メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る 第15回

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      第15回
  
サイゴン陥落後、日本に来て入国を希望した初のベトナム難民

 

 

 1975年5月12日午後、北九州市・八幡港に入る予定のパキスタン貨物船で、シンガポール沖で救助された南ベトナム難民二人が日本に到着することとなり、日本への上陸を希望との事で、4月30日、サイゴン政権が解放勢力に無条件降伏して多数のベトナム難民が米国などに渡ったが、本件が日本へは初のケースとなった。法務省では「遭難者を救助したケースと同じく、本国に送還するのが通例だが、送還先がなくなっている以上、難民の意思を十分尊重する必要がある。係官を八幡港に派遣し、処置を決める」とその対応に戸惑った。

 

 この貨物船は、パキスタンの「ナショナルシッピング・コーポレーション・オブ・パキスタン」所属のSARFARAZ・RAFIQI号(9,406トン、66人乗り込み)。4月27日、パキスタンのカラチを出港、八幡港に向かった。途中、シンガポール沖で南ベトナム難民2人を救助。船長から日本の代理店グローバル・マリーン社(本社、東京・日比谷)にあて「シンガポール当局から難民の上陸を拒否された。日本で上陸できる手はずを取ってくれ」と連絡してきた。グローバル社が法務省入国管理局、外務省に連絡を取ったが、「慎重に検討するが、難民が旅券を持っていない以上、出入国管理令により、原則として入国は認められない」との回答だった。

 

 このため同船はシンガポールに引き続き、香港、フィリピンに上陸許可を申し入れたが、いずれも受け入れを拒否された。このベトナム難民2人は、カンホア省出身の若い兄弟で、サイゴン政権が降伏した1975年4月30日、小船でサイゴンを脱出したが、船はシンガポール沖で漂流し、漂流中にパキスタンの貨物船に救助された。

 

 この南ベトナム難民2人に対し、①本人が本国への送還を希望するかどうかは疑問だが、希望すれば容易に解決する ②日本以外の第3国、たとえばアメリカ、カナダ、フランスへの”亡命”を希望し、第3国がが承認すればその手続きをとる ③日本移住の希望があり、日本に確実な身元引受人また親族などがいれば、制度的には可能だが、不法入国などの場合にはむずかしい ④救助した船の母国が最終的に処置することを前提に、法務大臣権限で「特別入国・滞留」の保護も可能 のケースが考えられた。南ベトナム難民2人の処置に対し、下関入国管理事務所は、法務省の指示により、さしあたりの処置として入国は認めないとの態度を決定。

 

 パキスタン貨物船は、5月12日午後6時半過ぎ、関門港外の六連検疫泊地に着き、検疫、入国手続きをしたが、南ベトナム難民兄弟は、同船とともに5月13日、北九州市八幡港入港、その後大阪を経て、5月25日横浜港に入ったが、日本の法務省はどの寄港地での2人の上陸を許可せず、2人は船内から一歩も外に出られなかった。

 

 北九州市の八幡、小倉両港で上陸を許されなかった2人を乗せたSARFARAZ・RAFIQI号は、5月18日午後1時45分、大阪港に入港。2人の取り扱いについて、法務省の方針が決まっていないため、大阪入管大阪港出張所でも、パスポートを持っていないことや船員でもないことを理由に、兄弟の上陸は認めなかった。2人を乗せた同船は、5月25日午後零時30分過ぎ、横浜港に入港。法務省の「上陸禁止」方針で、小倉、大阪港など、どの寄港地でも一歩も船外に出られなかった2人は、横浜港でも上陸は許可されなかった。同船が港外に錨をおろすと同時に、横浜入管の係官が乗船、法務省の「上陸禁止」方針を改めて伝えた。

 

 南ベトナム難民兄弟を救助し日本に乗せてきたパキスタンの貨物船SARFARAZ・RAFIQI号は、6月始めにはパキスタンのカラチに戻る予定になっていたが、5月29日夕、在日米大使館が米国への受け入れを承認。南ベトナム難民兄弟は、5月30日午前、羽田発の日航機でグアム島に向かった。

 

 尚、サイゴン陥落後、日本に始めてベトナムからのボート・ピープルが上陸したケースは、1975年5月11日午前3時50分ごろ、千葉港に到着したアメリカのコンテナ輸送船グリーンハーバー号(32,000トン、バルマット・チャールズ船長)に救助された南ベトナム難民9人。東京出入国管理事務所千葉港出張所の話によると、この9人は南ベトナムの港湾関係者ダン・タン・フイさん(43)の家族8人と知り合いの9人。彼らは翌5月12日午前6時ごろ、東京出入国管理事務所千葉港出張所から出入国管理令に基づく「水難上陸許可」が出され、9人はグリーンハーバー号の船舶代理店の車で羽田空港へ向かい、同10時半発のパンアメリカン航空803号でグアム島の収容施設へ向かった。グリーンハーバー号は、1975年4月27日、サイゴン市南方のブンタウ港で9人を乗せて出港、途中、インドネシア、シンガポール、マレーシアの各港に立ち寄ったが、軒並み入国を拒否されたという。

 

      

          主たる参考引用文献:

               1975年5月の朝日新聞、読売新聞

 

昭和50年(1975年)5月13日 火曜日 朝日新聞  総合(3)

 

   漂流中を救助したベトナム難民二人を乗せたパキスタン貨物船「サファラズ・ラフィキ」(9406

  トン)は12日午後6時半過ぎ、関門港外の六連検疫泊地に着き、検疫、入国手続きをした。難民

  は若いベトナム人兄弟で、国家警察学校生徒のラム・ミン・ロクさん(20)と高校生のラム・ミン・

  タム君(14)。二人は「できたら、ずっと日本に住みたい」と、日本への入国、永住の希望を明らか

  にした。

 

   同船は予定を変更して、13日朝9時、北九州市八幡港の新日鉄八幡製鉄所構内16号岸壁に

  接岸する予定だが、法務省の指示を受けた下関入国管理事務所と同八幡港出張所は「二人が

  正式な旅券、査証を持っていない限り、上陸を認めない」といっており、二人の処置をめぐって、

  法務省当局や政府は新たな課題を背負うことになる。

 

   兄弟は中国系で、林明禄、林明義という中国名もある。カンホア省出身。

   二人は元気で、行く先については「日本がだめなら、アメリカに行きたい。ベトナムには帰りたく

  ない」といい、南ベトナム脱出の模様や、ラフィキに救助されるまでの苦難を、兄のロクさんが次

  のように語った。

 

   戦争が激しくなるにつれ、大群衆が逃げだし始めた。4月30日朝、小さな船に2千人近くが殺

  到して乗り、港を出た。

   自分は警察学校に入っていたので、解放戦線が来たら、殺されるか、連行されると思い、脱出

  することにした。

 

   父も別の船に乗ったが、途中でわからなくなった。やがて、船の食糧や油が底をついた。船は

  シンガポール港沖で漂い始めた。近くを通る船は、なにもしてくれなかった。やがて、船が故障

  したのか、傾いたのか、人がどんどん海に落ちていった。自分たち二人も落ちたが、安全ブイに

  つかまることができたが、漂流が激しく、どんどん沖へ流され、もうだめかと思った。

 

   漂流が24時間以上になった。6日朝、パキスタンの船が見えたので「助けてくれ」と叫んだ。助

  けられ、甲板に上がったときは、涙が出た。

   救助されるまでの3日間、食事はできなかった。漂流中、天気がよかったので助かった。

   しかし、いっしょに漂流した多数の人々は、おぼれ死んだはずです。