メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る

           ー メコン圏に関わる日本人歴史人物−

 

 

 

 ■メコンプラザ情報DB:

 

 「荒木宗太郎」

 

 

 

         荒木宗太郎と安南国王女

 

 

 異国渡海の朱印状は、文禄元年(1592)に、豊臣秀吉が長崎、京都、堺の8人の豪商に授けたのが最初であるが、その8人の豪商のうちの一人が長崎在住の荒木宗太郎(?〜1636年)。荒木宗太郎は、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャムや安南地方に数度貿易船を出した。ちなみに最初に朱印状を授けられた8人の豪商とは、長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋であった。

 

 荒木宗太郎は生年月日も不祥であり前半生はよくわかっていないが、肥後熊本の武士だったが、1588年(天正16年)ころ、長崎に移り、武士をやめて商人になったといわれる。異国交易で賑わう長崎で交易商売に眼をつけ、船乗りとなり、やがて船主として財を成し、朱印船制度の創設と共に朱印船主に選ばれるほどの豪商となった。

 

 その後も荒木宗太郎は徳川幕府よりたびたび朱印状を受け、1606年(慶長11)から1632年(寛永9)にかけて、シャム、交趾などの各地に6回にわたって朱印船を派遣した。使用人や親族を船に乗り組ませ、自分は資金を出すだけという他の多くの朱印船主と異なり、荒木宗太郎は船主であっただけでなく、船長となり、自らも乗船し、朱印船を率いて渡海した。この種の事業家は当時は直乗り船頭と呼ばれて船乗りの間で尊敬された。

 

 当時のヴェトナムは、1428年に明の支配を脱して興った後黎朝のもとにあったが、混乱が続き、ハノイを中心とした北部は鄭(チン)氏が、フエを中心とした中部は阮(グエン)氏が実権を握り、南北に分裂し、この鄭氏と阮氏との対立は約200年にわたって続くことになる。日本では北部ヴェトナムの鄭氏政権を東京(トンキン)と呼び、中部ヴェトナムの阮氏政権を交趾または広南国[クアンナム]と呼んでいたが、荒木宗太郎は、広南国王の阮福源に深く信頼されていたとみられる。後に荒木宗太郎は阮氏の親族に加えられることになり、阮太郎と称したと伝えられている。

 

 荒木宗太郎の注目すべき事蹟の一つとして、元和5年(1619)、阮氏の娘、王加久戸売(オウカクトメ)を嫁に迎え、現地妻として現地に置くのではなく、自分の朱印船に乗せて長崎に連れて帰り、自分の長崎の屋敷に住まわせて、その生涯を正妻として日本で全うさせたということが挙げられる。この女性は、長崎の人々から本名でなく「アニオーさん」と呼ばれて親しまれ、夫・宗太郎の死後、1645年(正保2)に長崎で没している。

 

 このアニオーというのはどういう意味なのか、諸説あるようであるが、最も説得力があるのは、アインオーイ、もしくはアニョオーイという王加久の口癖が長崎の人々の耳に残り、語り伝えられて「アニオーさん」になったとする説。アインというのはベトナムで夫や兄、伯叔父などの男性に対して使う敬語であり、オーイというのは呼びかけの言葉で、これは、『朱印船時代の日本人』(小倉貞男 著、中公新書、1989年)で紹介されている説。

 

 尚、荒木宗太郎は元和9年(1623年)、再び広南へ渡海したが、その折に妻アニオーを同乗させていない。荒木宗太郎と妻の王加久の間には、一人娘が生まれ、名は家須(やす)といい、アニオーさんは、長崎・飽の浦の屋敷で一人娘を育てるものの、アニオーさんは一度も故郷に帰ることなく長崎で生涯を終えている。

 

      

  主たる参考引用文献:

      『海のサムライたち』 (白石一郎 著、NHK出版)