事件ーカンボジア

           日本人文民警察官死傷事件 (1993年5月4日) 

                            

 関連事項

 ●文民警察

 

 UNTACを構成する非軍事部門のひとつで、カンボジアの警察官(約4万人)を監督し、警察行政が民主的に行われるよう助言・指導する。非軍事部門の「選挙監視」と並んで日本の参加が期待された分野で、日本は警察庁、都道府県警の警察官75人を派遣。ほかに40数カ国から約3000人が派遣されていた。

 

 自衛隊施設部隊の本隊がカンボジアに到着した1992年10月14日の午後、文民警察に参加する警察庁と47都道府県警の警察官75人もプノンペンのポチェントン空港に到着。10月17日、75人の配属先が決まり、プノンペンの文民警察本部に隊長の山崎裕人警視正ら4人が詰め、プレイベン、コンポンチャム、アンピル、カンダール、コンポンチュナン、タケオ、コンポントム、シエムレアプの文民警察署に5人から10人ずつが分かれて配置された。

 

 

 ●PKO参加5原則

 

 PKO派遣の前提である5原則は、

 @紛争当事者の間での停戦合意の成立

 A受け入れ国を含む当事者のPKO活動や、日本の参加への同意

 B特定の紛争当事者に偏らない中立性の確保

 C以上の条件のいずれかが満たされない状況が生じた場合、日本独自の判断で撤収可能

 D武器使用を必要最小限に限定

 日本政府は1993年4月8日、コンポントム州で国連ボランティア、中田厚仁氏が襲撃され死亡した際も、「5原則は崩れていない」との立場をとった。

 

●1993年総選挙

 1989年7月に始まったカンボジア和平パリ国際会議は、途中中断後、1991年10月に再開され、1991年10月23日、カンボジアを含む19カ国の代表によりカンボジア和平協定(パリ合意)が調印され発効したが、この和平協定は、国連が組織する選挙で選出された制憲議会が憲法を承認し、立法議会に移行して新政府が樹立されるまでを暫定期間(18ヶ月以内)として国連が暫定的に行政を行うというもので、1992年2月28日、この目的を達成するための機関として国連カンボジア暫定機構(UNTAC)が設立され、1992年3月15日、明石特別代表の着任により、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)による国連の平和維持活動が開始された。ポルポト派の妨害もあったが、1993年5月23日〜28日、ほぼカンボジア全土で、たいした混乱も無く、総選挙が実施された。総議席120のうち、フンシンペック党が58議席、人民党が51議席、その他の政党が残り11議席を獲得。制憲議会が設立され、新憲法が採択され、1993年9月24日、新カンボジア王国憲法が公布されると同時に、シハヌークの国王最即位及び、連立内閣による新政府誕生(第1党のフンシンペック党党首ノロドム・ラナリットを第1首相に、第2党の人民党党首フンセンを第2首相とする)

 

 

 1993年5月4日昼過ぎ、タイ国境に近いカンボジア北西部のバンテアイミアンチェイ州アンピル村で、同村に駐在している国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の日本人文民警察官5人が、UNTACオランダ海兵隊部隊の護衛を受け、文民警察専用車など車両6台の編成でパトロール巡回し国道691号を移動中に、身元不明の武装集団に襲われ、1人が死亡、4人が負傷した。

 

 10数人とみられる武装集団の一味は、先頭の車両にB40型対戦車ロケット弾を連射、車列が停止すると、自動小銃で一斉射撃を浴びせた、オランダ海兵隊も応射したが、攻撃が激しく、現場で高田晴行・岡山県警警部補(33)が死亡。八木一春警部補(37)<宮城県警>と谷口栄三郎巡査部長(32)<石川県警>が重傷を負い、ヘリコプターでバンコク市内のプミポン空軍病院に運ばれ治療を受けた。また川野辺寛警部(44)<神奈川県警>と鈴木宣明巡査部長(34)<神奈川県警>も軽傷を負い、護衛のオランダ海兵隊員5人も負傷した。

 

