「毛沢東暗殺」
祥伝社ノン・ポシェット、1998年(作品は1995年祥伝社ノン・ノベルから発行)
新聞記者時代、「林彪事件」の公式発表に疑問を抱いた中堅作家・杉江は、この文革最大の謎を秘めた事件を徹底的に追跡し検証するために18年の時を経て、第2次天安門事件を2ヶ月後に迎えることになる1989年4月北京に飛んだ。そして取材を進めるうちに、現代中国を揺るがす驚愕の真相に突き当たった!
主たる登場人物:杉江恭治、陳君(国家安全部の美女)、超方便(林彪事務室機密秘書)
結城拓三(内閣官房内閣調査室中国班副班長、上海の東亜同文書院出身)
由良保(中央日報北京支局長)、孫麗華(北京大学史学系学生) など
ストーリー展開時代:1971年9月、1989年4月〜6月
ストーリー展開場所:河北省山海関、青森県三沢、深圳、香港、東京、北京、上海、広州、
・林彪はモンゴルで墜落した飛行機に本当に乗っていたのか?
・もし黒焦げの死体が、林彪ではなく別人であったら、林彪は何時誰にどのようにして殺されたのか?
・そもそも「林彪事件」とは反革命クーデターだったのか?毛沢東暗殺計画とはどのようなものであったのか?
・キッシンジャー米大統領補佐官訪中(71年7月)から米中国交回復を進める周恩来と、ソ連重視の林彪との対立は?
・江青、張張橋、姚文元、王洪文の「四人組」、林彪一派、周恩来派(葉剣英も?)、毛沢東派それぞれの関係は?
・解放後は鳴かず飛ばずの状態が続いた林彪が、廬山会議で彭徳懐が失脚して以来目覚しい台頭を見せた原因は?
・毛沢東、周恩来と指揮系統がしっかりしていた党中央が、71年国慶節前夜の恒例の3紙誌共同社説の発表を見送ったり、
友好国や友好組織に「林彪失脚」をすぐに通知できなかったほど、混乱していた理由は何か?
・1935年の遵義会議で初めて主導権を確立する毛沢東にとって、毛体制確立・堅持へのライバルは?彼らへの対応は?
・林彪(1908〜1971) 湖北省黄安県出身。1924年黄埔軍官学校入学、25年共産主義青年団に加入。28年南昌蜂起に参加、28年井岡山で紅軍建設に加わり、抗日戦では37年9月板垣師団を山西省東北の要衝・平型関(林彪指揮下の八路軍が、日本軍補給部隊を攻撃、全滅させた。八路軍最初の勝利で抗日の機運が高まった)に破ったことが有名。1954年国務院副総理・国防委員会副主席、56年中共第8期中央委員・同政治局委員、58年中央委副主席・政治局常務委員に選ばれた。59年彭徳懐(1897〜1974 湖南省出身。抗日戦では八路軍副総司令)国防部長が、毛沢東路線と対立し失脚した後、国防部長に就任。文化大革命の強力な推進者で、69年4月の中共9全大会で毛沢東の後継者に指名された。しかしその後の対外路線をめぐる対立に加えて、林彪が70年9月の第9期中央委員会第2回総会で国家主席(68年11月劉少奇失脚後、空席)就任を要求したことで党内対立が深まり、1971年9月、追い詰められた林彪らは毛沢東(1893〜1976)を打倒するクーデターを計画。これに失敗した林彪はソ連に逃亡途中、乗機がモンゴル人民共和国領内(ヘンティ省ウンデルハン近く)で墜落し死亡したと、のちに公表される(詳細な真相は不明)
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