第16回
清水次郎長(1820~1893)と六昆王・山田長政
講談、浪曲、映画、劇、テレビ、小説等によって日本人にはお馴染みのヒーローである清水の次郎長は、幕末には東海道の大親分とうたわれた侠客で、次郎長こと本名・山本長五郎は、文政3年(1820年)1月1日、駿河国有度郡清水町美濃輪に生れる。生家は、薪炭を商う薪三。船持船頭三右衛門の二男(4人兄姉の末っ子)として生れ長五郎と名づけられたが、妻の弟で同じ清水港で大きな米屋を営んでいる、甲田屋(米穀商)、山本次郎八の養子となり、「次郎八の子供の長五郎」を略して「次郎長」と呼ばれた。
養父亡き後、次郎長は家業の米屋に精を出すも、やがて賭場通いに明け暮れ、1842年(天保13年)、甲田屋を姉夫婦に譲り、妻やきょうだいと離別し、資産も捨て「無宿者」となって故郷の清水港を離れ、「侠客」となって身をたてようと、旅から旅のアウトローの世界に入ることになる。しかし明治維新の動乱期に、清水次郎長は、幕臣から転じて天皇の侍従まで務めた山岡鉄舟(1836年~1888年)の知遇を得たことで転機が訪れ、駿府周辺の沿道警固を任じられたり、咸臨丸事件、大政奉還後、静岡に閉居した徳川慶喜の身辺警固、富士山麓の開墾、石油発掘、英語塾開校、日露戦争の軍神・広瀬武夫中佐との交流などと、明治期に入っての後半生も波乱に満ちている。
清水次郎長は、1893年(明治26年)6月12日、病気で亡くなるが(享年74歳)、亡くなる1年前の1892年(明治25年)に、山田長政顕彰碑建立のために駿府城内に大相撲興行を催している。明治になってから静岡人は、郷土の生んだ英雄・山田長政をなんとか顕彰しようと、記念碑もしくは銅像を建立しようとしたが、なかなか実現にいたらなかった。清水の次郎長は、駿府生まれで江戸初期にシャムに渡り活躍しついに六昆王(リゴール国王)に任じられたとされる山田長政(1590年~1630年)を尊敬していたとのことで、自ら動いて山田長政の銅像を建立しようとした。当目の岩吉を連れて上京し、時の外務大臣・榎本武揚に会って、山田長政の銅像建立の趣旨を説明し、その援助をあおいだ。榎本は即座に了承して、多数の扇に揮毫し、さらに金一封を寄贈した。ついで次郎長は、静岡の旧城内本丸跡地で、義捐大相撲の興行を行おうとした。東京相撲の高砂、雷の両取締と掛け合う。そして交渉は成立して、1892年(明治25年)7月25日に大相撲の興行することになった。
清水次郎長は、この大相撲の興行収入を基金として、榎本の寄付金、扇の売上げ、一般からの寄付金等で、山田長政の銅像を建立しようとした。「山田長政銅像建立義捐大相撲」と銘打って行われた興行は、かなりの成績をあげたが、東京から大相撲の一行を呼んだため、旅費、宿泊料などの経費が意外にかさみ、この興行だけでは銅像を建てる資金には足りなかった。さらに方々から寄付金を集めようとしたが、翌年(1893年)、次郎長が死んでしまい、銅像の建立は日の目を見なかった。
尚、その後、1932年(昭和7年)になって、静岡市大浜海岸の公園前に、甲冑姿の山田長政のコンクリート像が建立されたが、戦後、いよいよアメリカ軍が静岡市へ進駐してくるという前夜、何者かによってあとかたなく取り除かれた。一方、清水次郎長の銅像建設計画が昭和になり進み、1928年(昭和3年)、山田長政の銅像よりも先に、清水梅蔭寺に建立された。この銅像も戦争で、1945年(昭和20年)の正月に一旦は供出させられたが、次郎長の60年忌を記念して再建されている。
江戸時代に出された山田長政に関する幾多の著作は、いわゆる口碑の類であるが、江戸時代を過ぎて、明治時代になってからの山田長政研究の第一人者は、関口隆正。関口隆正は、明治になっての初代静岡県知事、関口隆吉の女婿であり、1892年(明治25年)に、『山田長政事蹟考』『山田長政本伝』(漢文)の二書を著している。関口隆吉は、山岡鉄舟とは真の盟友で、清水次郎長が井ノ宮の監獄に懲罰7年の刑で服役中、山岡鉄舟と工作して1年8ヶ月で仮釈放させたのも関口隆吉であり、また釈放後も生活の安定を計らせようとして、汽船宿末広を山岡鉄舟と相談して開業させたのも関口隆吉と、次郎長とは一面識もなかったのに、山岡鉄舟の言を信じて、次郎長のために親身になって面倒を見たが、1889年(明治22年)、開通直前の東海道線での事故で亡くなった。
主たる参考文献:
『ドキュメント 明治の清水次郎長』(江崎 惇 著、毎日新聞社、1986年10月)
『清水次郎長と明治維新』(田口英爾 著、新人物往来社、2003年7月)
『史実 山田長政』(江崎 惇 著、新人物往来社、1986年1月)
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