メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る 第16回

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■次郎長一家
 (28人衆
  

 (実在しない人物も含む)

 ・次郎長

 ・大政

 ・小政

 ・森の石松

 ・増川の仙右衛門

 ・大瀬の半五郎

 ・法印の大五郎

 ・小松村の七五郎

 ・桶屋の鬼吉

 ・大野の鶴吉

 ・相撲の常吉

 ・関東の綱五郎

 ・寺津の勘三郎

 ・追分の三五郎

 ・国定の金五郎

 ・舞坂の富五郎

 ・田中の敬次郎

 ・三保の松五郎

 ・四日市の敬太郎

 ・問屋場の大熊

 ・清水の岡吉

 ・鳥羽の熊

 ・辻の勝五郎

 ・伊達の五郎

 ・由比の松五郎

 ・吉良の勘蔵

 ・興津の清之助

 ・吉良の仁吉


      第16回
  
清水次郎長(1820~1893)と六昆王・山田長政

         

 

 講談、浪曲、映画、劇、テレビ、小説等によって日本人にはお馴染みのヒーローである清水の次郎長は、幕末には東海道の大親分とうたわれた侠客で、次郎長こと本名・山本長五郎は、文政3年(1820年)1月1日、駿河国有度郡清水町美濃輪に生れる。生家は、薪炭を商う薪三。船持船頭三右衛門の二男(4人兄姉の末っ子)として生れ長五郎と名づけられたが、妻の弟で同じ清水港で大きな米屋を営んでいる、甲田屋(米穀商)、山本次郎八の養子となり、「次郎八の子供の長五郎」を略して「次郎長」と呼ばれた。

 

 養父亡き後、次郎長は家業の米屋に精を出すも、やがて賭場通いに明け暮れ、1842年(天保13年)、甲田屋を姉夫婦に譲り、妻やきょうだいと離別し、資産も捨て「無宿者」となって故郷の清水港を離れ、「侠客」となって身をたてようと、旅から旅のアウトローの世界に入ることになる。しかし明治維新の動乱期に、清水次郎長は、幕臣から転じて天皇の侍従まで務めた山岡鉄舟(1836年~1888年)の知遇を得たことで転機が訪れ、駿府周辺の沿道警固を任じられたり、咸臨丸事件、大政奉還後、静岡に閉居した徳川慶喜の身辺警固、富士山麓の開墾、石油発掘、英語塾開校、日露戦争の軍神・広瀬武夫中佐との交流などと、明治期に入っての後半生も波乱に満ちている。

 

 清水次郎長は、1893年(明治26年)6月12日、病気で亡くなるが(享年74歳)、亡くなる1年前の1892年(明治25年)に、山田長政顕彰碑建立のために駿府城内に大相撲興行を催している。明治になってから静岡人は、郷土の生んだ英雄・山田長政をなんとか顕彰しようと、記念碑もしくは銅像を建立しようとしたが、なかなか実現にいたらなかった。清水の次郎長は、駿府生まれで江戸初期にシャムに渡り活躍しついに六昆王(リゴール国王)に任じられたとされる山田長政(1590年~1630年)を尊敬していたとのことで、自ら動いて山田長政の銅像を建立しようとした。当目の岩吉を連れて上京し、時の外務大臣・榎本武揚に会って、山田長政の銅像建立の趣旨を説明し、その援助をあおいだ。榎本は即座に了承して、多数の扇に揮毫し、さらに金一封を寄贈した。ついで次郎長は、静岡の旧城内本丸跡地で、義捐大相撲の興行を行おうとした。東京相撲の高砂、雷の両取締と掛け合う。そして交渉は成立して、1892年(明治25年)7月25日に大相撲の興行することになった。

 

 清水次郎長は、この大相撲の興行収入を基金として、榎本の寄付金、扇の売上げ、一般からの寄付金等で、山田長政の銅像を建立しようとした。「山田長政銅像建立義捐大相撲」と銘打って行われた興行は、かなりの成績をあげたが、東京から大相撲の一行を呼んだため、旅費、宿泊料などの経費が意外にかさみ、この興行だけでは銅像を建てる資金には足りなかった。さらに方々から寄付金を集めようとしたが、翌年(1893年)、次郎長が死んでしまい、銅像の建立は日の目を見なかった。

 

 尚、その後、1932年(昭和7年)になって、静岡市大浜海岸の公園前に、甲冑姿の山田長政のコンクリート像が建立されたが、戦後、いよいよアメリカ軍が静岡市へ進駐してくるという前夜、何者かによってあとかたなく取り除かれた。一方、清水次郎長の銅像建設計画が昭和になり進み、1928年(昭和3年)、山田長政の銅像よりも先に、清水梅蔭寺に建立された。この銅像も戦争で、1945年(昭和20年)の正月に一旦は供出させられたが、次郎長の60年忌を記念して再建されている。

 

 江戸時代に出された山田長政に関する幾多の著作は、いわゆる口碑の類であるが、江戸時代を過ぎて、明治時代になってからの山田長政研究の第一人者は、関口隆正。関口隆正は、明治になっての初代静岡県知事、関口隆吉の女婿であり、1892年(明治25年)に、『山田長政事蹟考』『山田長政本伝』(漢文)の二書を著している。関口隆吉は、山岡鉄舟とは真の盟友で、清水次郎長が井ノ宮の監獄に懲罰7年の刑で服役中、山岡鉄舟と工作して1年8ヶ月で仮釈放させたのも関口隆吉であり、また釈放後も生活の安定を計らせようとして、汽船宿末広を山岡鉄舟と相談して開業させたのも関口隆吉と、次郎長とは一面識もなかったのに、山岡鉄舟の言を信じて、次郎長のために親身になって面倒を見たが、1889年(明治22年)、開通直前の東海道線での事故で亡くなった。

 

      

   主たる参考文献:

     『ドキュメント 明治の清水次郎長』(江崎 惇 著、毎日新聞社、1986年10月)

     『清水次郎長と明治維新』(田口英爾 著、新人物往来社、2003年7月)

     『史実 山田長政』(江崎 惇 著、新人物往来社、1986年1月)