メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る 第7回

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江戸幕府8代将軍

徳川吉宗

 (1684年~1751年)

 

 貞亨元年(1684年)10月21日、紀州2代藩主・徳川光貞(徳川頼宣の嫡男)の第4子(母は側室・お由利)として、和歌山の藩主公邸の吹上屋敷に生まれる。

 徳川光貞の長男は

頼職。

 幼名は源六、それから新之助、頼方と名乗った。

 

 元禄8年(1695年)、従5位下主税頭、翌年には従4位下左近衛権少将、元禄10年(1697年)4月、越前国丹生郡で3万石の所領を与えられた。(封地に自ら赴く事はなく家臣を派遣し治めさせた)

 

 その後、宝永2年(1705年)に紀州家3代目藩主であった長兄・綱教が死に、ついで次兄・頼職も同年9月急死。紀伊徳川55万5千石の5代目藩主になり、5代将軍・綱吉の名乗を一字もらって吉宗と改めた。

 

 12年間、藩財政の再建を始め、紀州藩主として治世に努力し、賢候として好い評判を得たが、正徳2年(1712年)に6代将軍・家宣が死に、あとをついだ4歳の家継も、享保元年(1716年)に8歳で死んで徳川宗家の血統は絶え、吉宗が入って8代目の将軍となる。

 

 延亨2年(1745年)3月、徳川家康の130回忌の法要を行い、同年9月、徳川吉宗は将軍を辞任、嫡子・家重(生母は側室おすまの方)に将軍職を譲り、後見として幕政を補佐。

 宝暦元年6月20日、病死(享年68)



       徳川吉宗とベトナムの象


  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗といえば、幕府中興の英主として知られているが、一般には、質素倹約を強調し、緊縮政策をとったという「享保の改革」のイメージが強いと思われる。しかしながら、徳川吉宗が海外のものに強い関心を持った進取果敢な精神の持ち主でもあり、享保と言う時代が、鎖国体制下にありながら日本人の海外への関心が高まり開明的な雰囲気があった時代ということは、見過ごされているかも知れない。

  徳川吉宗が中国商人に注文して象を輸入したことも、享保期における吉宗を飾る事蹟の一つだ。この象は交趾広南(ベトナムのホイアンあたり)のものと言われているが、1727年(享保12年)に徳川吉宗の注文に応じ、象を連れてくることを約束した中国人の船頭・呉子明の返答文には、中国の諸省には象は居ず、暹羅(シャム)の地方より出るものとか、象の小屋や飼い方は暹羅(シャム)で訪ねるなど、暹羅(シャム)の名が登場する(『和漢寄文』の中にあり、幕府の外交文書集成『通航一覧』では巻175に引用)。

  生きた象が日本に渡来したのは、この享保期が初めてではなかったが、海外の船が象を積んで日本にやってきたのではなく、徳川吉宗自らが発注し求めたものであることや、象が長崎から江戸まで陸路で運ばれ民衆に至るまで多くの人が目にする事ができたこと、更には出版界(書物、漢詩集、瓦版、錦絵など)や歌舞伎、象をあしらった関連グッズ販売等、各分野で象ブームがまきおこるなど、室町期などの過去の象の渡来とは画期的に異なるものであった。

 享保13年(1728年)6月13日、牡と牝の2頭の象が、長崎に到着。象を運んできたのは、鄭大威と名乗る中国人の船であった。2頭の象には、潭数、漂綿の2人の広南(ベトナム)人象使いが付き添っていた。同年7月1日、長崎から江戸に出された注進状には、初めて実物の象を見た当時の人による象に関する興味深い観察が伺えるが、「男象遣ひ一人、四十五六才、常の唐人とは相変り、乱髪官人、出立下に紅紗を著し、萌黄練綾を著し、二尺の鳶口を手縄として、象に打込自由に引廻し申候。女象遣ひ一人、三十二才、出立右に同し、この両人ともに象に跨りなから、本船より役所へ乗移申候。」と、2人のベトナム人象使いについても触れている。ベトナム人象使いの通訳には、漳州人の李陽明、広東人の陳阿印の2人があたったらしい。

 メス象の方は、長崎到着3ヶ月後の享保13年(1728年)9月に死亡するが、残ったオス象は、翌1729年3月、陸路で江戸まで向かうべく、長崎を出発する。途中、京都においては、ベトナム象に「従四位広南白象」という位が与えられた上で、1729年4月28日、朝廷に参内。中御門天皇(114代、在位1709年~1735年)、霊元上皇(112代)の御前に姿を見せ、うやうやしく前足を折り曲げ、最敬礼の所作を演じている。象が江戸についたのは、5月25日で、江戸市民の熱狂的な歓迎を受けながら、市中を練り歩き、浜御殿に収容された。2日後、徳川吉宗は、象を江戸城に召し、大広間の前庭において観覧した。その後10年以上にわたって浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で幕府が飼育にあたったが、その間、徳川吉宗は、象を見るのを楽しみの一つとし、何度か江戸城に召し出したと言われる。

  この象自身は、その後、民間に払い下げて飼ってもらうことになり、1741年4月、「見晴らし」という屋号の掛茶屋も営んでいた中野村(現・東京都中野区)の農民・源助が引き取った。源助は象小屋を訪れる人から見物料を徴収するばかりか、象の糞を乾燥させ、幕府の許可を得た上で、薬として売り出しもしたという。しかし管理の悪さから、翌寛保2年(1742年)12月、象は病死した。死体の皮は、幕府が接収し、頭骨と2本の牙と鼻の皮は源助に与えられている。

 主たる参考文献:

   『徳川吉宗』

       (百瀬明治、角川選書260、1995年2月発行)

   『徳川吉宗と康熙帝ー鎖国下での日中交流

       (大庭 脩、大修館書店 アジアブックス019、1999年12月発行)


  ベトナム象の江戸・享保期来日関連年表

    1728年(享保13年)

      6月13日  オス象(7歳)とメス象(5歳)の2頭のベトナム象が長崎入港

      9月11日   メス象が舌にはれものができ死亡

    1729年(享保14年)

      3月13日  オス象は江戸に向けて長崎を発つ

        (3月22日下関通過、4月18日兵庫泊、4月19日尼崎泊、4月20日大阪着

        4月25日伏見着、4月26日京都入り)

      4月28日  朝廷に参内    

      5月25日  江戸入り、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に到着

      5月27日  江戸城で徳川吉宗と対面

    1741年(寛保元年)

      4月     中野村(現在の東京都中野区)の農民・現助に払い下げられる

    1742年(寛保2年)

      12月11日 オス象も死亡(病死、21歳)