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ウルグアイ・ラウンド年表
▼1986年9月
ウルグアイのブンタデルエステで交渉始まる。期限は1990年末までの4年間と決定。
▼1988年9月
日本、衆参両院でコメの自由化反対の3度目の国会決議
▼1988年12月
モントリオールで中間見直し会合
▼1990年7月
ヒューストン・サミットで新ラウンドの年内合意を確認。農業分野でのアメリカ・ECの対立表面化
▼1990年12月
ブリュッセルで閣僚会議。アメリカ・ECの農業分野での対立解けず合意ならず。交渉延長。
▼1991年7月
ロンドン・サミットで年内合意を表明。
▼1991年12月
ガット・ドンケル事務局長(当時)が包括協定案を提示。コメを含む例外なき関税化を盛り込む。
▼1992年3月
日本など保護削減と市場開放計画の国別表を提出。コメなどは空欄に。
▼1992年5月
ECが共通農業政策の改革で合意。
▼1992年7月
ミュンヘン・サミットで三たび年内合意を表明。
▼1992年11月
アメリカ・ECの農業交渉が基本合意(ブレア・ハウス合意)
▼1993年1月
アメリカ、クリントン政権が発足。
▼1993年6月
アメリカ議会が一括審議条項(ファストトラック)を延長。実質交渉期限は12月15日となる。
▼1993年7月
東京サミットで、4回目の年内合意を表明。サザーランド氏がガット事務局長に就任。
▼1993年8月
細川政権が発足。
▼1993年9月
日本、コメ大凶作が確定。緊急輸入を決定。
▼1993年10月
サザーランド事務局長が来日。年内決着を強調。
▼1993年11月
アメリカ議会、NAFTA(北米自由貿易協定)を批准。
▼1993年12月6日
アメリカ・ECが農業分野で合意。
▼1993年12月8日
ドニ市場アクセス議長が、6年間のコメ関税化猶予を盛り込んだ最終調停案を発表。
▼1993年12月14日
日本、コメ部分開放宣言。
▼1993年12月15日
貿易交渉委員会で、最終の協定案を採択。交渉決着。
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第17回
平成コメ凶作とタイコメ騒動
⇒情報DB「平成タイ米騒動」
1993年秋の日本は、夏の深刻な冷害と台風の相つぐ襲来で、大凶作となって、全国平均の作況指数が74までに落ち込んだ。作況指数とは、平年を100とた場合のコメの作柄を示す指数で、106以上が「良」、102~105が「やや良」、99~101が「平年並み」、95~98が「やや不良」、91~94が「不良」、90以下が「著しい不良」と規定されている。1993年の作況指数74という数字は、昭和に入って以降の作況指数では、敗戦の年の1945年の67を除き、最低であった。
コメの作況指数(対平年比 ○印は戦後最悪) 全国 ○74
北海道○40 青森○28 岩手○30 宮城○37 秋田○83 山形○79
福島○61 茨城86 栃木81 群馬81 埼玉93 千葉88 東京94
神奈川98 新潟98 富山87 石川88 福井89 山梨80 長野78
岐阜84 静岡98 愛知94 三重89 滋賀89 京都89 大阪96 兵庫94
奈良96 和歌山96 鳥取82 島根○79 岡山92 広島86 山口80
徳島87 香川92 愛媛92 高知90 福岡74 佐賀77 長崎75 熊本○77
大分77 宮崎83 鹿児島75 沖縄108
この大凶作により、9年ぶりにコメを外国から緊急輸入することになり、1993年9月政府は緊急輸入の決定を行った。さらに、国内の世論を大きく二分し激しい議論が交わされてきたコメ市場の開放問題について、1993年12月、日本政府(細川首相)はガット(「関税と貿易に関する一般協定」)のウルグアイ・ラウンドでの「コメの部分開放」を認めた。こうして、1993年は、百年に一度という大冷害、大量のコメの緊急輸入、そしてウルグアイ・ラウンドの決着に伴うコメの部分開放、という日本の農政において大激動の年になった。
