第19回
岩倉使節団『米欧回覧実記』とサイゴン
岩倉使節団は、明治維新政府が誕生して間もない新生日本の草創期の明治4年(1871年)から明治6年(1873年)まで、明治政府の実力者を多く含む大型使節団が1年10ヶ月にわたり、アメリカからヨーロッパ、さらにロシアを含めて12カ国を巡遊し、博大な見聞と体験をした。岩倉使節団の目的は、大きく分けて3つあり、(1)条約締結国を歴訪して、元首に国書を捧呈し、聘問の礼を修める事 (2)廃藩置県後の内政整備のため、欧米先進諸国の制度・文物を親しく見聞して、その長所を採り、日本の近代化をすすめること (3)明治5年5月26日(陰暦)が条約の協議改定期限に当たるので、それまでに日本の希望するところを締盟各国と協議すること、にあった。
この使節団は、当時太政官政府の副首相格で、かつ断然たる実力者であった右大臣・岩倉具視を特命全権大使とし、副使に、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳の4人を配して、書記官、理事官らを加えた、46人という多勢で編成された(使節団以外に、大使・福使の随従者、理事官随行者、留学生など多数の同行者あり)。1871年12月23日(旧暦明治4年11月12日)に横浜を出発し、1873年9月13日に横浜に帰着という632日間の長旅で、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、プロイセン、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、スイスの12カ国を公式訪問し、それらの国々の自然、資源、民族、社会、政治、法制、経済、産業、技術、軍事事業、商業・貿易、教育、文化などの事情を可能な限り詳しく観察して回った。
この岩倉使節団の半ば公式日誌・記録にあたるものが、『特命全権大使 米欧回覧実記』(久米邦武編著)。岩倉大使随行として一行と行動をともにした久米邦武(当時は、権少外史。佐賀藩出身。1839年~1931年)が太政官少書記官として編修し、太政官記録掛刊行」として、博文社から1878年(明治11年)出版されたもの。全100巻、5冊(第1編~第5編)、2110ページにおよぶ洋装本で、漢文訓読体で書かれていている。
欧米12カ国の公式訪問も終えた岩倉使節団は、明治6年(1873年)7月20日、マルセーユを郵船「アウア」号で帰国の途に発ち、地中海からスエズ運河(1869年に開通したばかり)を通過、紅海を経てセイロン島に至り、マラッカ海峡からシンガポールを経由、サイゴン、香港、上海へと立ち寄り、上海で郵船「ゴルテンエン」号に乗り換え、長崎、神戸に寄航して、1873年9月13日、横浜港に帰着した。この帰航期間については、『特命全権大使 米欧回覧実記』(久米邦武編著)第5編の第94巻から第100巻に記されている。
1873年8月18日にシンガポールに着いたものの、コレラが流行しているので上陸はせず港口に停泊し、19日朝シンガポールを発ち、21日、サイゴン川河口に停泊。8月22日朝、サイゴン川を遡ってサイゴンに到着。サイゴンでは上陸し、市内見学し、船中に一泊。8月23日、サイゴン川を下り、香港に発っている。このサイゴン上陸、市内見学の様子は、『特命全権大使 米欧回覧実記』(久米邦武編著)の第99巻に書かれている。サイゴン川がメコンに次ぐ大河というような明らかな誤りがあり、仏領インドシナと安南を混同しているようで、また地域区分にも間違いが見られるものの、いろいろと興味深い記述も少なくない。1873年8月22日のサイゴン市内見学の記述の一部は、以下の通りで(水澤周氏による現代語訳)、この記述の後に、”安南国ノ略説”も付していて、ここの概説も面白い。ベトナム中部のアンナン(狭義)の箇所では、”・・処処ニ風景佳美ナル地多シ、其民種ハ色黒カラス、婦人ノ丰姿甚タ姣美ナリ、眼睛浄ク、鬒髪黒ク且直シ・・・”と、ベトナム女性の容姿は大変美しいと書いている。
