした。
「東南アジアの女性たちがプールをおふろがわりに使っていると聞いた」「○○さんとこの子が
性病にかかったというが、本当か」といった電話である。
遊泳用プールは、厳しい水質基準を守らねばならぬ。殺菌のための残留塩素の量は0.4
ppm以上であることが必要で、この基準が守られていれば、りん病の菌も含めた病原菌は
殺せる。厚生省の話では、基準ができて以来、プールの水が原因で伝染病がひろがった例
はないという。
ホステス→性病→伝染、というのは根拠のない短絡的なデマだったが、保健所は、念のた
め、県営プールの塩素を検査した。十分に殺菌力のあることが証明された。すると今度は
「プールをわざわざ消毒したのは本当か」という問い合わせがあった。月曜は定休日なので
休むと「とうとう閉鎖したのですか」ときいてくる。猛暑だったのに、8月のプール入場者は去年
よりも約5千人も減った。やはりデマの影響だろうか。
デマ発生の底には、生命、健康を脅かすものに対する不安がある。同時に、東南アジアの
出稼ぎ女性に対する偏見や排他意識が根強かったのではないか。だとすれば、東南アジア
の女性たちをめぐって、悪質なデマがこれからも各地に発生するだろう。
もっとも、保健所などへの電話があいついだことは、真相確認の意欲の表れだといっても
いい。役所の側のデマ抑止策は十分だったのかどうか。アメリカには流言パニック防止の対
策室をおく地方自治体もあるという。震災時の準備のためにも、デマ抑止の技術を磨いてお
きたい。