この平成の大凶作は、長雨、日照不足、低温、台風、いもち病の発生など,異常気象によるところが大きいが、同じ作況指数の地域でも、取れた農家、田圃とそうでない農家、田圃との差があり、異常気象が不作のすべての原因ではなかった。自主流通米・銘柄米への政策誘導の下、冷害に弱くてもより高く売れる銘柄米作りに走っていたことが不作を拡大し、農業跡継ぎの欠如と高齢化の急速な進展、稲作労働が経済的にペイしないことによる農業労働力の弱体化で、深水管理による低温防止をはじめ手間隙のかかる稲作作業の基本技術を励行できない状況が不作を深化させたといわれる。また、コメの緊急輸入は、冷害という「天災」だけでなく、それまでの政府のコメの減反政策や国家備蓄量の誤りなどから生じたという点も否めない。
1993年の緊急輸入の量は当初20万トンの予定だった。タイからの加工用が大部分だが、1万5千トンのアメリカからの主食用も含まれている。そしてその後の輸入については、日本政府は年度内(94年3月)までに90万トンを輸入することを決め、さらに1993年も押し詰まった12月の27日になって、1994年の秋までの輸入量は最大で220万トンにも達するという数字が食糧庁から発表された。この大量のコメの緊急輸入は、この日本のコメの総需要の約2割以上となる量であったが当然大部分が主食用としての輸入となった。(最終的に政府はアメリカ、中国、タイなどから合計250万トン以上の米を緊急輸入した)
1993年11月18日の午前9時過ぎ、タイ産の加工用米7000トンを積んだ同国の「タンジュン・ピナン号」(7700トン)が横浜港に到着。この船は緊急輸入の第1陣で、1984年に韓国米を輸入して以来、9年ぶりの本格的な外国産米の輸入となった。この日、岸壁には早朝からコメの輸入に反対する農業団体や労働組合のメンバーら百人近くが、シロ旗や赤旗を翻してシュプレヒコールを上げるなどしていたが、「輸入は政府の自給策の失敗」とか「コメを守れ」と記されたタレ幕を掲げた漁船2隻が貨物船に接近して抗議行動を行った以外は、目立った阻止活動はなかった。
このコメ不足は、1994年3月初には、米を買い求める長蛇の行列・国産米異常人気・自由米の高騰といった平成コメ騒動を引き起こした。コメ不足などから米価が暴騰し、この米価の暴騰を抑制するため食管法によるコメの需給と価格の安定を求める意見が強まったが、米の販売業者のなかには一攫千金を狙った買いだめや売り惜しみを行う者も出現し、小売店から米が消える現象さえ生じた。生産者の間にも独自販売が多くみられ、米の流通は大きく混乱した。タイ、中国、アメリカなどからの海外から大量にコメを輸入したが、味や安全性への懸念以外にもこの輸入米の一部に変色米、カビ米、異物などが発見されたため社会問題ともなり、国産米への異常人気が起こった。日本政府はこの事態を解決すべく94年産の生産調整目標を緩和し,復田政策も実施。結局この「平成コメ騒動」は94年産の作況指数が109の史上空前の豊作となったため解消した。
このコメ不足騒動の中で、日本人には慣れない長粒種で、「パサパサしてる」「においが強い」と特にタイ米が日本で評判が悪く、国産米に長蛇の列ができる一方で、緊急輸入したタイ米は店頭で売れ残ったままになった。更に輸入米の販売が本格化する直前の1994年2月28日、日本の国会で、輸入されたタイ米からネズミの死体が見つかったという指摘が為され、タイ米の不評に拍車をかけた。こうした日本側の反応に、一時、輸出元のタイ側では反発が強まった。またその一方で、日本人の間にタイ米のおいしい食べ方に関心が集まったりした。
主たる参考文献:
『平成コメ騒動覚え書』(征木 翔 著、データハウス、1994年5月)
『コメ開放 どう変わるか日本農業』(中村靖彦 著、NHK出版、1994年2月)
『日本農政の50年 食料政策の検証』(北出俊昭 著、日本経済評論社、2001年6月)
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