”・・・市域は広々とした平地で道幅も広いが、路面は整備されていない。路上に木が生え、草もぼうぼうと生えている。平らな道なのに車はスムーズに動かない。外国人居留地はやや整っていて、道路の縁石を置き、レンガが敷いてある。建築は三階建ての真っ白な建物で、アジア風が入った欧州風である。立て込んだ商店街はなく、河岸に小さな家々が並んでいるが、草葺きの貧弱な家で、ヤシの葉を編んで屋根や壁にしている家もある。しかしセイロンのゴールの人家に比べるとずっと建て方が上手である。ちゃんとした家は瓦葺きである。赤瓦を使っているが、葺き方はわが国と同じで、ヨーロッパより却って上手である。川沿いのところは水面に家を張りだしたり、舟そのものを家としているところもある。陸地の小屋の前後の庭は乱雑で、アヒルや豚の囲いと接しており、家畜の足跡だらけのところに家族が平気で一緒に住んでいる。中国系の人々が不潔を厭わないのは不思議なほどである。かつて長崎に来た外国人たちは、日本人は潔癖であると言った。長崎は特に整った清潔な町ではないのにそのように評価するのは、西洋がきっと不潔だからであろうと思っていた。しかし、いまになってわかったことだが、西洋人のその批評は、中国人と比べての評価だったのである。しかし日本人の清潔好きは、欧州に負けない。
サイゴンの人口は18万人で、中国系が最も多い。マレー人、シャム人、ヨーロッパ人が雑居しており、さまざまな人種がいる。原住民の骨格は日本人に似ているが、鼻が低く、平らな顔をしている。髪は黒く真っすぐで男は髭が少ない。下層の人々は男女ともにビンロウ樹の葉を噛むので葉が真っ黒になっており、まるで鉄漿を塗ったようである。下層民は男女とも同じ服装なので、ほとんど見分けがつかない。頭髪はくしけずって頭のてっぺんで結んでいる。帽子はないが、時に笠を被る。やや上層の階級では、婦人は髷を結う。なかなか丁寧な結髪である。衣服は筒袖で襟はわが国の雨合羽のようだ。右前に合わせ、肩や脇で二三箇所紐で結ぶ。上着の長さは脚の部分にまで達する。腰から下を裂いているのでその部分がひるがえる。これが男性の服である。女性は袖も長くしているので、これが腰下のスリットとともにひるがえる。頭は髷のうえに笠を被っている。一般的に裸はいないがはだしは多い。シャム人は色がより黒く、肌のキメが粗く、鼻は幅が広くて低い。口が大きくて唇は厚く、目付きは鋭い。大変頑健である。マレー人種は鼻が高く、目が鋭く、口は大きくない。痩身で、精悍な体つきである。みな頭に布を巻いて帽子の代わりにしている。シャムとマレーの両人種は勇敢であるが短気で怒りっぽい。言葉も激しく、容易に屈服させることはできない。少しでも我慢できないことがあると、たちまち歯噛みして激怒するのである。
この街で貿易や商売をしているものは中国人が多い。市内で見るべきものは、道教などの廟であろう。その建築は欧州の建物のように高層ではないが、瓦屋根で床は石畳やタイルを敷き、竜の彫刻を施したりして飾っている。また、カトリックの教会もある。造船所や病院、穀物の倉庫などがあるがいずれも大したものではない。植物園がある。その地域は広大で、手入れは十分ではないが、熱帯なので樹木は大きく、香り高い花が咲き乱れ、珍しい花や植物は数え切れないほどである。榕樹の根の周りは十抱えほどもあるし、ショロの葉は広く蔭を落とし、太ももほどもある竹がある。