 日本の文民警察官がカンボジアで事件に遭ったのは、1993年1月12日にシエムレアプ州の文民警察宿舎が襲撃されたが日本人文民警察官5人は休暇中で難を逃れた事件、1993年4月14日にアンピルでパトロール中の平林新一警部補(38)=警視庁=が強盗に遭い、現金と車を奪われた事件に続き3件目。カンボジアに駐在する日本人が死亡したのは1993年4月の国連ボランティアの中田厚氏(当時25歳)以来、2件目。公務中の日本人UNTAC要員の死亡は初めて。

 

 高田警部補は1982年専修大卒、同年4月岡山県警入り。岡山東署、井原署で勤務。機動隊に所属していた1992年10月、文民警察官に応募し、総理府の国際平和協力隊員に採用。10月14日、カンボジア入りしていた。高田警部補は、妻(31歳)と長男(3歳)、次男(1歳)の4人家族で留守宅は岡山市の県警公舎。

 

 カンボジア北西部のアンピル村で武装集団の攻撃で即死した高田警部補の遺体は、ヘリコプターでカンボジア北西部の町シソポンからタイ国境の町ポイペトに向かって約20キロの二マット村のオランダ軍駐屯地まで運ばれたのち、UNTACの輸送機でバッタンバンに到着。さらに5月5日午後4時前、バンコクに移送され、プミポン空軍病院に収容され、高田警部補の遺族(妻、父、母)が岡山から東京に出た後、5日深夜バンコクに入り、病院に安置された遺体と対面した。日本政府が派遣した国連平和維持活動(PKO)要員で初の犠牲者となった高田警部補(警視に特進)の遺体は7日朝、日航機での遺族とともにバンコクから大阪空港に到着。午後、車で郷里の岡山県倉敷市に向かった。

 

 カンボジアで国連平和維持活動(PKO)に従事していた文民警察官が殺傷されるという事態に、日本政府は、河野洋平官房長官が5月4日の緊急記者会見で、現時点でパリ和平協定の枠組みは崩れておらず日本のPKO派遣の前提である停戦合意など「五原則」は維持されているとの見解を示し、自衛隊や警察官など国連平和維持活動(PKO)要員を撤収する考えはないと述べた。

 

 河野官房長官を本部長にして設置された国際平和協力業務安全対策本部の初会合が5日午前開かれたが、会議終了後の記者会見でも、カンボジアでの今後の国連平和維持活動(PKO)政策について「UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)を支えながらパリ和平協定の取り決め通り選挙をやり抜いていくことが、カンボジアの永続的和平を築くうえで、どうしても通らなければならない第一歩」と継続していく考えを示すとともに、「我々が国際貢献のために懸命に努力している今が一番大事な場面だ」と強調。

 

 明石特別代表の国連カンボジア暫定機構(UNTAC)による国連のカンボジア平和維持活動に対し、日本は、1992年6月15日、自衛隊の海外派遣を可能にする「国連平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO協力法)を成立させた後、国連の要請に受けて、停戦監視、文民警察、選挙および道路・橋などの修理などの後方支援の各分野の協力を行う事を決定し、停戦監視要員(1992年9月〜1993年9月、第1次・第2次、それぞれ8名の自衛官計16名)、文民警察要員(1992年10月〜1993年7月、当初75名の警察官)、陸上自衛隊の施設部隊(1992年9月〜1993年9月、第1次・第2次、それぞれ600名の計1200名の自衛隊員を派遣)をカンボジアに派遣していたが、本事件後も撤退することなく任務を満了した。

 

 また、5月12日にカンボジアに派遣予定であった選挙監視要員(41名:国家公務員5名、地方公務員13名、民間人33名)についても本事件後予定通りカンボジアに派遣し、1993年5月23日〜28日、ほぼカンボジア全土で、たいした混乱も無く、総選挙が実施された。総議席120のうち、フンシンペック党が58議席、人民党が51議席、その他の政党が残り11議席を獲得。制憲議会が設立され、新憲法が採択され、1993年9月24日、新カンボジア王国憲法が公布されると同時に、シハヌークの国王最即位及び、連立内閣による新政府(第1党のフンシンペック党党首ノロドム・ラナリットを第1首相に、第2党の人民党党首フンセンを第2首相とする)が誕生した。

 

   参考: 毎日新聞1993年5月5日(水曜)1面トップ

         毎日新聞1993年5月5日(水曜)3面(総合 ニュースの焦点)