馬車を走らせて「新隆」という南部の新開地を訪ねた。ヨーロッパ人はここをショロンと呼んでいる。そこまでの距離は五キロほどであったが、平地ではあるけれども道は良くない。まあ車を走らせることはできた。途中の田園を見ると蔓草を編んだ垣根があったり、潅木の林があったり、大木があって蔭を投げかけたりしている。稲田やバナナ畑、ヤシの林などがあり、背の高いシュロがほかの広葉樹と混ざって植えられている。松、杉、椋、槐、榎、樫のたぐいはない。カクタスという、サボテンの一種がある。ヨーロッパではこれは温室で育てて珍重しているのだが、ここでは野生で、誰も顧みるものもない。田畑は非常に肥沃だというほどではない。サトウキビやコーヒーを植えた畑もある。畑の中に墓があり、二つ、三つと並んだ墓地が方々にある。安南も中国同様縁起をかつぐ。墓地の地相を占って田園の一角を墓地として葬るのである。だから至るところに墓がある。よくない風習だと言えるであろう。途中で懲役刑の服役者たちを見た。警官が護衛しており、数十人の服役者が隊伍を組んでいる。ヤシの葉の笠を被っており、中には伽を着けられているものもあった。中国人が多かった。このあたりにはフランスの兵営がある。
「新隆」は数千戸の街である。市街は汚く見るに足りない。「穂城会館」という西王母を祭った廟がある。その左には関帝廟が、そして右には財発神の廟がある。中国人が建てたもので、その建築は精巧をきわめている。壁はタイルである。青黒いたいへん堅いタイルで、欧州のタイルよりも堅く品質がいいであろう。屋根を瓦で葺くのは日本と同様だが、棟には陶器の竜を置き、庇は平らな磁器に絵を染め付けたもので飾っている。咸豊戊午、粤東沈玉造という銘が入っている。庭はみな石で畳み、屋内は平瓦を敷いてあるが、その瓦はたいへん堅牢である。
この土地には生糸工場がある。フランス人がここに養蚕業を起こすことに関心を持っているのであろう。安南糸の性質については聞かなかったがインド産のものと同様のものではないだろうか。
午後六時、オテル・ド・ユニヴェールに帰り、夕食を摂った。料理の美味なこと、接待の行き届いていること、まるで欧州大陸にいるような思いがした。マンゴスティンと呼ばれる果物が出た。マンゴスティンというのは果物の最上のものと言われる。その様子は、皮は石榴の皮のようで黒紫色をしており、小さい。これを割ると中に白色の果肉がある。五つ房が集まって、梅花紋<ふくら梅>のような形をしている。房の中に果汁がある。甘く、かすかに酸味を帯び、たいへんたっぷりしていて口に入れるとすっと融けてしまう。この果物は長く貯蔵できない。一週間で味がなくなる。ヨーロッパ人は快速船で欧州に運ぼうと計画したのであるが、できないのだそうである。そのほかライチー、パイナップル、バナナ、西瓜など、どれも美味でないものはない。
<*原文では、マンゴスティンを「マングスタン」と記している>
ここではフランスの通貨とともに英国の通貨が通用する。また市内では中国式の四角い穴の開いた銭をサシに差したものを見た。看板や道標などに漢字を用い、朱の紙に書かれたおめでたい聯が家々の門に張ってあるので、人情などもよくわかり、ここも異国語の世界であることをふと忘れ、自国に帰り着いたような思いがした。これは漢字という象形文字のお蔭と言えるであろう。アヘンを販売しているという看板を見かけた。官許によって売っているもののようだ。この日は曇りで、日差しは強くなく、幸い30℃の気温だったが、通常の日の暑さはどんなものか、恐ろしいものと想像される。・・・・・・・”
主たる参考文献:
『岩倉使節団 『米欧回覧実記』』(田中彰、岩波書店 同時代ライブラリー)
『特命全権大使 米欧回覧実記』【全5冊】(久米邦武 編、田中彰 校注、岩波文庫)
『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』
(久米邦武 編著、水澤 周 訳注、慶應義塾大学出版会)
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